ずれ

 「というか人間に興味なさそう」

 少しあってて、全然違う。

 物心ついたときから、人とのかかわりは、いつだって神経をすり減らすものだった。みんなを傷つけないように、みんなが少しでも面白がってくれるように、人の顔色を窺って、この人は僕が何をしたら喜ぶのか最大限知恵を絞って、10数年間生きてきた。

 そして、いつからか、外から家へ帰ると、骨組みを失った紙細工のようにグシャッと、椅子に沈み込むようになった。いつだって、嫌われてしまったかもしれない人の背中や、僕の反応に不満げだった人の顔が、頭の中で渦巻いてる。それでも、その人ときだけが安らぎだった。なぜなら、その一瞬は人と関わらなくて良いから。

 「虚栄心が強いんだね」「そうだね。いつだって、どうやったら自分を美化できるか、そして、その虚像を人に認めてもらえるかということに心を砕いてる。息を吸うように嘘を吐けるようになったしね。周囲の人の間の中でも、かなり評判がいいみたい。」

 嘘のつき方だって、工夫してる。

 まず大切なのは、私生活の全てを知られないこと。自分の実際の生活で、最も見栄えのする瞬間だけが表に出てくるようにする。Facebookに投稿するなんて、猿のやることだ。いつだって、人間は、人づての噂と、本人が「うっかり」見せた瞬間とを何よりも信用するものだ。

 そのうえで、点と点をつなぎ合わせるように、自分の思い描く「最適な」シナリオを提供する。「最高の」シナリオではだめなんだ。人が違和感なく信じられるまでに、程度を下げて、妥当な話にしなくちゃならない。

 

 光が強くなればなるほど、闇は刻々と黒く塗りつぶされていく。その光が、太陽光だろうと、蛍光灯だろうと。


 ぴかぴかの外面をこしらえて生きるということは、同時に、自分の力の及ぶ以上の事柄は扱わないということだ。お面が割れて、醜悪な本体が垣間見えてはいけないから。柔らかく湿ったその顔に、割れた破片が刺さってはいけないから。

 すると、畢竟、思い浮かんだことも、成功の蓋然性がない限り、手に付けないことなる。どんなにあの子のことが好きだって、落とせる算段がなきゃ。どんなにあいつとこんなことがしたいと言ったって、あいつが良いっていう保証が無きゃ。東大に入ったのだって、自分のことだから簡単だった。一年間に4000時間勉強すればいいだけのことだから。

でも、人一人を「親友」と呼ぶことの方が、ずっと怖いし、難しい。

 

 ただ、このごろ、自分の力の及ぶ範疇でだけで生きていくことの限界を感じはじめました。自分が求めているのは、あられもない格好で、恥をまき散らして、自分の弱さを泣きながら抱きしめてはじめて、手に入れられるものなんではないかなと思いはじめました。一足飛びには進めないけれど、このnoteを使って、少しずつ自分の中身を他人に晒すことに慣れていきたいと思っています。

 基本的には、備忘録といての色彩が強くなると思いますが、万一すこしでも皆さんのお役に立てたのなら望外の喜びです。

 結びになりますが、節分に御目通しをいただいた方には御礼申し上げます。拝

 

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