深海の底から見えた光. -2016.8.21 サカナクション at SUMMER SONIC 2016ライブレポート-

[はじめに]

 この文章は昨年のSUMMER SONIC終了後に、記事として公開するために執筆したものの、公開を見送ったものです。書こうとしていたテーマが多すぎて、冗長かつ一貫性が無くなってしまったこと、そして主にライブパートにおいて、思うように書けなかったことが主な理由です。

 しかしながら、既に一部がリークされている今年のSUMMER SONICのラインナップ、及びその反応に対して色々と思うところがあり、この記事の時点で既に近い内容は書いていたので「言いたいことは書いているから、とりあえず公開して次の記事へ進もう」と思い、公開することにしました。楽しんでいただけたら幸いです。


[本編]

 Radioheadが、新作の楽曲群に潜む様々な表情をより立体的に浮かび上がらせ、ファンが密かに待ち望んでいた90年代の名曲達を何気なく披露するような、素晴らしいライブが行われる2時間ほど前の出来事。

 2016年8月21日午後5時、SUMMER SONIC東京会場MARINE STAGE。THE YELLOW MONKEYがライブを終えてもなお、スタンドをギッシリと埋め尽くす人々。MCを務めるサッシャが、次にステージに立つミュージシャンを紹介する。彼は「Radioheadが彼らを指名した」と語る。そして彼はミュージシャンの名をコールするが、歓声こそあがるものの、その数は多くない。とても歓迎ムードとは言えないだろう。続けて彼はその次にRadioheadが出演することを告げたが、その瞬間の歓声の方が明らかに大きかった。

 よく考えてみると、サッシャが"Radiohead自身が前の出演者を選んだ"事を伝える必然性はどこにもない。そこに理由があるとすれば、"Radioheadのファンに、次に出演するミュージシャンを受け入れてもらう必要がある"ということだ。それはつまり、乱暴に言えば"そうでもしなければ、彼らはきっと聴く耳をもたないだろう"という事だ。事実、あれほど批判されていた2013年の「ミスチル地蔵」を思い出して、twitterで「レディへ 地蔵」と検索してみると、自ら地蔵になると宣言する人々がいた。


 この数日前、The Japan Timesのインタビューで、SUMMER SONICを主催するクリエイティブマンの社長、清水直樹は、日本の洋楽フェスではRadioheadやRed Hot Chili Peppersのようなベテランのミュージシャンがヘッドライナーを務め続けており、次のヘッドライナー候補が現れないという状況を問題視している。同インタビューで彼が指摘するように、海外の音楽フェスティバルではMumford & Sonsのような比較的若手のミュージシャンがヘッドライナーを務めるという綺麗な循環が起きている。例えば、この年初めて開催された"ニューヨーク版Coachella"とも言えるPanoramaでは、前年に"To Pimp A Butterfly"を発表して絶賛を浴びたKendrick Lamarがヘッドライナーに選出されている。彼もまた、2010年代を代表するミュージシャンの一人と言い切っていいだろう。

 とはいえ、Kendrick Lamarが日本でヘッドライナーを務めるのは、今のところ難しいだろう。"英語"による"ヒップホップ"の時点で、現在の日本の音楽シーンにとって壁が大きすぎる。

 そう、言葉の壁は大きい。Arcade Fireが描く郊外に縛り付けられた人々の孤独も、LCD Soundsystemが綴る音楽に対する悲しい程の愛も、直接理解する事の出来る日本人はそれほど多くはない。では、何故Red Hot Chili PeppersやRadioheadが今でも高い人気を持つのかと考えると、勿論彼らのサウンドの独自性や歌詞の素晴らしさは大前提として、90年代が特別な時代だった事も大きな理由の一つなのではないだろうか。物心がついた頃にはゼロ年代に突入していたので、その辺りの空気はよく分からないが、きっとその頃は「洋楽を聴く事がカッコ良かった」はずだ。そして、きっと今はそうではない。洋楽好きは、EDM=Avicii, Zedd, etc...とBillboard系ポップス=Ariana Grande,Justin Bieber, etc...を除いて単なるマイノリティーだ。「水曜日のダウンタウン」が証明したように、90年代の圧倒的な、そして偉大なるカリスマであるNirvana及びカート・コバーンは、もはや単なるファッション・ブランドである。

 「洋楽を聴く事がカッコ良かった」ということは、裏を返せば「邦楽を聴く事がダサい」と同義だ。2015年のFUJI ROCK FESTIVALにおいて、ONE OK ROCK、星野源、椎名林檎を筆頭に、邦楽系音楽フェスティバルであれば余裕でヘッドライナーを飾れるアクトが集まったのにも関わらず、「日本人ミュージシャンが多すぎる」という批判の声が上がったように、洋楽と邦楽は断絶していると言い切って良い。批判が集まった理由として、「貴重な洋楽の枠が埋まるから」という意見も多いが、そもそもその枠に入るミュージシャンが存在しないのだからしょうがない。需要と供給。音楽フェスティバルは慈善事業ではない。Kendrick Lamarを日本で見たいと痛烈に願う日本人は3万人も存在しない。

 そもそも、洋楽と邦楽の間にある断絶とは一体何なのだろう。英語で歌えばいい、日本語で歌えばいいという問題ではない。きっとそこには環境やルーツの違いがある。例えば、映画「ストレイト・アウタ・コンプトン」のような物語が日本で起こりうるかというと非常に疑問だ。しかし、だからといって日本人がヒップホップをやってはいけないという理由にはならない。日本には日本のヒップホップのやり方がある。近年、「フリースタイルダンジョン」やそれに伴うR-指定DOTAMAACE等のメジャー・アングラを超えた幅広い活動によって、そして勿論KREVARHYMESTERいとうせいこうのような偉大なる先人達の手によって、そしてその表現の鋭さによって悠々と文脈を越えていったKOHHの手によって、ロックやポップよりも断絶の根深かった日本語ラップが、ようやく浸透し始めている。そう、海外には海外のやり方があり、日本には日本のやり方がある。問題はそれを受け入れられるかどうかだ。とはいえ、その断絶は広がり続けていて、もはや手が付けられなくなっている。

 そのような状況下において、清水氏はRadioheadの前に、どうしても日本人ミュージシャンを出したかったと語る。彼は日本人ミュージシャンの質が年々上がっている事を理由に挙げているが、「洋楽>邦楽」という図式を変えたいという思いが背景にあるのは明白だろう。素晴らしいミュージシャンであれば、たとえ洋楽しか聴かないリスナーであろうと、その良さを分かってくれるはずだ。そして、そんな考えが浸透していけば、洋楽と邦楽の間にある巨大な断絶を埋めることが出来るかもしれない。

 

 そして選ばれたのが、サカナクションだった。


 サカナクションを単純に「ダンス・ロックバンド」と呼ぶのは簡単だが、その奥には凄まじい量の芸術作品からの影響が垣間見える。分かりやすいところで言えば、KraftwerkNew Orderの系譜に位置するミニマルな質感と繊細なシンセのレイヤーを折り重ねたダンス・ミュージック。The BeatlesXTCからそれこそRadioheadに至るまで脈々と受け継がれてきた、どこか捻くれた、しかし何か新しいものを掴もうとするロック・ミュージック。そして、何より、宮沢賢治や寺山修司、種田山頭火といった日本を代表する作家達が紡いできた短く、鋭い言葉の数々。多くのインタビューで語るように、彼らは世界中の音楽を吸収し、そして、日本語に強く、強くこだわり続けてきた。一方で、彼らの殆どの楽曲は、弾き語りでも人々を感動させられる程の普遍的なメロディも併せ持つ。そしてそのルーツを辿ると、日本の音楽史を彩る歌謡曲やフォークソングに辿り着く。つまり、彼らは日本の芸術文化に強いリスペクトを抱きながら、それらと海外由来のロック・ミュージックやダンス・ミュージックを交錯させてきたのだ。その結果、彼らは日本での高い大衆性を獲得し、全国の音楽フェスティバルでヘッドライナーを務め、更には紅白歌合戦に出演するほど、幅広い人気を獲得することが出来た。これは完全に余談だが、かつてスピッツやMr.Childrenに夢中になっていた僕の母親も彼らのファンの一人である。

 そして、彼らは現状を正しく認識し、様々な"壁"と戦い続ける音楽家の一組でもある。その壁にはもちろん、前述した「邦楽と洋楽の間にある壁」も含まれる。

 2013年を代表する一枚となったDaft Punkの"Random Access Memories"について、サカナクションの核である山口一郎は、ナタリーのインタビューで「日本人には売れないと思う」と言い切り、その理由として日本人の多くは「歌の次に何を聴くかバージン」であると指摘している。それはそのまま、日本においてクラブミュージックが正しく受け入れられていない理由でもある。歌謡曲とJ-POPで育った我々は、どうしても歌が大好きだ。一方で、曲のグルーヴであったり、楽器の音色といった要素に関してはあまり深くは考えない。かつて、フジテレビ系「僕らの音楽」で、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文と対談した秋元康は、後藤の「テレビ番組に出ない理由の一つとして音質の悪さがある」という発言に対して、「ミュージシャンの人がこのベースの音を聴いてくださいと言ってきたら、僕はちっぽけなカセットデッキで聴かせてという。僕にとってのメジャーっていうのは港町の音の割れた町内のスピーカーから流れてきても皆を楽しませることのできる音楽」と言い切っていた。

 勿論、それでも良いと思える音楽は偉大だ。しかし、それは音楽の可能性を狭める事でもある。彼らは、「音楽の持つあらゆる可能性と面白さを、自由に楽しんでほしい」という想いを抱き、これらの問題を解決しようと様々な試みを続けてきた。

 音楽面で言えば、山口氏は最近気になっている音楽を頻繁にSNSに投稿し、TFM系列「SCHOOL OF LOCK!」内のラジオ番組では聴き方を含めて音楽を紹介し、更に彼らがリスペクトしてやまないAkufenとの対談まで行っている。彼らのリリースするシングルにはリミックス曲が収録される事が多いのだが、これまでリミキサーを担当してきたのは、AOKI Takamasa、Cornelius、石野卓球、砂原良徳、レイ・ハラカミ、Fantastic Plastic Machine、Qrion、agraphである。幅広く、そしてマニアックなラインナップだ。本来、ミュージシャンは自身の楽曲以外の音楽を発信する必要はどこにもない。彼らがそれを続けるのは、単純に"音楽を聴いてほしい"からである

 音質面で言えば、今まで何度も引き合いに出されているが、2013年に開催された「SAKANAQUARIUM2013 sakanaction 千葉・幕張メッセ/大阪城ホール公演」では計228本のスピーカーを使い、前代未聞の6.1chサラウンドシステムを構築した。どう考えてもお金も手間も異常にかかるのに、それでもそのような試みを続けるのは、「大きな会場特有の音質の悪さを改善する」というネガティブな理由だけではなく、「大きな会場だからこそ出来る音空間を実現したい」という理由もある。実際、サカナクションが大きな会場でライブを行う際には「それって赤字じゃないの?」と心配になるほど大胆な試みが行われる。音源に目を向けてみると、そもそもの音質や工夫に溢れた位相は大前提とした上で、バイノーラル録音の効果的な導入などが行われている。Mステ等で何気なく聴いていた楽曲をいざ購入してヘッドホンで聴いてみるとその徹底ぶりに驚かされる事も多い。これもまた、"音の楽しさ"を最大限に楽しんでもらうための試みだと言える。

 そのような活動の一つの到達点が、今年、北海道の音楽フェスティバル「JOIN ALIVE」内で開催されたオールナイトイベント「SAKANATRIBE」だろう。これは、サカナクションが主催する初の野外レイヴであり、初回からAkufenや砂原良徳といった豪華かつストイックなメンバーが集結した。もちろん、TAICOCLUBのように、野外で行われるオールナイトのフェスティバルは以前より存在している。しかし、そこに集まる人々はいわゆる「コアなダンスミュージック好き」だ。言ってしまえば閉じた空間だ。音楽を聴き始めたばかりの若いリスナーから、コアな音楽好きまで、年齢も趣味も幅広い人々を集めることが出来るのは、きっとサカナクションしかいないだろう。なぜなら、彼らはリスナーの音楽の触れ方を変えることが出来る本当に数少ない発信者だからだ。そして、彼らはそのことに強く自覚的だ。

 彼らは、いわゆるトップアーティストの一組だ。音源は毎回ちゃんとヒットするし、新曲が出るたびに圧倒的な演出と共にMUSIC STATIONに出演し、邦楽系の音楽フェスティバルではヘッドライナー常連。2010年代において数少ない、紅白歌合戦に出演したロックバンドの一組だ。彼らは、自分たちの音楽だけでサイクルを回すことが出来る。しかし、彼らは常にわざわざやらなくてもいいことをやる。壊さなければならない壁があることを知っているからだ。

 話をサマーソニックに戻そう。「邦楽」と「洋楽」の間にある壁を破壊するためにはどうすればいいのか?一つの答えは、邦楽を聴く人が洋楽を聴くようになり、洋楽を聴く人が邦楽を聴くようになることだ。前者を考える人々は多いが、後者を考える人はごく少数だろう。しかし、「邦楽<洋楽」という図式が残り続けるかぎり、洋楽はニッチなカルチャーであり続ける。必要なのは循環だ。サカナクションとRadioheadを同じくらい好きな人が増えない限り、壁が壊れることはない。

 言い切ってしまえば、Radioheadの前に日本人アーティストが出演するだけで拒否反応を起こす人は少なからず存在する。開催前にも、サカナクションのサブヘッドライナー出演に対して批判の声が上がっていた。そんな状況下で、サカナクションのファンがRadioheadのことを好きになることなどあるのだろうか?

 冒頭のサッシャのMCからしばらく経ち、定刻通りにサカナクションがMARINE STAGEに現れる。客席はスタンドまでびっしりと埋め尽くされている。誰もがRadioheadの登場を心待ちにしていた。

 "ミュージック"のイントロが響く。サカナクションのメンバーは、いつものようにラップトップと向き合いながらじっくりと音を重ねていく。観客もゆったりとビートに乗りながら音のレイヤーに包まれていく。徐々に、巨大なMARINE STAGE全体が、サカナクションの作り上げる音像に飲み込まれていく。全身が音の泡に包まれる。その泡が徐々に大きくなり、限界まで膨れ上がっていく。

 "消えた"

 その声と共に、泡は鮮やかに破裂し、ミニマルかつ強靭なビートが会場に響く。アンセミックな恍惚感、メンバーと観客が織りなすコーラスワーク、輝きを増すビート、反復するメロディが巨大な会場を染め上げる。最初は微動だにしなかった客も、体を揺らし始める。最初の頃には想像も出来なかったような「一体感」という言葉が脳裏をよぎる。たった一曲で、彼らは既に爪痕を残していた。すでに多くの観客が、彼らの鳴らす音に夢中になっていた。

 余韻に浸る間もなく、"アルクアラウンド"のイントロが響く。

 "僕は歩く 徒然な日 新しい夜 僕は待っていた"

 これまで幾度となく邦楽フェスティバルのステージを一瞬でピークタイムに突入させてきたあのイントロが、寸分の狂いもなくこの場所に突き刺さり、 MARINE STAGEはこの日最大のピークを迎えた。誰も彼もが、リスナーとしての居場所を無視して、踊り狂っていた。力強く拳を振り上げる人もいれば、笑顔で飛び続ける人もいた。一見静かに見える人も、その足元はしっかりとリズムを刻んでいた。僕はといえば、友人と無邪気に飛び跳ねていた。このアップリフティングな展開は、そのまま"Aoi"に引き継がれていく。ふと山口一郎の表情を見てみると、どこか笑みがこぼれていた。

 2016年、サカナクションはフェスティバルに出演する際、セットリストを全てアップリフティングな楽曲で統一していた。持ち時間の短さや、フェスティバルという空間、客層などあらゆる要因を考慮してのことだろうが、彼らの魅力は「動」だけではない。「静」の側面も同じくらい重要で魅力的だ。山口一郎の紡ぐ詩世界は、「静」の空間で映えるものも少なくない。

 サカナクションがSUMMER SONICで与えられた持ち時間は、この年出演したフェスティバルで最長の70分だった。前日の同じ時間帯に出演したAlessoの持ち時間が60分だったことを考えると、彼ら自身が70分必要だと申し出たのかもしれない。そして彼らは、この年のフェスティバルにおいて唯一SUMMER SONICでのみ、セットリストに「静」のパートを取り入れた。

 "Aoi"を終え、"蓮の花"、"さよならはエモーション"と感情の奥深くへと潜り込んでいく。それまで無邪気に踊っていた観客も、静かに、緩やかに彼らの音に意識を注いていく。静の表現は「夏フェス」という祝祭の場では、あまり歓迎されることはない。しかし、あくまで個人的にではあるが、この日のピークは、彼らが"さよならはエモーション"を鳴らした時だったように思う。

 "さよならはエモーション 僕は行く ずっと涙こらえ こらえ"

 一つ一つの音が静かに重なり、やがて重厚な層となる。断片的なシーンの連続が、感情の爆発を導く。その瞬間、全ての層が一気に覚醒する。

 轟音を鳴らしながら、彼は歌う。音と言葉が、一人ひとりへと突き刺さる。

 "さよなら 僕は夜を乗りこなす ずっと涙こらえ こらえ"

 "忘れてたこと いつか見つけ出す ずっと深い霧を抜け"

 深い感情の底から、"ネイティブダンサー"、"ホーリーダンス"によって鮮やかに浮上していく。その頃には、彼らを囲んでいた壁が幾分小さくなっているように思えた。

 彼らはあの時、いくつの壁に囲まれていたのだろうか。歌の無い音楽を聴けないという壁。他の観客と同じ動きをしないと落ち着かないという壁。"フェスで盛り上がる音楽"という壁。洋楽と邦楽の間にある壁。

 サカナクションはその全てを丁寧に破壊していた。再びアップリフティングな"夜の踊り子"へと戻ってくる頃には、壁が存在していたことすら忘れてしまった。彼らのスタンスが結実した、和太鼓のビートとトランスの音色が交錯する"SAKANATRIBE"で山口一郎は笑顔に満ちた観客を煽りながら、満面の笑みを浮かべ、誰よりも力強く踊っていた。彼は叫ぶ。

「Radioheadの前に、僕たちと一緒に踊りませんか?」

 もしこの言葉を最初に言っていたら、皮肉めいたニュアンスとして受け入れられてしまったかもしれない。しかしこの時、この言葉はそのままの意味でしかなかった。僕たちは、大好きなRadioheadの前に、素晴らしいサカナクションの演奏で踊っていたのだ。

 最初は微動だにしなかったRadioheadのTシャツを着た人々は、既に彼らを受け入れ、自由に踊っていた。その光景はただただ美しく、そして明らかに彼らにしか成し得ないものだった。そして、それはサカナクションにとっても予想外の事態だったのかもしれない。山口一郎の表情は驚きと興奮、そして喜びに満ちていた。

 少なくともRadioheadのライブでは見られない、観客が手を左右に振る光景や、笑顔で飛び回る姿に思わず素の笑みがこぼれてしまっているのだ。そんな様子がスクリーンに次々とスクリーンに映し出され、更に誰もが自由自在に踊り出していく。手を振り回す。ステップを刻む。頭を振る。体を揺らす。そのグルーヴを生み出しているのは、日本人のDNAに深く刻まれた和太鼓なのだ。彼らは「邦楽」であることに強く自信を持ち、「邦楽」にしか成しえない音楽を「洋楽中心のフェスティバル」で鳴らしていた。

 最後に、当時の最新曲であり、同時に最大の代表曲だった"新宝島"のイントロが高らかに鳴り響いた頃には、誰もが垣根のことを忘れ、彼らを受け入れ、ステージの終了を寂しく感じていたように思えた。それでも、多幸感に満ちた楽曲は最後まで人々を踊らせ続けた。完璧な終演だった。

 サカナクションは繊細なバンドだ。日本の音楽シーンの現状と、その中で自分達が持つ役割を正確に認識しながら、最大限に自らのアーティスト性を爆発させる。だからこそ、彼らは紅白歌合戦とTAICOCLUBに出演し、あらゆる音楽フェスティバルのヘッドライナーを務め、SCHOOL OF LOCK!で若者に語りかける。そして、Radioheadの前を務める唯一の日本人アーティストとなったのだ。

 正直なところ、あの場所にいた全ての人が彼らのパフォーマンスに満足したわけではないだろうし、そんな事はまずあり得ない。また、サカナクションを見て、Radioheadを見ずに帰る人々だっていただろう。それは当たり前の事だ。重要なのは、ライブ後に山口一郎氏が自身のtwitterで「やりきった」と書いた事であり、僕(と一緒に観に行った友人)は心底彼らのパフォーマンスを楽しんだ事、それだけである。そんな人が多かったら僕は嬉しい。そして、少なくとも僕は、いつかサカナクションがサマーソニックのヘッドライナーを務める日を楽しみにしている。



"それでも君を連れて行くよ 揺れたり震えたりした線で 描くよ君の歌を"

-「新宝島」より



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ノイ村

音楽の話をしよう。軽めに。

最近では1分で読めなくなってきている音楽コラム。
2つのマガジンに含まれています

コメント1件

素晴らしい記事でした!ジャンルはエッセイというよりは音楽批評?に入れさせてもらいますね。ペコ。
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