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「ほんもの」と「にせもの」

どうせなら、と思い少し高めの海老天丼を買って帰った。というのも、帰省したついでに、親から福沢諭吉が詰め込まれたポチ袋を貰えたからだ。でも、今回のそれの意味は、それまでのものは少し違った。そのポチ袋の中には、もう増えない祖母との思い出も入っていた。

祖母の生涯は苦労の絶えないものだったらしい。自由という言葉から、一番離れた場所で死んでいった人間は、祖母が最後だと確信を持てるほど。母親は「もっと幸せに、自由に生きて欲しかった」と涙ながらに言っていた。自分の人生を終えた時、他人が決める幸せを、幸せと呼ぶのなら、それはもう「ニセモノ」だなと思った。
祖母の家に行くと海老の煮物が作り置きされてあった。私の幼い頃からの大好物である。どんな店で食べるそれよりも、祖母の作った煮物の方が数万倍美味しい。でも悲しいことに、誰も、このレシピを受け継ぐものはなく、しっかりと焼き上げられた祖母の脳みそと共に永遠に葬られてしまった。祖母の脳みそを、この海老と同じように冷凍保存しておけば良かったとまで思う。

「ホンモノ」と「ニセモノ」とは何なのだろうか。例えば今、食べているこの海老天丼の海老はニセモノだけど、祖母の煮物の海老はホンモノのような気がする。祖母が死んだあと、私たちが考える祖母の幸せはニセモノで、祖母のみぞ知る幸せこそホンモノのような気がする。「ホンモノ」と「ニセモノ」の区別というのはあまりに曖昧なもので、私たちには到底「気がする」という程度しか区別できないものなのかもしれない。

だけど、もしかしたら、今わたしがTシャツに付けてしまった海老天丼のつゆのシミも、いつか誰かのホンモノに変わるのかもしれない。一瞬で、しかも永遠の。その時、私のホンモノを知るのは誰なんだろう。私の「ニセモノ」の幸せの為に泣いてくれる人がいたなら、それこそ私にとって「ホンモノ」の幸せとなるのかもしれない。
でも、それを知るのは、きっと私だけだろう。私だけでいい。教えてたまるかとも思うのかも知れない。それこそ祖母のそれが、誰にも知られていないように。


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