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人生経験22年の青二才が人生について考えてみる 〜その2〜

前回に引き続いて人生について考えてみようと思う。ただ、前回とは全く違う方向性になるのかもしれない。特に何かが頭の中にあってそれを書いていくってよりは、思ったことをただただ書いていこうと思ったからだ。

何を求めているんだろう

前回初っ端に、人生は欲を追いかけるだけのいたちごっこと言った。多分これは真理で間違いはないだろう。ただ、「欲」ってものが、自分の欲しいものがしっかり分かっていればいいのだが、それを見つけ出すのがなかなか難しかったりする。

シンプルな例でいくと、何が食べたいのかわからない状態でレストランに入る。その時に、メニューっていう選択肢が与えられた場合、多分人はその中から何が食べたいのか選ぶ事ができる。しかし、それは本当に「欲」なのか。どちらかというと与えられた選択肢から選んだってだけで、本当に食べたいものではない。
それが、もしもメニューが与えられず、好きなものを作ってやるって言われたらどうだろうか。多分それも同じことだ。自分の経験にある食べ物の中から好きなものを選んで注文することになるだろう。それはある意味では「欲」なのかもしれないしそうじゃないのかもしれない。

まったく結論が出ない。わからない。
この話はやめよう。

縛られたくない

人生っていう一般的な話から自分がどう生きたいかの話になる。
この世界は息苦しい。いや、僕の知ってる世界は息苦しいと言った方が良いのかもしれない。この世界なんて大層な言葉使えるほどに世界を知らないから。なにが息苦しいかって多分生きるってことに縛られていること。生き続けても死んでもいいやって思えるぐらいには生に執着しなければ、もっと世界は生きやすい場所になるのかもしれない。
世界を生きやすくするために、生きることに執着しないといけないなんて理不尽だけどね。
なにかに執着している間はその何かからの対価って得られないんじゃないかな。

仏教の教えにも、「苦」(dukah)なるものがあってこの「苦」は世間一般の大衆が考える苦とは別物だ。この「苦」を滅殺することができた時に人は悟りを開けるとのこと。この「苦」っていうものの中に執着心に近いものがあって、つまりは悟りを開くには執着心を殺さないといけない。分かっていることと出来ることってのは違って、執着心を殺すってことに執着したらそれは執着心なのだから、分かっていて出来ることではない。

話を戻そう。縛られたくない。「生」に縛られているときっとお金にも縛られることになるんだと思う。少なくとも僕の知ってる世界ではそうだ。お金がなければ必要最低限の暮らしはできないし、必要最低限の暮らしを求めるのは「生」を求めているから。そのためにはなんらかの形でもお金を手に入れないといけなくて、多分一番手っ取り早いのが誰かのお金を貰うこと、それが合法かつ安定して出来るのが仕事なわけだ。法に縛られている時点でどうかとは思うかもしれないが、他人に迷惑をかけることが分かっているのにその行為に走るのは何か違う。ということで、ある程度は法を遵守しようと思う。そんな流れでだんだんと縛られていくものが増えていくわけだ。

つまり、「生」への執着心さえなくなれば生きるのが多少は楽になるんじゃないかな。

またなにか考えたらその3へと続きます。

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