【DVは なおる 続 無料公開分】①原家族体験(1)

はじめに

 メンズカウンセリング協会認証メンズカウンセラーの中村です。私は四年ほど前に味沢さんに当事者として繋がり、グループワークに参加し脱暴力の道へ。その後支援者としての勉強を開始し、今では東京での脱暴力グループワーク(DVやモラハラの加害者・被害者が暴力を手放し、回復するためのグループワーク)で月に一~二回、ファシリテーター(進行役)を務めることもあります。

 DVの加害・被害…実はこれらの根本は同じ問題であり、加害者性と被害者性が同じ人間の内に同居しうるというのは(本書をここまで読まれて)ご存知の通りかと思いますが、ここでは実際に被害も加害も両方体験した人間…つまり私の体験と当時の感情の動きを、社会問題を考える上での参考の為、DVやモラハラの加害・被害に苦しんでいる当事者が少しでも楽になれれば…という思いの元に開示してみようと思います。

これを読んでいただいて何か得るものがありましたら、書き手としても当事者としても嬉しく思います。

 私はDVやモラハラの被害・加害両方を当事者として体験し、DV加害者プログラムにも通い、離婚も経験し……その後家族再生センターの支援を受けることで回復し……今は再婚し一児の父となり、フリーランスのシステムエンジニアをしながら、これまでの経験を活かすべくメンズカウンセラーとして、支援者としての活動をしています。

 そんな私が、当事者の自分の傷を癒やしていく過程や、当事者自身が支援者になることの意義、DVに関わる複数の立場の体験から見えたこと等を皆さんと共有することで、DVという問題に対する世間の意識、多くの当事者が抱える問題を良い方向に変えていく為の一助になれば幸いです。

 それでは、私の当事者体験にどうぞよろしくお付き合いくださいませ。

当事者の加害者性と被害者性の同居を生で体験した幼少期

 私は一九八〇年明けてすぐ、北陸の某県で生まれました。父親は会社員で母親は専業主婦、住むのは県内の一軒家という、その字面だけを見ればいわゆる「普通」に見える家庭に生まれたのですが…

幼少の頃の記憶で最も強く印象に残っているのは、父親が玄関先で母親に対して「出て行け!」と怒鳴りながら何度も頬を殴っていた記憶です。確か私がほんの二、三歳くらいの頃だったと思います。

 今で言う「面前DV」と呼ばれるものなのですが、当時の私にはそれがどういうものなのか知るすべもなく「なんだかわからないし怖いけど、きっと『どこにでもある、なんでもないようなこと』なのだ」と感じていたように思います。自分が生活している以外の家庭のことを知る機会もなかったので無理もないでしょう。

 私が小学生の頃にも強烈な記憶が残っている親の夫婦間暴力がありました。発端は今となっては覚えていないのですが、気がついたら父親が母親を何度も何度も殴りつけ、張り倒し…母親は泣きながら包丁を手に取り自殺を図ろうとするが、父親に包丁を取り上げられてまた何度も何度も殴られる…という出来事でした。

 父に掴まれて身動きのできない母は泣きながら私に、母の実家に今すぐ電話するようにと懇願しますが、父からはそんなことをしたら只では済まさないと脅され、結局何もできなかったことが記憶に強く焼き付いています。

 そのDVの直後、私は母親に連れられて実家から避難。母親は隣の市でアパートを借りて別居しようとしていたのですが、条件面で難しかったのか他に何か問題があったのかはわかりませんが、程なくしてまた家に戻り、何事もなかったかのように暮らし始めました。

 他には、これも私が小学生の頃だったか、インフルエンザにかかり苦しい思いをしていたときに、父から母への暴言をBGMにしていた記憶があります。確か、何らかのキッチン用品だったか何かを方言で言っているのがおかしいとか、そんなどうでも良いようなことで母の人格を否定している…という内容だったように思います。

 直接的な暴力はともかく、このような暴言や威圧、人格や価値観の否定などは日常茶飯事でした。今でこそおかしいと思えますが、当時はなんでもない「普通」のことだったのです。

 もちろん、私が直接見ていない部分での暴力も、物理的な暴力・言葉の暴力問わず、あったのではないかと思っています。

自分自身が受けたDV被害体験

 父が母を…だけではなく、当然私も殴られたり言葉で傷つけられるという体験は何度もしています。父からだけでなく、母からもです。親の価値観を押し付けられるというのは日常的にあり、親の気に入らないことがあれば割と簡単に殴られたり罵られたり、否定されたり…というのもよくあることでした。いくつかエピソードを紹介してみたいと思います。

・めざせ、女優

 幼い頃の私はよく泣く子供でした。今でも涙脆い方だとは思うのですが(笑)、理由は問わず泣き出したときには母から「お前は男の癖に泣くから、将来は女優になれるな!」等と言われたものです。

 今でこそ、男だって泣いて何が悪いと思えるのですが、当時の私にしてみれば自分の存在や性について否定され、どうしていいかわからなくなったものでした。

・デッドキャッチボール

 小学校に上がる前だったか上がった直後だったか、父が野球のグローブとボールを買ってくれました。これでキャッチボールをやろうと。初めて触った野球のボール(軟球C号)は、子供にとっては凄く硬く、これが体に当たったら痛いだろうな…と少し怖くなりました。

 とはいえ、グローブは子供用とはいえそれなりに厚いし、上手く捕れれば楽しいかもしれないとも思えました。ところがいざ実際にキャッチボールをやってみると、捕れなかったときは罵られ、体や顔にボールを当てられ泣き出すと「こんなボール痛くないだろ!」と自分の痛みを受け止められるどころか否定をされていました。

 それでもなんとかキャッチボールを続け、捕りやすい球のコースがわかってきたときに少し嬉しくなって、その旨を父に伝えたところ、じゃあそのコースで投げてやろうと言われ、やっとキャッチボールが楽しくなるかもしれないと思いました。

 ですが次に投げられたボールは、大人が全力で投げる球速のものでした。コースは確かに捕りやすいコース・位置でしたが子供にとってはスピードがありすぎて、とても捕れるものではありませんでした。上手くグローブに収まっても、一回受け止めただけで手が酷く痛みます。

 そんな中で父は「なんだ、折角捕れる場所に投げてやってるのに捕れないのか!ははは!」と笑いながら、何度も何度も同じコースに、子供にはとても捕れない球速で投げていたのが今でも記憶に焼き付いています。私はこれで野球にまつわるものが一気に嫌いになりました。

 しばらく後に、どういう流れだったかは忘れましたが、隣の家に住むおじさんとキャッチボールをすることがありました。その時はボールをぶつけられたりなどは全くしなかったので、凄く楽しかったのが記憶に残っています。

 隣のおじさんは救いでした。隣のおじさんは娘二人で男の子はいなかったので、男の子と遊んでみたかったのか…実際にデッドキャッチボールの現場を見て、楽しいキャッチボールを教えてくれたのか…いろいろ理由は考えてみましたが真相は今もわかりません。

 そのおかげか、時間が経ったからか、今では野球の試合を見るくらいでしたらそれなりに楽しめる余裕も出てきています。

・目隠しご飯・首吊りご飯

 家での食事の時間は私にとって、早く済ませてしまいたい嫌な時間でした。かなりの確率で、食事中は何か責められていたり怒られていた記憶ばかりがあるからです。テレビを付けながら食事という文化があったのがせめてもの救いだったと思っています。テレビに集中していれば会話せずに済みますから。会話をしなければ、何かを責められたり否定されたりもしないと考えていましたので…。

 しかし、テレビに集中していたらしていたで母親としては面白くないのも当然のことだったのか、何度か突然手で私に目隠しをし、今日の献立を全部言えと迫ってくることが何度かありました。

 当然答えられなかったり、間違えたりすれば責められたり、酷い時は殴られます。

 ある時、父親から食事中にテレビの方を向くなと何度も言われたことがありました。座る位置のせいで、テレビを見るには首を九十度くらい右に向けないと見えなかったのですが、どうもその姿勢がよろしくなかったのでしょう。

 当の父親はテレビから一直線上にいるので、前を向いていればテレビが見られるのです。これはずるいなあと思ったので、その旨を言ってみると父親は激昂。私は首を掴まれて吊り上げられたり殴られたりしました。

 こんなことがしょっちゅうあったもんですから、おおよそ食事というもの自体が嫌になったものです。十八歳を過ぎた頃に友人と外食等をするようになってからやっと、楽しい食事というものもあるのだと知りました。

・体型や服装への否定

 食事にトラウマがあると、当然食事の量も少なく身体はなかなか育ちません。実際私は幼い頃からやせっぽちでした。親からは事あるごとに「男の癖に痩せすぎ、肩がない」とか「飯を食わないからこんなに情けない身体なのだ」等々言われたものです。かと言って食事自体が嫌でしたので、食べる量を増やしたいとも思わず、何もできることはありませんでした。

 また、服装についても私自身が選んだ服や組み合わせに母親から「センスがない」等の言葉を投げつけられていました。親が選んだ服や組み合わせでないと、とにかく責められていました。顔についても「お前は笑顔が不気味だ」なんてことを言われて酷く傷ついたことを覚えています。

・お前は馬鹿だ

 私は小学一年生の時、路上で車に轢かれ、完治までに二年ほどを要した大怪我をしたことがあります。入院中、献身的に支えてくれた親には本当に感謝しています。

 完治・退院し、家に帰って来て家族全員同じ部屋で布団を並べて寝るということができ、凄く嬉しかったのを覚えています。しかしその寝床でかけられたのは酷い否定の言葉でした。

 父親から「お前はどこで車に轢かれたのか覚えてるのか?」と聞かれましたが、私は事故の瞬間の記憶が完全に抜けており覚えておらず、その旨を父親に伝えたところ「自分が事故に遭った場所を覚えていないのはお前が馬鹿だからだ」とか「一度目はみんな同情してくれたがな、次にまた事故に遭ったらお前は皆の笑い者だ」等、酷い否定を受けました。その夜私は泣きながら寝たことを覚えています。どうしてこんなに酷いことを言うのだろう、と。

・やるのか、おら

 小学四、五年生くらいの頃だったと思います。少しずつ身体も成長してきて体力もつき、母親の殴る手くらいなら少しずつ避けたり、当たっても我慢ができるようになってきた頃のことです。ある日、母親から殴られ、気丈に睨み返したところ、母親は半笑いを浮かべた直後に拳を握り喧嘩のような構えを取り「やるのか?おら。まだ負けんぞ?」と言い放ちました。
 それを見た私は酷く怯えたと同時に、自分がもう少し大きくなって母より力もついたら絶対に仕返ししてやろうと心に決めました。

・手切れ金一万円

 母親から「このお金をやるから出て行け!」と一万円を目の前に放り投げられたことがあります。何歳の頃だったかは忘れましたが、一万円で何ができるか等がまだわからなかった頃だったと思います。

 よくわからないけど、この一万円があれば母親の元から去れて、もう殴られたり怒鳴られたり威圧されたりしないんだ…!という希望が湧き、一万円を手に取ったところすかさず「一万円で何ができると思ってるんだ!すぐなくなるだろ!馬鹿か!」と言われ結局どこにも行けず、何も変わらなかったという体験です。

・出て行け、豚

 中学一年生の頃、学校に行きたくない時期がありました。夏休み明けのほんの三日ほどですが。今にして思い返して今の語彙で言語化するならば、センセのパワーコントロールが見えてしまい、凄く嫌な思いをしたのだと思います。

 その時は勿論言語化などできることもなく「なんだか上手く説明できないけど、学校に行くのが凄く嫌だ」と思っていました。その旨を父親に伝えたところ、押し問答の末「学校に行かないなら、家から出て行け」と玄関先まで引っ張り出され、言い渡されました。

 自分の気持ちをわかってもらえなかった悔しさや、出て行けと言われた怒りやら何やらでしばらく考え込んだ私は、もう家にも居たくないと、玄関のドアの取っ手に手をかけました。その瞬間、反対の手を思いっきり引っ張られ引き倒されました。

 押し倒された後「この豚!誰が面倒見てやってると思ってるんだ!豚が!」という言葉と共に何度も殴られ引きずられ…その時私は「出て行けと言ったり、実際に出て行こうとしたらそれはそれで酷い目に遭わされたり…一体なんなんだ」と、考えていましたが、次第に考える気力もなくなっていきました。

・あの女はやめておけ

 私も十八歳くらいになると、女性とのお付き合いもいくらかありました。家に連れていくということもあったのですが、その後母親から「あの子はやめておいた方が良い、色々調べたら家庭に問題があって…問題行動を起こしたことがあって…周りもこんなことを言っていて…」等と言われたことがありました。

 流石にそれを聞いてぞっとした覚えがあります。息子の彼女についてあれこれ詮索するのもですが、悪評を調べてそれを伝えるという行為に対して、嫌なコントロールを感じました。

・その他被害体験、人格形成への影響

 以上に挙げた体験はごく一部です。公園の遊具に閉じ込められて石を投げつけられたとか、家族で遊園地に行って一人だけハブられたとか、もっともっと多くのエピソードがあるのですが…ページに限りもありますので、今回はその中でも印象的だったものを挙げさせていただきました。

 もちろん、365日・四六時中暴力があったわけではありません。時には平和な団欒もありましたし、心地良い時間もないではなかったのです。両親も「悪人」というわけではなく、どこにでもいる「普通の人」なんですよね。ある条件が揃うと「DVの顔」を思いっきり見せてくるというのが問題だったのです。

 その条件とは「親に対する否定的な言葉」や「親に意見する」ということでした。否定や意見をした瞬間に両親、特に父親は人が変わったかのような反応をすることが多かったように思います。「親と自分の価値観は違う」という線引きも許されていなかったように思います。

 ですので私は暴力を受けない為に、自分を偽り、本来の自分の価値観や考えを心の奥にしまい込むことを覚えていきました。勿論全部を抑えることなどはできず、溢れてしまうこともありました。だいたいの大きな問題はそんな時に起き、一度問題が起きると暴力を受けたり与えたり…というようなことがあったと記憶しています。関係性として対等ではなかったのです。

 養われていて自立できていない(扶養されているくせに!誰が養ってると思ってるんだ!等はよく言われていました)こともあり、その負い目からそもそも親と子は対等ではないという意識があり、自分が親に対して「扶養されているからって、いくらなんでもこれはおかしい」と思ったことでも言いにくい、または言えないということがままありました。

 その中でも自分の感情・価値観・感じ方を認めてもらえなのいということはすごくしんどいことでした。、本来の自分を押さえ込むことで、自分の考えを自分で良しとすることができず、自己肯定感が育たないまま年齢を重ねることになり、今で言う立派な「アダルトチルドレン(AC)」となってしまいました。

【続く】


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中村カズノリ

エンジニアとカウンセラーの二足の草鞋で「カウンセリングエンジニア」と名乗っています。 家族問題(DVモラハラ毒親等)やブラック会社等によるしんどさに対する相談が中心。最近のエネルギーの使い道は主に育児

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