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無垢であることについて

僕は今飾らないことについて考え、行動しています。
それはつまり無垢であり純度の高い言動であります。

写真を続けていると大小関わらず人から褒めてもらって嬉しくなり、人から誘われて展示をするようになり、いつの間にか自分は大きなことを成し遂げるのかもしれないと勘違いしてしまう。

例えば写真家なんて言葉はただの偶像にすぎなく、自分でいくらでも語ることができる肩書きで、人から勝手に認識されるくらいになったら、そうなんだなぁと認めていく言葉にすぎないと今は感じています。

僕は今、華やかでない、過度に演出されていない、そんな写真や映像が好きでよく触れています。それが無垢な写真であり映像だとと捉えています。

自分がやりたかった表現がたまたま華やかでありインパクトのある演出だったりするケースも僕はある種の無垢だと思っています。つまり何に捉われることなく自分と被写体だけの世界に生きること。その情熱が純度であり美しいものだと今は感じるのあります。

自分のケースに置き換えてみると、己の感じるままに海に入って写真を撮っていました。少し経ってありがたい機会に巡り合い作品展示をしたところたくさんの作品を購入・評価してもらいました。そこから一生懸命、使命感を持って活動しないとという責任感が生まれ、展示から作品集、物販まで、できることの全ていろいろなことにチャレンジしました。

でも色々な欲というか、反応や評価といった自分以外の場所に成果を求めるようになってしまい、個人的には純度がどんどん薄まってしまったと感じています。

できるだけ力強く、美しく、見たことのない絵を。
いつの間にか写真に大義を感じ使命感に狩られていたけど、実はもっとシンプルで自分にできること=最初にやってたこと。それをやり続けることが自分にはあっているのかもしれない。

今まさにyoutubeで見ている動画も淡々と作業をして何かを作る動画。音楽もなく地味だ。でもそれが妙に美しく感じる自分がいる。きっとそういう時期なんだろう。

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