友達って何

新年度も始まって一週間が経ちました。 新型コロナウイルスの影響で新入社員の方々は早速リモートで働くことになってしまった人など多々いるのではないでしょうか?こんなご時世ですが、4月というのは新しい環境に一喜一憂する月、それはコロナの影響があろうと関係無く今年も例年通りなのではないでしょうか?

さて、新しい環境といえばやはり人間関係。そんな中でも友人関係というのは生活していく上でかなり重要度の高い項目。 「友人」「友」「友達」「アミーゴ」、これらはどこから始まりどこで終わってしまうのか。そんなことをああでもないこうでもないと仮設を立てつつそれを否定しながら、つらつらと書いていこうと思います。


2回会ったら友達

2回会ったらというか、1回目にはじめましてをして、2回は約束を取り付けて会うという行為をしたら多分それは友達って認識でいいんだと思う。わざわざ時間を割いてまで「共有する時間を過ごす」という行為に一度あっただけでできるのだから。それはきっと友達。

って思ってる時期が僕にもありました。

実際のところ、2回会ったら友達とか、アポをとって打ち合わせをする営業マンなんて友達の範囲広くなりすぎるだろ。

実は僕、ビジネスマッチングアプリなるものを使って一時期色々なおじさんたちにあってました。そうなんです。ビジネスマッチングアプリって基本的におじさんたちしかいないのです。そんな中、共通点が何個かある比較的若いおじさんに会って、(実は初めてあった日の朝、起きた瞬間からジンを飲んでいたことは秘密)その後もまた会おうって話になっていたんです。この記事を書こうと思ったのはその時で、もしかしたら上京してから初めてのTOMODACHIみたいな感じですこしウキウキとしながら二度目も会ったわけですが。というか、 僕はその時全然知らなかったんですが、この世にはいろいろな会員制のコミュニティがあるんですね。月額を払ってセミナー受けたり、飲み会をしたり。実際そういったところで得られる情報は結構有益なもので人生を豊かにしてくれたりはするのですが、完全に偏見丸出しマンなんですが、「怪しい」の一言で片付いちゃうんです。

そう、その時もまあそういった関係で二回会うなんてことはコミュニティに人を勧誘する立場からしたらそれはもう物を売りに来る営業マンと同じで、一度射程圏内に入った魚は逃さんぞと。悟られないようにそっちの方向に誘導していく。プロだよ。

と、そういった経験があるため、最初の仮設「二回会ったら友達」は却下です。どっかにそんなことを歌ってる歌あった気がする。(YUIのagainです。気になったので調べました。)

横の関係

二回あったら友達論はことごとく潰れましたが、もともとこの前提がないと成り立たない話なのかなとも思ってます。「二回会ったら」って時点で職場の人間とはかなりの高確率で二回以上会うし、スーパーの店員さんだって二回合うのは難しいことではない。ただ、会社の関係だったら同僚以外は上下関係なるものが生まれるし、スーパーの店員さんでも消費者と生産者のような構造が生まれる。(スーパーの店員さんは生産者ではないと思うが)

つまり、友達になるっていうのはある程度対等な関係、横の関係ではないと成り立たない。自分の会社の上司と友達かって聞かれるといくら仲が良くとも、上司と部下、それ以上でもそれ以下でもない関係なのではないかと思う。というか、一度友達ではない関係でスタートした人間関係というのは友達という人間関係に持っていくのがかなり難しいと思う。

これっていうのも、第一印象の原理と同じようなもので、友達ではない関係からスタートしてしまうとその印象、関係が薄れるまで新しい関係っていうのは意識しづらいのではないかと思う。自分の家族を友達と呼べるかと聞かれたら、多分答えはNO。多分これは家族という認識が一番最初に来てしまうからだろう。韓流ドラマによくある恋人同士になったと思ったら実は生き別れた兄妹だったとか、最初に認識した関係が友達、もしくは恋人だったのに、それが家族だなんて言われたらそれはそれで困ってしまう。最初の認識というのが大事なのではないかと思う。つまり、家族と友達というのは奇数と4の倍数ぐらいには相互に排他的な存在なのである。

このアプローチいいかも。相互に排他的なもの。友達とはなにかというアプローチではなく、何が友達ではないのか。それではまずは友達だった人が友達ではなくなる瞬間というのを考えてみよう。

友達が友達ではなくなる瞬間

まず最初に考えられるのは恋人同士になる。友達が1:nの存在に対して、そのnの中から恋人というのは決まり、1:1の関係になる(1:mの人もいるだろうけどそれはさておき)。なので、友達と恋人というのは相互に排他的な存在なのではないかと思う。しかも、一度恋人という関係に昇華してしまったら、もう友達という関係に凝固するなんてことはかなり難しくなってしまう。(実体験)

他に友達が友達でなくなる瞬間というのは正直考えつかない。というわけで現在のところ、

家族∩恋人∩友達 

という数式が成り立つ。

知らない人は友達じゃない。

まぁ当然だ。当然だと思うが当然というわけでもない。僕はかつてコスタリカというとても国民が陽気な国に住んでいたわけだが、彼らは誰彼構わず「¡Hey Amigo!」と呼びかけてくる。そう、お察しの通り、「Amigo」と言うのは友達という意味に当たる単語だ。つまりは、俺はお前のことを知らないがお前は俺のことをAmigoと認識しているという状況が多々発生するのだ。これを踏まえると友達って何って話になってくるが、日本語の「友達」という単語とスペイン語の「Amigo」という単語には概念としての差があることが認識できる。つまり、Amigoではあるが友達ではないとういうところにいる人間が少なからず存在するわけだ。そして、Amigoに家族も恋人も含まれない。ので、友達というのはAmigoの部分集合である。

家族∩恋人∩(友達⊆Amigo)

そして、赤の他人というものとAmigoには共通集合が存在する。と思ってしまいがちだが、Amigoと呼びかけられた瞬間その人はAmigoになってしまうため、これらは相互に排他的である。

家族∩恋人∩(友達⊆Amigo)∩赤の他人

正直こんなことをしているときりがないと思い始めてきたので、少し自分と自分が友達と読んでいる人との出会い方についてまとめてみようと思う。いわゆる演繹法というやつを用いて友達とは何かを定義してみようと思う。

偶然というか必然

今日の段階で仲のいい友達は数人いる。そんな人達との出会いのエピソードについて少し語らせてもらいます。

友人A

彼との出会いは麻雀だった。高校一年生になってすぐの頃、中学時代の友達に誘われて麻雀を始めたときに友人Aはそこにいた。初めて会った瞬間から、初めてじゃない感がものすごく強くて、昔あったことがあるのではないかと思うほどではあったが、そんなことはない。はじめまして。

それから初期段階での共通点というのは麻雀のみで、それ以来もなんというか共通点はやっぱり麻雀のみ。小中高大全部違うし、住んでる市も違う。それなのに、知り合ってから6年目、年によっては家族よりも過ごしてる時間の長いやつ。偶然と言ったら偶然だし、必然といったら必然なのだろうが、これは偶然の出会いだったのだと思う。今となっては僕の拙い日本語をしっかりと噛み砕いてくれる数少ない逸材。頭の悪いことを一緒に本気でできるから好き。

友人J

彼との出会いは、高校の体験入学だ。愛知県の公立高校には夏休みの間に体験入学というものがあり、その時に同じ体験授業で同じグループになった彼はその日限りの出会いであった。が、無事同じ高校に入って違うクラスになったものの、互いに互いのことは覚えていて、さらになんやかんやとからみがあったりと。ある日、自転車で通学した僕は一緒に変える人を探していて、偶然この友人Jに出会ったために、彼から弁当箱をかっさらって一緒に帰らせるという強硬手段に出た。その日の帰り道で一緒に生徒会室での仕事をやろうということになって、仲が良くなり始めた。と、あの体験入学の時のことがなければこんな強硬手段に出ることはできなかっただろうし、やはりこれも偶然というか必然というか、なんらかの偶発的なイベントが基になっている。高校二年生になってからは名簿順で前後になったりと。人生って面白い。

友人K

彼との出会いは(って俺男友達しかいないじゃん)麻雀だ(またかよ)。高校生の時に麻雀を中途半端にやっていたせいで、アメリカの大学に行ったときに麻雀ができない反動が強すぎて麻雀欲がものすごく強かったときだ。なにかのイベントで立ち寄ったところで、麻雀を打っている人間がいた。いや、麻雀自体は中国人も打つので珍しいというわけではないが、日本の麻雀を打っている奴がいた。まぁとりあえずあっぱれだ。というわけでその日作っていたチャーシューをご馳走したのだが、そうだよ。麻雀なんだよ。彼とは大学にいる間に、非公式の麻雀クラブを作ったり、スマブラチームに入ったり、数学の学会に行ったりと一人だったらやらなかっただろうし出来なかった様な事が一緒に出来たので感謝感謝。

友人L

彼との出会いは、コスタリカの移民局オフィス。それまで経済の授業で一緒だったのだが、話す機会は全然なかった。事の発端は、彼がマリオの歌を鼻ずさんでいたから、お前マリオやんの?って声をかけた。そこから彼はかなりのゲーム、料理好き、野生児ということが発覚。僕自身も小さい頃からかなりのニンテンドーゲーマーだったので、スマブラやポケモンの話で盛り上がった。コスタリカにいる間に、日曜日は一緒に飯作ろうぜとか、山にキャンプ行こうぜとか、火吹いてみようぜとか、サーフィンしてみようぜとか、火炎放射器作ってみようぜとか。裸足で学校内一緒に走り回ったり、水泳で競争したり、素人スマブラで白熱したり。まぁ何やっても楽しかった。大学の進学先は違うし、彼は海軍に一年入ったから学年も違う。それでも夏休みには居候させてもらったり、感謝祭のときには一緒にスキーに行ったりと、今でも仲良くさせてもらってます。コスタリカに居た2年間が楽しく充実したものになったのは彼の存在があったからというのがものすごく強い。また一緒に旅行したいなぁ。

つまり友達とは

ありがたいことに今となっては友達と呼べる人が複数人いるわけですが、これでも2年に一度ぐらいのペースで引っ越しをする転勤族だったので、新しい場所で友達を作ってはまた引っ越しという生活を繰り返していました。そのせいで小学生の頃の友達とは(今でも友達と呼べるのか)最近では連絡を取ることですらほとんどありません。(社会人になってから一度だけ小学二年生の頃の友達と飲みに行きました。SNSってすげー)日本国外に住んでいた時期が7年ほどあるわけですが、そのうちの2年ほどは基本的に友達と言える人が一人とおらず、たった一人でいいからなにかあったら純粋にその共有が出来て、気が向いたらなんの抵抗もなくご飯を食べるなりなにかして遊ぶなりできる人が欲しいと絶えず願い続けてました。

これですかね。友達って。無条件に本当にどうでもいいことや嬉しかったことなどを共有ができて、気が向いたら電話をかけたり連絡ができる相手。ごはん食べに行こうってなったら時間あるから行こうってなって、時間ないからごめんって言われても、ああそうかぐらいで済んでしまう関係。遅刻してきたら「おせーよ」って普通に言えて、おならをしたら「屁出たわ」ぐらいに言える相手。そして、何よりも素直に感謝できる相手。なんだか色々と遠回りしてきましたが、結論を聞いたところでなにか新しい発見があるわけでもないし、まぁそんなもんかってぐらいの内容ですが、ここまで暇人の戯言につきあっていただきどうもありがとうございます。まだまだ友達論については書きたいことが色々ありますが、今回はこれぐらいにしておきます。

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