ジジイ継承説

芸歴も重ねて、味方も増えて、評価してくれる人も少しずつ増えて、自信も増して、ライブとか平場とか、その他いろんなところでちょっとずつ言えることが増えていって、なんとなく自分の存在が大きくなった気でいたけど、相応に危うさが増しているとも感じる。
やっぱり人の目は気になるし、大きな場所で何もできなかった時に何倍もダメージを受けている気がする。何もできなくてもとりあえずまだ大丈夫と高を括れる時期はとうに過ぎている。

下手こいたら凹むけれども、それでもまあ、なんもかんも役割を持たずにじっとにこにこヘラヘラしていた時よりはきっとなんかしらかの足掻きになってると信じてる。リスクを負ってでも、基本的にはモリモリ行くしかないと、それで良いと思ってる。



ベローチェでオラオラのおじいさんにタメ口をきかれて、そんな人がいることはもう何度も何度も当たり前に言われてきていることなのに、今更変わるもんでもなかろうに、新鮮に嫌気が差してしまった。
嫌気が差してしまったし、むしろ
「何度も何度も言われてきていることなのに、こんなにも現実は変わらないのか…」といっそうやるせなかった。オラオラのおじいさんがそんな言説を目にするはずがない、自分のこととして受け取るはずがない、それしきのことにやるせなさを覚えるのがいかにナンセンスでMPの無駄遣いか、冷静に考えずとも明白なのに。


おおらかに受け流すことはとうに諦めていて、「でも僕は、僕を貫くのだ」みたいな最近覚えた自我の剣をタチ悪く振り回しているが、こういうある種の正義感(正義剣)を振り回している人間こそが、そのままタメ口爺さんになっていくのではないか。おおらかににこやかに過ごしている人が、突然変異的にタメ口爺さんになることがあるだろうか、そんなことはないと思う。

タメ口爺さんに苛立たった若人が、青年が、そうした刃を諦めずに振り回していくうちにタメ口爺さんになっていく。タメ口爺さんがタメ口爺さんを再生産しているに過ぎない。自分を信じてピリついた若人はタメ口という伝統を知らず知らずのうちに授かっていっているのではないだろうか。

僕は絶対に、簡単に、見ず知らずの人に無遠慮にタメ口はきかない。でも今降りかかっている疑念は、そんな簡単な一点で済む話じゃない気がしている。タメ口こそきかずとも、なんかわからんけどあれよあれよという間に、ものの見事に、嫌な爺さんとして仕上がってしまうのではないか、最後の仕上げのアクセサリーとして、勲章のようにタメ口を授かるのではないか、そういうルートもあるのではないか、めちゃめちゃ怯えている。

図らずも自分の中に、憎くて仕方ないタメ口爺のポテンシャルを感じてげんなりする。他人は自分の鑑、同族嫌悪というシンプルな摂理に則っているだけではないか、本当にげんなりする。


おおらかな人間はそのままおおらかに、にこやかに、笑顔に囲まれながら終えていく。ずるい、自分だってのび太みたいに過ごしてのび太のおばあちゃんみたいになりたいと思っている。
でもちょっともう諦め始めている。諦めちゃ終わりだという気もするし、自分が迎えるおじいちゃん像についてああだこうだ言うのも片腹痛早い(かたはらいたはやい;片腹痛いくらい早いということ)という気もする。でもこういうのは気づいた時に、予感した時に手を打つべきなんだと思う。どうするべきとかは分かんないけど、ともかく予感した時に手を打つべきなんだろうと思う。

毛髪を心配されるケースがなかなかげんなりするぐらい増えてきた。その度に大鶴肥満が「治療にいくのは早い方が良い」と忠告してくれる。AGA治療については今年中にデビューすることを目標とする。本物の方からして「何を生意気な」と思われるくらいのタイミングで行かないといけない。そんなたらればももう遅かったらと思うとぞっとする。予感してしまったからにはもう、手を打つ。


心配するのに早過ぎるということはない、心配の早さを片腹痛いと笑ってはいけない。でも今はともかく真っ直ぐにお腹がいたい。お腹を壊している。隙を見て悲鳴をあげている。ヨーグルトを食べたり、正露丸を飲んだりしてみた。今は様子を見つつ、絶食を試みている。なんもかんもだったら病院にかかろうと思う。
おおらか人間フサフサゴーゴープロジェクトは、お腹が完全回復して、カレーやらラーメンやらモリモリ平らげてから施行したい。早く濃ゆい飯を平らげたい。


クソジジイからの逃避行。今から始める頭皮孝行。早く脳に栄養を行き渡らせたい。ラーメン食べたい。店員さんがあんまりクソジジイじゃないラーメン屋に行きたい。

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