見出し画像

ある意味での「不遜さ」がないとアウトプットは出来ないかも?

謙虚さは大事。だけど謙虚であろうとするとアウトプット、仕事も指導や発信も出来ないと思うんですよね。ある種の「不遜さ」が大事で。美学や美徳も良いけど、今の時代、これからの時代「知」や「情報」面では特に不遜さも持ち合わせて行動する必要があると思うんですよね。

使い分け大事。


一方で「知」への謙虚さは大事。特に学ぶ時、教えを請う時は素直さと謙虚さを持ち合わせて、時に貪欲に学んでいくこと。情報を収集していくことが大切ですよね。

「無知の知」

自分がいかに「知らない」かを知ること。謙虚に「知」と向き合うこと。


ただ一方で、発信や意見を出すこと、誰かに指導したり教え、伝える時に「謙虚」さを出してしまうと意見は出せないし、伝えられませんよね。黙っておくことが美徳になってしまう。

こうしてnoteを書いたり、発言すること自体が「不遜」だというならいっそのことそういう場面では不遜であった方が良い。

もしかしたらその意見は何かが不足しているかもしれない。それは当たり前で、全てを網羅しようとするなら何百ページにも及ぶ論文、レポートを「意見」として提出する羽目になる。

それは書く方も見る方も大変ですよね。


だから端的な「意見」として出すわけだし、140文字に込めたりする訳で。もちろんいい加減な意見や発信は避けた方が良い。フェイクや明らかな誤解は避けるべき。

その辺りのバランスを取りながら「不遜さ」を持ち合わせましょう。

どうも「謙虚さ」の美徳を重視する人が発信者、創り手にも多い気がします。大丈夫!どんどんいきましょう。きっとそのnoteは誰かの役に立ったり、楽しみになるから。

読み手はあまり批判的に考えないようにしましょう。学びの謙虚さと同じように創り手、発信者に求めてしまうとせっかくの情報やコンテンツ、noteや意見が出てこなくなってしまう。萎縮させてしまう。

あまりにひどいものには批判精神も必要でしょう。バランスが大事なのも解ります。謙虚さが滲み出ているnoteも好感が持てます。だけどあまりに謙虚過ぎると寂しい場面もある。もうちょっとそこは「不遜」で良いのでは?と思うところもある。


それを「自信」という言葉に置き換えれば解りやすいかもしれない。

盲信、過信は確かにみっともないけど、自信を持って堂々と発言していくのは大事ですよね。創作も同じ。

どんな専門家、当代きっての超一流も素人時代はあるはず。世に出るまでに下積みは必ずあるはず。今の時代はその下積み時代から発信、披露し、世の評価を受けてシェイプアップし、よりスピーディーに上昇することが必要。


是非とも、特に謙虚過ぎる人は発信への不遜さを持って楽しく創作、書いてみては如何でしょう?

肩書も、専門家として活動する時も。自信を持てる範囲になったらえいやと「不遜」に名乗り、活動するしかありません。いつまでも謙虚に、控えめにやっていても仕事が依頼されるわけではありません。

アスリートもレースに出てなんぼ。まだまだトレーニングがとか言っているといつまでも試合に出れない。もちろん充分なトレーニングを積んだほうが良いけど、その充分さってどこにあるかも考えないと。

試合に出て学べること、次への課題、トレーニングの修整なども出来る訳で。仕事も活動も同じ。どんどん場に出てみる。現状の力の中で出せるものを出す。「真摯」に向き合っていけば良いと思います。

その辺の絶妙なバランス感覚を持ち合わせてどんどん思い切って取り組んでいきたい、活動していきたいですよね。


この記事が参加している募集

noteでよかったこと

いつもご訪問、お読み頂きありがとうございます。 すき(ハートマーク)を押して頂いたり、コメントやSNS等にシェア、サポート頂けると励みになります。サポート、応援頂いた分は必ず、活動する中でみなさんにお返しして行くことが出来ると思います。今後もお付き合いを宜しくお願い致します。