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「特別」であり、「特別」でないこと

東日本大震災から何年か経ったけど、復興は遠い道のり。阪神大震災もそうだったけど、復興はあるようでなくて。大きな爪痕を残しつつも新しい何かを創り上げていくしかない面もあって・・・

そうしていずれかの日には何らかの「特別」が刻み込まれる。年表を見れば過去の出来事が幾重にも書き込まれていることが解る。

もう日本(もちろん世界中で)ではどこでも災害も事故も事件も起きてて。自分史上にも記念日もあれば色々な「特別」があって。

それらが日常に全部並んでいくと毎日が「特別」であり、逆に大人になって感覚が麻痺してきて「特別」ではなくなっていく。それこそが日常になっていく。


だからこそ圧倒的な日常に流され続けず、「特別」に見返したり、心を傾けてみるのも大切だったり。1日1日を特別な日だと考えてみる。大事に大事に過ごす。でもやっぱり毎日が特別なのはそのうちそれが「普通」にも変わってしまう。

そんなことをつらつら思いながらこのnoteに向き合っています。

あの震災で人々の意識は変わった。変わったはずだったけど、もう変化しているという言説もあります。でもすでに違っていたとしてもあの記憶は忘れないし、刻み込まれている。

あの日から立ち止まることはなくて。時計は動き続けていて。

だから変化していくのも当たり前。一見忘れたかのように見えて、大抵はきちっと刻み込まれ、ただ奥底に押し込められたり。「特別」が「特別」でなくなっているように見えるだけ。


でもやっぱり今日、この日はこのようなnoteを書いて心を整理したいなと思う日なんですよね。

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