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来年にはもういないとしたら。

こんばんは。
1月はやっぱり体調最悪なんです。

と、言うわけで体調不良から始まった精神の話。
苦手な方はここでバックしてくださいね。


私はYouTubeのライブで、視聴者が配信者さんに己の体調不良報告を世間話として振る瞬間がとても怖いのです。
ワクワク楽しみにしてた時間のはずが、一瞬で怖い気持ちや、不安な気持ちになってしまうのです。
音で一瞬で入り込んでくるのが苦手なのかな〜?

なので、私のように不安を感じやすい方はあらかじめ避けておいてね、という気持ちです。

いつか克服して、回復して、支えられる側に回れるようになれたらいいのにな。
そんな気持ちで、辛い時のことを記録している、というのもありますが。
見ず知らずの通りがかりの他者の不調を、自分ごとのように恐れているうちは無理だろうな。
これも人生の課題だな。あな難しや、これが1番。

私はいつまで生きるのか?

勤務時間が早まって、退勤は残業で遅なって、月の休みも減って。

朝6時に出て21時過ぎに帰る生活。
夕ご飯が遅くなると消化しきらないまま寝て翌朝にお腹を壊すし、朝ごはんを食べても朝お腹を壊すので、朝夕食事ができない生活。
おっかなびっくりで電車に乗る毎日。
帰ったら即風呂、髪乾かしたら即布団の生活。
こころが豊かになることは何も取り組めない平日。

週6でお日様と顔を合わせない日が続くので、幸福ホルモンも生成されません。
気分は鬱々、体はギスギス、ご飯食べられない、と今年も最悪の1月です。
この状態の時は、一生この谷底の状態が続くのだと絶望するものです。今そう思っています。

しかし、いつもより体調がすごく悪い。
初めての症状が出てきた。
AI診断で見ると、指定難病とか、がんの可能性ありとか、怖い結果に。

そこにきてようやく、「あぁ、来年の今頃、わたしは生きてない可能性もあるんだなぁ。」という真理に至りました。

よく考えたら当たり前のことで、どんな人間でも、来年の今頃は、生きてるかどうかなんてわからないんです。

全てのことは、この先もずっと自分の人生が続く、という前提で考えていましたが、
「もしかしたら、この世にいないかもしれない。」ということに、ようやく気づきました。

メメントモリとでも言うのでしょうか、死を常に頭の片隅に置きながら生きるというのは、かなり不健康なことかもしれません。

等速直線運動のように、比例曲線のように、右肩上がりに何かが良くなっていくことが「善」で「正」とするなら、最悪を想定して生きることは、まるで悪のようです。心にも良くない感じがします。

スマホのAI問診結果をぼんやりみながら、「あと一年だとしたら?」と自分に問いかけたら、呆れるけど、これまた物質的なことばかり思い浮かびました。

私の大量の持ち物の処分で、残った人に迷惑をかけたくないな、ということでした。

そして、年末年始に書き途中だった、「今年の冬買って良かったもの記事」が、突然くだらなく思えてきてしまいました。

コレクションは要らない

あんなに捨てられないと思っていた文具コレクション、それこそ使わないと意味がない。
でも、一年ポッチで使い切れる量ではありません。
あんなに買い集めて溜め込んでいたのも、それを使って何かクリエイティブな活動ができたらいいなと思っていました。
しかし、お休みが来ても、私は文房具を使って何かを作ることはしなかった。きっと一年後にも、色鉛筆の高さは減っていないでしょう。

ウール製品コレクションも、これ以上は要らない。
次に来る冬があと一回だとしたら、どんなにセーターがあっても意味がないのです。

ためにためた手芸グッズ。
布の切れ端や、リネンハギレ、刺繍糸、毛糸玉、縫い糸、針。きっと私は、手芸をたくさんやって好きなものを作れるようになって、なんなら通勤などしなくてよい、自宅で作家業など、できるようになっちゃったりするのでは?
と妄想して捨てられない手芸グッズ。
これもまた、一年後にも減っていないでしょうし、私が作家になどなれているわけがないのです。
もし私の世界に2年後が存在しないとしたら、趣味の道具だとしても、これ以上買い集める意味はないのです。

たくさんのストックたち。それは、コロコロの換えテープだったり、床ワイパーのシート、トイレ用洗剤、たくさんのアイシャドウ、お茶の葉っぱ。
これら全て、一年では使いきれないでしょう。

一年では使いきれないだけの量のモノを、私は持ち過ぎているようでした。

色褪せてしまったほしい物リスト

そして、スマホのメモ帳にしたためているほしい物リスト。
今週使う卵から、数年後買いたい冷蔵庫まで、何でもごちゃ混ぜにメモしているデータがあります。

しかし、これもメメントモリな私が眺めると、要らないだろう、と多くのものを切り捨ててしまいました。

ナンプラーか…。封を開けずに一年が経つ未来が見える。
味の素か…一年じゃ使いきれないだろうな、リュウジの料理食べる体力や内臓じゃなくなってるだろうし。

冷蔵庫…? 一年くらいなら、今のやつを使い続けてやりなさいよ。ヘルシオオーブン? とんでもない。

部屋の引っ越し? ああ、死ぬ前には陽のあたる部屋には住みたいよね。でも陽の出てる時間に家には居られないよ。一年も住めないなら、引越しにかかる諸々の費用がもったいないしね。

ルンバも、大型の空気清浄機も要らない。
新しい服も、新しい通勤カバンも要らない。

一年くらい、今ある物で持ち堪えなさいな。

そんな気持ちになり、全部メモ帳から消えてしまいました。
「今よりも良い未来が来るし、それがあることでより楽しく生きられる」と信じられてるから、モノが欲しいのです。

メメントモリ状態・盛者必衰覚者状態の私には、何の魅力も感じられない物の羅列と成り果てました。

それでも欲しいもの

すっかり、決済ボタンを押す前や、カゴに入れる前に、「一年後死ぬとしても買うのか?」という質問が板についた今日この頃。

それでも欲しいモノとか、したいコトってなんだろう?
そこにたどり着いたのが、このメメントモリモードの意義なのでした。

それが、読書でした。
たとえ一年後に居なくなるとしても、手に入れた知識が無に帰すとしても、それでも欲しいと思うのが読書体験でした。

ぶっちゃけ、私は物理的に本を大事にしてないし、積読だらけだし、なんなら、難しげな本を買って読んで内容理解してない、までがひとセットみたいなところあります。
泡吹きそうな値段した研究書とか専門書も、ろくに理解できないまま実家の本棚に眠ってたり、買取王子に売り払っていたりします。

今はもっぱら電子書籍ですけどね。

どうしても無駄だとか、勿体無いとか、思えないんですよね。どんなくだらない本だとしても。自分が読みたいと思ったものは。
だから、自分が自由にお金を使えるようになった小学生の頃から、今の今まで、一切躊躇なく買ってきたのが本で、それは死ぬまで変わらないんだな、というのが分かりました。

ご飯は昼飯だけ、米だけの生活でいい。どうせ食べられないんだ。
でも本だけは、死ぬ一寸前でも、好きに買える人生であればいいなと、そう思うのでした。

春を迎え、復調し、メメントモリ状態を脱した時、私の物欲やメンタルがどうなっているのか、ほしい物リストはどうなっているのか。それもまた楽しみです。
ので、この記事は記録としてまた良い検体になってしまったな…。

※一年後にいなくなる云々は仮定の話です、お分かりとは思いますが、一応補足しておきます。

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