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忍者、事務職はじめました<全編>

私は今、とある会社で社会人として働きながら、独りで生活しています。

事務職なので、それほど給料が高いわけではないけれど、生活に困ることもありません。

社内での評判もよく、仕事自体にも満足しています。

プライベートでも、自分のやりたいことに挑戦し続けています。

むしろ、やりたいことが多すぎて困っているくらいです。

そんな私には、みんなへ内緒にしていることがあるんです。

実は私、忍者なんです。

独暇流忍術という流派の忍者なんです。

『どっかりゅう』と読みます。

独暇(どっか)の者と言えば私のことです。

今の会社で働く前に、独暇の里に住んでいて、独暇流忍術の修行をしていました。

独りで暇な時に、何らかのミッションを達成することが求められました。

辛く厳しい修行の末、私はついに、独りで暇な時に何らかのミッションを達成する術を身に着けました。

しかし、このまま、独暇の里に居続けることは、私のためになるんだろうか?

この忍者のスキルを、世の中の役に立てることはできないんだろうか?

そう思ったら止まらないのが私です。

師匠には、独暇流忍術『独暇総言所有(どっかそういうとこある)の術』で、私にどこかそういうところがあることを見破られました。

忍者であることが世の中に知られると、大変なパニックとなります。

絶対に忍者であることを知られないという条件を元に、私は独暇の里を出ることを決意しました。

独暇の里では、趣味でパソコンをやっていました。

師匠が、独暇流忍術を創設する前にやっていた職業が、パソコンインストラクターだったのです。

忍術の修行をしながら、パソコンを習っていたのです。

そこで私は、就職するならパソコンを使う仕事かな?という安易な考えで就職活動を始めました。

それまで社会人の経験がなかった私は、面接というものがよくわかっていませんでした。

面接官に言われるがままの条件で入社した最初の会社は、いわゆるブラック企業でした。

その時の記憶は、今は抹消されています。

思い出すと吐き気が止まらなくなるからです。

約3ヶ月間は耐えましたが、忍者のタフな精神もすり減るほど、ブラック企業というのは凄まじいところです。

今思えば、その時に初めて独暇の里以外で忍術を使ったような気がします。

「ドロン」てな具合に。

幸い、3ヶ月分の給料は支払われていたため、退職後に直ちに生活が困難になることはありませんでした。

独暇の里を出てから借りたアパートの家賃が安かったことも、今思えば助かりました。

このアパートは、都心部から非常に離れた地域にあるんです。

家から仕事場まで歩いて通うことで、少しでも修行につながればいいと思ったからなんです。

だから家賃が安いんです。

日当たりがよくない構造も、何となく忍んでいる感じで、私はお気に入りです。

ブラック企業をドロンした私は、次の仕事を探す前に、就職というものがどういうことなのかを調べることから始めました。

一般社会には、とても便利な施設があります。

「図書館」です。

無料で本が読み放題という、素晴らしいシステムを、私はこの時に初めて知りました。

図書館で本を読んだからこそ、ブラック企業というものも知ることができたのです。

面接に関する本を読んだ私は、愕然としたのを覚えています。

一般的な会社では、面接の時に「スーツ」を着て行くことが望ましいようなんです。

私が、最初の会社の面接を受けた時に着ていたのは、私の一張羅でもある忍び装束です。

忍者だと怪しまれないように頭巾はせずに行きましたが、この本を読む限りでは、十分に怪しかったようです。

それでも採用されたということは、それがブラック企業だったからなのでしょう。

ちなみに、図書館にも同じ格好で行ったことは言うまでもありません。

私は、すぐにスーツを求めて街へ繰り出しました。

スーツというものがどのようなものなのかは、本を読んで学習していましたが、スーツを売っている店がわかりません。

大きな店になら、きっと売っているに違いないと思い、独暇の里では見たこともないような、大きな店を発見しました。

今ではコツを掴みましたが、その時は、どうやってドアを開けるのかがわかりませんでした。

なぜなら、ドアに取っ手がついていなかったからです。

どうやって店内へ入るのか、他の人のやり方を真似ようと、観察をすることにしました。

すると不思議な事に、ドアに触れることもなく、他の人は店内へ入っていくではないですか。

仕組みがわかれば簡単です。

私も同じように、ドアに触れずに店内へ入ろうとしました。

しかし、透明なドアにぶつかるだけで、店内に入ることができません。

そこでプランBです。

誰かの後について店内へ入る作戦に切り替えました。

それが功を奏し、見事に店内へ入ることができたのです。

今思えば、私の中の忍者が出すぎていて、自動ドアが反応しなかったのです。

それもそのはずです、頭巾をかぶっていないとはいえ、忍び装束なのですから。

店内には、様々なものが置いてありました。

中でも食料品の数は、私が今まで見たこともないほどの量でした。

後から知りましたが、そこはスーパーマーケットと呼ばれる施設だったのです。

奇跡だったことは、格安のスーツが売られていたことです。

これも後から知ったことですが、その店のスーツは、格安スーツで有名だったのです。

図書館で読んだ本に書いてあったのは、黒っぽいスーツが良いということでした。

忍者である私にピッタリだなと思ったことは言うまでもありません。

スーツコーナーへ足を踏み入れるやいなや、店員さんが声をかけてきました。

「いらっしゃいませぇ~♪ どのようなものをお探しでしょうかぁ?」

「はい、実は、スーツを探していまして」

「あら、それはステキですね。たくさんご用意しておりますよ」

何という親切な人なのだと、その時は感動すら覚えました。

それが間違いだと知ったのは、今の会社で働き始めてからです。

しかし、その時の私は、その感動に冷静さを失い、必要のないものまで買わされていたのです。

黒いスーツ2着、Yシャツ7枚、ネクタイ10本、スーツケース1つ、その他諸々です。

黒いスーツの内1着は、喪服と呼ばれるものです。

冠婚葬祭で必要になるという親切なアドバイスから購入を決めたのです。

Yシャツは、スーツの中に着るもので、白いものを1週間分の7枚は持っていたほうがいいと言われ、購入しました。

ネクタイは、Yシャツの襟首に結ぶもので、Yシャツと同じく1週間分と、冠婚葬祭で使う白と黒、9という数字は縁起が良くないということで、もう1本を追加して購入することとなりました。

大量のスーツを保管したり運んだりするには、スーツケースが便利だということも教わりました。

私が如何に冷静さを失っていたのか、誰もがわかるでしょう。

そして、それこそが「図太い神経を持つ図々しいおばさん」という人種であるということも、後から知ることになるわけです。

こうして私は、社会人の必需品であるスーツを手に入れました。

スーツを手に入れた私は、その足で図書館へ戻ることにしました。

今思えば、頭巾を被っていない忍び装束の私が、大きなスーツケースを持って図書館へ戻ってきたのです。

図書館の職員の方は、さぞかし驚かれたことでしょう。

次の仕事を探すに辺り、世の中にはどのような仕事があるのかを知る必要がありました。

私の能力を活かせる仕事に就きたいと思ったからです。

忍者の能力を活かしつつ、忍者だと悟られないようにするには、しっかりと準備をすることが必要です。

いろいろと調べていくうちに、忍者のような仕事を見つけたのです。

それが、今の事務職なんです。

裏方として現場の職員を支えながら、コミュニケーション能力が必要で、パソコンを使う業務の事務職は、私にピッタリでした。

次こそは就職に失敗しないよう、綿密な準備をして面接に望むことにしました。


今の会社との出会いは、本当に偶然でした。

当時はわからなかったことですが、未経験歓迎という言葉は、この世には存在しないと思っています。

面接をしてもらおうと、求人情報誌を見ながら電話をかけまくりましたが、面接にたどり着くことはありませんでした。

ちなみに、求人情報誌を見て電話をするということは、独暇の里で師匠から教えてもらっていました。

一般社会で仕事をしていた師匠の教えは、本当に素晴らしいものばかりです。

しかし、私の力が足りないばかりに、それを形にすることができなかったのです。

ましてや私は、一般社会で仕事をしたことはあっても、それはブラック企業での仕事です。

事務職に関しては全くの未経験です。

電話で未経験だと伝えると、必ず言われるセリフがありました。

「今欲しいのは即戦力の経験者だけなので、また機会があれば応募してください」

就職活動に失敗し続けること1ヶ月。

その間、スーツを着るチャンスすらありませんでした。

このままでは、一生スーツを着ることがないのではないか?

そう思った私は、気晴らしにスーツを着て外出してみました。

しかし、目指すべき場所はありません。

近所の公園のベンチに座り、暫くの間、空を眺めていました。

「いんですかい?」

???

何が起こったのか、私にはわかりませんでした。

知らない男性が、私に声をかけてきたのです。

「は、はい?」

「え?」

「え?え?」

「いや、私に何か話しかけませんでしたか?」

「え?あ、ごめんなさい、話しかけたわけじゃないんです」

「そうだったんですね。いいんですか?と聞かれたような気がしたもので」

「ごめんなさい、インザスカイとつぶやいただけなんです」

「ああ、もしかしたら、私が空を見上げていたからですか?」

「はい、何となく、インザスカイという言葉が頭に浮かんで、無意識につぶやいていたんだと思います」

「なるほど、私の勘違いだったのですね。こちらこそ、すみませんでした」

「いえいえ、悪いのは私の方です。つい、言葉が無意識に出てしまう癖があるんです」

「それは、恐ろしい癖ですね」

「はい、いつも職場で注意されるんです」

「怖い上司ですね」

「いえ、部下に注意されるんです。私、会社を経営してまして、一応社長です」

「え?社長さんなんですか?ごめんなさい、いろいろとびっくりし過ぎて、処理しきれません」

「人員不足で、事務作業を自分でやるのですが、ずっと何かをしゃべっていて、部下にうるさいと怒られるというのが日課なんです」

「それは大変ですね」

「だから今、ハローワークに行こうと思っていまして、事務職員を募集するために」

奇跡、ミラクル!

神様ありがとう!!

臨兵闘者皆陣列在前!!!

あ、結界を張る必要はなかった。

「実は私、事務職員で働ける会社を探していまして、もしよければ、面接をしてもらえないでしょうか?」

「え?そうなんですか?てっきり、営業中に少し休憩しているものとばかり思っていました」

「1ヶ月前に面接用のスーツを買ったのですが、着るチャンスがなくて、気晴らしに着てみたんです」

「それは、大変な状況ですね。うーん、どうしようかな」

「ぜひ、お願いします!」

「うーん、そうですね、わかりました、これも何かの縁かもしれません。では今ここで面接しましょう」

「ありがとうございます!では、履歴書を持ってきますので、少しお待ちいただけますか?家はすぐそこにありますので」

「あ、いいえ、履歴書は必要ありません。私、履歴書を見ないで面接するのがモットーなんです」

「なるほど!そういうのもあるんですね」

私は、それで変な人を採用したりしないのですか?

と聞きたいのをグッと我慢しました。

変なことを言って、相手の気持ちが変わらないように。

「では、面接をはじめましょう」

「はい、よろしくお願いします」

私は、思いがけずスーツを着て面接を受けることができたのです。

「人柄は、だいたいわかりました。何か、得意なことはありますか?」

「ししょ、あ、先生にパソコンを習いましたので、パソコンを使った作業は得意です」

「なるほど、事務職に向いているわけですね。ちなみにあなたは、今まで生きてきて運が良かったですか?運が悪かったですか?」

「え?運ですか?うーん、あ、シャレではなくて、えーとですね、運は、良かったと思います」

「それはなぜですか?」

「周りの人に恵まれていたと思います。いろいろと、大切なことを教えてもらいました。私も、そういう人になりたいと思っています」

「なるほど。それは良かったですね。私が一番好きな考えです」

「ありがとうございます」

「わかりました。では、明日合否の連絡をしたいので、電話番号を教えていただけますか?」

「え?電話番号?」

そうです、私は、電話番号を持っていなかったのです。

面接の連絡も、アパートの前にある公衆電話から掛けていたのです。

「すみません、私、電話を持っていないのです」

「え?そうなんですか?それは珍しいですね」

「すみません」

「わかりました。では、明日、うちの会社に来てもらっていいですか?住所はここです」

「はい、わかりました。伺います、伺わせていただきます」

不思議な出会いから始まった面接は終わり、社長さんは会社に戻っていきました。

私は、緊張のあまり大量の汗をかいていました。

まだまだ忍者の修業が必要なようです。


次の日、私は朝早く目覚めました。

スーツに着替え、さっそく昨日出会った社長さんの会社、正確には社長さんへ教えてもらった住所へ向かいました。

教えられた住所には、会社らしき建物がありました。

しかし、どうやら開いていないようなのです。

入口のドアは自動ドアではないため、私の中の忍者が出ているわけではありません。

考えてみたら、何時に行ったらいいのか聞き忘れていました。

今は早朝の5時。

会社の入り口で、なぜか新聞配達員から渡された新聞を持ったまま、3時間ほど経過しました。

ようやく従業員の方が出勤されたようでした。

「あの、昨日、社長さんと面接をしまして、電話を持っていないので直接会社の方へ来てほしいと言われて来た者なのですが」

「え?電話を持っていないですって?」

次々と出勤してくる従業員の方々。

「ちょ!この人、電話を持っていないんだってさ」

「え?マジで?それって本当なんですか?」

「あ、はい、電話は持っていません。今まで困ることがなかったもので」

独暇の里では、連絡を取り合う際には狼煙を上げていました。

電話が必要なかったのです。

「社長は、たぶんあと30分後には来ると思いますので、中でお待ちください」

そう促された私は、会社の中へ案内されました。

入り口には社名が記されていました。


【フリータイムアローン株式会社】


「暇な時間に独りで・・・、え!?それって、独暇流ってこと!?」

あまりにも大きな声だったようで、職員の方を驚かせてしまったようです。

それにしても、本当に運命を感じました。

独暇流忍者が、フリータイムアローンという会社に就職するかもしれない!?

いや、これはもう、就職できたも同然だと、この時は直感でそう思いました。

10分後、社長さんが出勤してきました。

「あ、社長、今日は早いですね。何か、昨日社長と面接をしたとかいう人が来てますけど」

「あ、ありがとう。そう思って、今日はいつもより早く出社したんですが、もう来てたんですね。実は、時間を伝え忘れていたので、営業開始時間に来るかもしれないと思ってたんですが」

「もう、社長、しっかりしてくださいよ!」

社長さんが昨日言っていたことは、本当だった。

普通に、部下に注意されている。

大丈夫かな、この社長さん。

などと思いながら、そのやり取りを見ていました。

「あ、おはようございます。すみません、時間を伝え忘れてましたね」

「あ、いいえ、こちらこそ、時間を聞かなかったのが悪いので。朝5時から待ってました」

「え?朝5時から待ってたんですか!?」

「電話も持ってないし、朝5時から待ってるなんて、何かもう、ちょっとオレ、SNSに書込むわ」

社内のザワツキがいっそう激しくなりました。

どうやら、朝5時というのは、忍者の世界では何の意味もない時間であっても、一般社会では少し特別な時間のようでした。

後から知ったことですが、朝5時というのは、高齢者が起きる時間として一般的に認知されているとのことです。

入社もしていないのに、圧倒的なインパクトを残した私は、忍者としては失格なのかもしれません。

ここまで目立ってしまっては、ミッションを達成するのは並大抵のことではありません。

しかし、今は会社に採用されるかどうか。

そういう意味では、ここまでインパクトを与えられたのは、成功だったのかもしれません。

「ちょっとオレ、あの人と一緒に働きたいかも」

「だよね!毎日、めっちゃ面白そうだもんね」

「アメージングな仕事をしそうだね」

すでに社内では歓迎ムードです。

さぁ、社長さん、この社員の皆さんの声を是非取り入れてください!

と思って社長さんの方を見たら、電話中でした。

残念ながら、社長さんに対しては、何のインパクトも与えられなかったようです。

「すみません、急ぎの電話が入ったもので」

「あ、いえ、全然大丈夫です」

「では、こちらへどうぞ」

「はい、よろしくお願いします」


運命の瞬間がやってきました。

私としては、図書館の本で見た面接の成功例の1つですら達成していないとしても、何か期待を抱いていました。

社員の皆さんの声も、その気持ちを後押ししてくれたような気がします。

「えーと、どうやって伝えたらいいのかわかりませんが、結果的には不採用です」

「はい、ありがと・・・!?えっ!!!」

「申し訳ありません、今の我が社の利益では、とてもお給料を払える状態ではないのです」

「は、はぁ、そうですか」

「私がもう少し頑張っていれば、お給料の50万円をお支払いすることができたとは思うのですが、20万円しか余裕がないのです」

「え?20万円も余裕があるのですか?」

「え?あ、はい、たったの20万円しか余裕がなくて」

「あ、えーと、もし20万円でも私が大丈夫ですと言えば、入社は可能ですか?」

「え?だって、20万円ですよ?生活できますか?」

「あ、はい、10万円あれば、生活できます。というか、今すでにそういう生活です」

「あ、そうなんですか。20万円でも大丈夫なのであれば、明日からでも来てほしいです」

「え、あ、ありがとうございます!こちらこそ、明日からよろしくお願いします!」

何とこの社長さん、現場職員の皆さんに50万円もの給料を払うことが当たり前だという考えの持ち主でした。

社員としては、確かにそれだけもらえれば嬉しいでしょう。

でも私は、別に20万円もあれば余裕で生活ができるのです。

そこは、忍者として今まで生きてきましたので、いくらでも生きる術を知っているのです。

「皆さん、明日からこちらで働くことになりました。よろしくお願いします」

「おお!やった!一緒に仕事できるんだ!」

「明日からめっちゃ楽しくなりそう」

物凄い歓迎です。

非常に感激です。

準備は万全です。

「皆さん、明日から、事務職員として来ていただくことになりました、名前は・・・」

「・・・」

「あれ?そういえば、お名前は何と言いましたか?」

「いえ、ナンではありません」

「いえ、そうではなくて、私、あなたのお名前を伺っていましたか?」

「あ、そういえば、私、名乗っていないと思います」

ここでも、圧倒的なインパクトを残したことは、言うまでもありません。

というか、この社長さんに会わなければ、私は一般社会で社会人として生活できたのかどうか、怪しいところです。

「ちょっと、社長!名前も知らない人を採用したんですか?」

「あの人も凄いけど、うちの社長もやっぱりすげーな」

「ウケるわ、うちのカンパニー」

この私ですら、こんな会社でもやっていけるのが凄いと思いました。

それほど、この社長さんはどこか抜けているというか、変というか。

「あ、名前は、苗字がハヤクジで、名前がカゲオです」

「ハヤクジさんと仰るのですね、ではハヤクジさん、明日からよろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします!精一杯頑張ります」

亡き父であるハヤクジカゲノブが、影(カゲ)で活躍する雄(オス)であれとの願いを込めてつけたと、母から聞きました。

ちなみに母の名前はシノブコです。

ハヤクジ家では代々、子には必ず「カゲ」の文字を与えよと言い伝えられています。

余談ですが、私が父となった暁には、息子なら「イチカゲ」とし、娘なら「コカゲ」とすでに決めています。

その前にまずは、生活の基盤を安定させ、私にとってのくノ一を探すところからです。

スーツとは、社会人にとっての主たる戦闘服のようなもの。

そんな気持ちを抱きつつ私は、明日からしっかり働くために、ベランダの柵の上に片足で立ちながら、アイロンがけをしたのでした。

独暇の里では、修行の一環として行っていたことですが、エクストリームアイロニングというスポーツだと、後から知りました。


「おはようございます!」

「おはよう、ハヤクジさん、今日は何時から待ってたんですか?」

「今日は、10分前くらいから待ってました」

「さすがに、もう朝5時から待つことはないかぁ」

「さすがに、はい」

「私、営業のウカミと言います。ウカミヒロシです。よろしくお願いします」

「ウカミさん、よろしくお願いします」

ウカミさんは、いかにも『デキる営業マン』という感じで、爽やかな笑みが似合うイケメンです。

昨日も、誰よりも早く出勤していたのがウカミさんでした。

「昨日、NicePicksというSNSに、ハヤクジさんのことを書いたんですけど、私史上最多の【Nice】をもらったんですよ」

「へぇ、それは良かったですね。ところで、NicePicksとは何ですか?オイシイのですか?」

「NicePicksというのは、サラリーマンを中心に流行っているSNSのことですよ。ハヤクジさん、知らないんですか?」

「はい、パソコンは持ってるんですが、インターネットに繋がっていないので、何のことやら」

「じゃあ、給料をもらったら、スマートフォンを買えばいいですよ。そうしたら、電話とインターネットの両方が使えるようになりますし」

「おお、スマートフォンというのは、とても便利なのですね。アドバイス、ありがとうございます」

「それより、早く中に入りましょう、この雨でハヤクジさんのスーツがビショビショですよ」

傘をさすと、どうも忍者感が出てしまうため、私はなるべく傘をささずに過ごそうと考えたのです。

しかし、それが仇となり、出勤してまもなくスーツを脱ぐこととなりました。

「いやぁ、去年の会社運動会で使ったジャージがあって、よかったですね」

「はい、助かりました。というか、この会社では、運動会をやっているんですか?」

「そうです、社長が、会社員にとって健康であることが望ましい!とかなんとか張り切ってしまいましてね」

「それは私も思います」

忍者にとって健康でいることは、とても大切なことなんです。

健康でいられるからこそ、常に確実にミッションを達成できるのです。

もし病気や怪我をしたとしても、素早く治す術を知っています。

このスキルは、一般社会でも使えるなと思いました。

「ハクション!」

「あ、ハヤクジさん、風邪をひいたんじゃないですか?」

「あ、大丈夫です、たぶん」

「いや、大丈夫じゃないですよ、どう見たって風邪ですって顔してますよ」

「ゾンダゴド、アディバゼン」

「いや、鼻水も垂れてるし」

私は、出勤初日にして早くも体調不良による欠勤という不名誉を記録してしまうのでした。

結局その日は、ウカミさんにしか会うことができず、社長さんにはウカミさんから連絡してもらうこととなりました。

次の日、忍者の治癒法ですっかり完治した私は、まるで昨日のことはなかったかのように、昨日と同じ時間に出勤しました。

少ししてウカミさんが出勤してきました。

「あ、ハヤクジさん、おはようございます。もう大丈夫なんですか?」

「ウカミさん、おはようございます。もう、すっかり大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「社長も心配してましたよ。心配だから電話してみるとか言ってましたもん、パニックになって」

「あとで社長さんにも謝っておきます」

「あ、おはようございます。あ、ハヤクジさん、大丈夫だったの?」

「おはようございます。はい、もうすっかり良くなりました」

「あ、私は、オンダです。オンダミツコって言います。みんなからは、オンミツさんって言われてるのよ」

「オンダさん、よろしくお願いします」

「うち、営業の人しかいないから、事務職の人が来てくれて、本当に助かるわぁ」

「一生懸命頑張ります!」

オンダさんは、あまり目立つタイプではない、どこにでもいそうな女性という印象です。

そういう意味でも、オンミツさんというアダ名は、言い得て妙だなと思いました。

「おはようございまーす。なんでみんな、エントランスのとこで集まってんの?」

「あ、おはようございます。ハヤクジです。よろしくお願いします」

「あ、ハヤクジさん、体調はもうオーケーなの?」

「はい、お陰さまで、完全復活です」

「今んとこ、ハヤクジさんほどディープインパクトな人は見たことないわ」

「なんか、すみません」

「まあいいや、インしようよ、ウカミ」

「そうですね、カマイさん。ここで立ち話ってのも変ですもんね」

「あ、彼はカマイさんっていうのよ。カマイタツオさん。仕事がめちゃくちゃ早い人なの。一番の古株よ」

「カマイさん、よろしくお願いします」

「あ、ハヤクジさん、ミートゥー」

カマイさんは、見た目はとても細くて、一見頼りなさそうな雰囲気でしたが、みんなから慕われているようです。

言葉の端々に英語を織り交ぜて話すのが癖のようでした。

「みなさん、おはようございます」

「社長、おはようございます。ハヤクジさん、もう大丈夫ですって」

「あ、ハヤクジさん、心配しましたよ。もう大丈夫なんですか?」

「社長さん、心配をおかけしました。すみません。もう大丈夫です、やくそ、いえ、薬を飲みましたので」

独暇の里から持ってきた薬草は、本当に凄い効き目なんですが、そんなことは誰にも言えません。

今の私が、薬草で風邪を治したなどと言ってたら、それこそパニックになるでしょう。

これ以上、インパクトを与える必要もありませんので。


「それではみなさん、改めまして、おはようございます」

「おはようございます」

「本当は昨日からでしたが、今日から一緒にこの会社で働くことになりました、ハヤクジさんです」

「みなさん、よろしくお願いします」

「社長、たぶんみんな、結構ハヤクジさんのこと知ってますよ」

「そうよね、出勤してから結構いろんな会話したもんね」

「オイラはあまりトークしてないけどな」

「まぁ、カマイさんは、どうせいつもみたいに、すぐに仲良くなるんでしょ?」

「どうせって何だよ、ウカミ。すぐに仲良くなるのは、いいことじゃないか」

こうして見ると、この会社の人達は、私以上にインパクトのある人達なのかもしれません。

でも、直感で仲良くやっていけそうな気はしていました。

「ではみなさん、今日もシュシュッと、営業をお願いします」

「はい、社長、シュシュッと営業してきますね」

ウカミさん、オンダさん、カマイさんの3人は、まるで韋駄天のように営業へ出かけました。

私と社長さんが会社に残り、いよいよここから私の、本当の意味での社会人生活が始まります。

「さて、ハヤクジさん。ハヤクジさんにやってほしいことは、まずは日々の経理データの入力です」

「表計算ソフトで入力すればよろしいですか?」

「おお!さすが、事務職で仕事を探していただけのことはありますね。そうです、話しが早くて助かります」

「では、データファイルをください。さっそく入力しますので」

私には1台のデスクトップパソコンが割り当てられました。

営業の3人が、たまに使う程度だということで、これからは私がメインで使うことになりました。

社長さんから経理データのファイルを受け取り、私はさっそく入力作業に取り掛かりました。

「終わりました」

「え?まだ、30分しか経っていませんが、もう終わったのですか?」

「はい、もう終わりました」

「物凄い勢いでカチカチという音がしてたのは、入力スピードだったんですね。凄い、凄いですよ、ハヤクジさん」

「入力スピードだけは、独暇のししょ…、あ、先生に、いつも褒められていました」

「いやぁ、本当にいいんですか、たったの20万円の給料で。今のだけで、30万円くらいは価値があると思いますけど」

どうやら社長さんは、価値を見誤るタイプの方のようです。

でも、人を褒める天才だと思いました。

独暇流忍術の1つに、独暇五者五車四諦(どっかごしゃごしゃしたい)の術というのがあります。

これは、学者、役者、易者、芸者、医者になりきり、相手を喜ばせたり、怒らせたり、哀しませたり、楽しませたり、怖がらせたり、驚かせたりして、苦から逃れられるようこちらのペースに巻き込む術で、口車に乗せて、自分の思い通りにする一方で、相手にも利があるWin-Winなコミュニケーション術のことです。

相手を喜ばせることで、社長さんのペースに巻き込まれる、まさに喜車の術に通ずるものがあります。

昔の忍者は、類まれなるコミュニケーション能力を持っていました。

それにより、あらゆる場所へ潜入し、必要な情報を盗むことができたのです。

社長さんは、頼りなさはありますが、どうやらコミュニケーション能力だけは非常に高く思います。

だからこそ、社長として社員をまとめていられるんだと思います。

コミュニケーションの取れない経営者は、社員に好かれるわけありませんからね。

初日(本当は2日目)の仕事は、ソツなくこなすことができました。

入力作業がほとんであったため、私の強みを発揮できたと思います。

社長さんも、まずは私の強みが入力作業にあることを、何となく肌で感じたんだと思います。

社長さんは、人の使い方も、おそらく上手なんだと思われます。

「ハヤクジさん、あと30分で終業時間です。初日でしたが、いかがでしたか?」

「はい、最初は少し緊張していましたが、社長さんをはじめ、皆さんがとても接しやすく、いい会社だなと思いました」

「それはありがとうございます。皆さんも喜ぶと思います、今の話しを聞いたら」

「いえいえ、本当にそう思いましたので。ここで働けることになって、本当に良かったです」

「これから、頑張ってもらいますね」

「私にできることなら、何でもやりますよ!」

こうして私のフリータイムアローン株式会社での、初日の仕事が終わったのでした。


次の日から、世間ではゴールデンウィークというものに突入していました。

今年は、日にちの関係から、ほぼ全ての企業が9連休を取得していました。

私は、9日間全て出勤し、誰も来ないのに入り口で8時間待ち、退勤するということに使いました。

なぜなら、ゴールデンウィークというものが何か、その時には知る由もなかったからです。

10日後、いつも通り出勤すると、珍しく社長さんが仕事をしていました。

「社長さん、おはようございます」

「あ、ハヤクジさん、おはようございます」

「あのぉ、社長さん、どうして9日間、誰も出勤してこなかったのでしょうか?」

「え?どういうことですか?」

「私、9日間、毎日出勤してたんですが、誰も来なくて、どうしたのかなと心配してました」

「え?9日間、毎日出勤してたんですか?」

「はい。誰も来なかったんですが、誰にも連絡をすることができず、今日出勤してみたら、ようやく社長さんと会えたというわけです」

「ハヤクジさん、ゴールデンウィークを知らなかったんですか?」

「それはどういうものなのでしょうか?」

「あ、なるほど、わかりました。今度から、会社が休みの日は必ずお教えしますね」

「助かります。ありがとうございます」

「ハヤクジさん、その話しは、他の社員に言ってはいけませんよ」

「え?あ、はい。わかりました」

今日も、しっかりと事務職の仕事をこなしました。

しかし私は、事務職の仕事というのは、単純に入力作業をしたり、コピーを取ったり、そんな単純な仕事ではないと考えています。

明日は、社長さんとその辺の話しをしてみよう。

次の日、出勤してみると、社長さんが3日間の出張へ行ったことがわかりました。

「私は、今日から3日間、一体何の仕事をしたらいいのでしょうか?」

「ミスターカゲは、一体何ができるんだい?」

カマイさんは、2日目から私のことを急に「ミスターカゲ」と呼び始めました。

「はい。今、入力作業以外に私ができることは、おそらくありません」

「ハヤクジさん、はっきり言うわね。ウカミくん、何か仕事ないの?」

「いやぁ、オンミツさん、そんなこと言っても、僕達は営業だし、だいたいみんな直帰しちゃうから、思いつかないですよ」

「ご迷惑をおかけして、すみません」

「いや、ハヤクジさんが謝ることはないですよ。社長が、うっかりすぎるんです。あまりにも、うっかりすぎるんです」

「そうよね、うちの社長って、あまりにもうっかりよね」

「ミスターカゲ並のディープインパクトはあるよね」

「でも、何か放っておけないというか、この人のために俺達が頑張らないと!って思うっちゃうですよね」

「あ、私もそれわかる」

哀車の術という忍術があります。

独暇流でいうところの、独暇五者五車四諦の術の1つです。

相手の同情を誘うことで、相手よりも精神的に優位に立つのが目的です。

社長さんは、素でこの術を使える人なんだと思いました。

「ところで、1つ、いいですか?」

「おお、ミスターカゲ、なんだい?」

「社長さんの名前って、何ですか?」

「え!?」「え!?」「え!?」

私は、またしてもディープインパクトを与えたようでした。

「ハ、ハヤクジさん、本気で言ってるの?」

「やっぱり、ハヤクジさんといると、SNSに投稿するネタが尽きないですよ!」

「ミスターカゲは、うーん、英語が思い浮かばない」

あのカマイさんが動揺を隠せない程の衝撃だったようです。

「うちの社長の名前は、シャさんよ。フルネームは、シャ・チョウよ」

私は、オンミツさんの言葉を聞き、そして思考が止まりました。

「あ、はい」

「いやいやいや、ハヤクジさん、顔がやばいですよ」

「え?誰がですか?」

その日、私は、早退しました。

そして、2日ほど欠勤しました。


社長さんが出張から帰ってきたその日、私は久々に出勤しました。

「ハヤクジさん、おはようございます」

「あ、社長さん、あ、シャ社長、チョウさん」

「先ほど、ウカミさんから聞きました。まだ体調が悪いのですか?」

「あ、いいえ大丈夫です。体調というか、メンタル的な部分といいますか」

「それは大変です!入社早々、頑張りすぎてしまったからではありませんか?」

「そういうことではないのですが、今日は仕事を頑張ります!」

「では、今日もお願いします」

そして私は、社長のシャ・チョウさんと2人っきりになりました。

「あの、いいでしょうか?」

「はい?どうしましたか?」

「はい、あの、事務職の仕事について、実は私なりに思うところがありまして、聞いていただきたいといいますか」

「是非、聞きたいですね」

「ありがとうございます」

私は、事務職の仕事は、単純に入力作業をしたり、コピーを取ったり、そんな単純な仕事ではないと考えています。

事業を経営していく際に必要とされる庶務や雑務、それが事務職の仕事です。

庶務や雑務であるため、単純作業が多く、誰にでもできる仕事だと思われることが多いです。

しかし、その全ての作業には意味があり、それが事業経営に欠かせない作業なのです。

また、現場をサポートしたりアシストしたりするポジションでもあります。

現場の職員が事務職にとっての顧客と考えることもできます。

つまり、従業員満足度を向上させることが、最重要ミッションとなります。

忍者である私は、このミッションを達成するために仕事をしています。

「私は、事務職の仕事を、こう考えていますが、いかがでしょうか?」

「ハヤクジさん、素晴らしいです!私の考えていることと、本当に似ています」

「それは嬉しいです。やっぱり、この会社に入って良かったです」

「ところでハヤクジさん、出張でもらった領収証がたくさんありますので、入力作業をお願いします」

この日、私は、単純な入力作業に追われることとなりました。

それから私は、主に単純な入力作業をしながら、少しずつ新しいことも覚えていきました。

また、今まで職場で使っていたデータも、少しずつ改良を加えて、今までよりも効率的に作業ができるようにしました。

事務職は、作業の効率化を誰よりも目指さなくてはいけません。

その分、コスト削減に繋がるからです。

事務職がコスト削減をし、営業職が売上を伸ばすことで、利益率の向上に繋がります。

世の事務職の方は、この辺を意識するだけで、もっといい仕事ができるのではないかと、私は考えています。

現代には、物は溢れていますが、時間の足りていない人が多いからです。

そうこうしている間に、フリータイムアローン株式会社へ入社してから、3ヶ月が経過しました。


「あのさぁ、ウカミさぁ、何かさぁ、フォーゲットしてない?」

「え?どうしたんですか、カマイさん」

「そうね、カマイさんの会話から始まるのって、珍しいわよね」

「いや、オンミツさん、そういうことじゃなくて」

「カマイさん、何を忘れているか、わからないのですか?」

「そうだね、ミスターカゲ。わからないから、フォーゲットなんだよね」

チグハグな会話にも、ようやく慣れてきました。

というか、まぁ、チグハグなのは私だけですが。

いずれにしても、ウカミさんが私のことをSNSに投稿しなくなってから、約1ヶ月経過しました。

「みなさん、おはようございます」

「あ、社長さん、おはようございます」

「ああ、ハヤクジさん、今日の夜は暇ですか?」

「あ、はい、独りで暇な時間を過ごす予定でした」

「良かった!みんなは?」

「僕も、どうせ家に帰ってSNSをやるだけです」

「私も、生春巻きの仕込みをする以外には、特に予定はないかなぁ」

「オンダジョシ、それはロンリーだね」

「いいのよ、私のことは!カマイさんはどうなのよ?」

「まぁ、ミーはあれだよ、愛社精神が強いから、いつでもフリータイムでアローンだよ」

「いや、カマイさん、うちの会社を愛してくれるのは嬉しいんですが、それはちょっと違うような気がしますね」

「ですよね、社長。ほんと、カマイさんは調子がいいんですから」

「いやいや、ウカミよ。これが営業のテクニックでもあるんだよ」

「それはそうと、みなさん、今日は、ハヤクジさんの歓迎会をしませんか?」

3ヶ月もの間、歓迎会というイベントについて考えたことはありませんでした。

私は、歓迎会というものを知らなかったからです。

カマイさんが忘れていると言っていたのは、歓迎会のことでした。

あれから、ウェルカムパーティ、ウェルカムパーティとうるさいからです。

「カマイさんが歓迎会みたいな飲み会イベントを忘れるなんて、珍しいわね」

「そうですよね。もう、すっかり終わったと思ってましたよ、僕は」

「ハヤクジさん、今日はハヤクジさんの歓迎会なので、何が食べたいですか?」

「えーと、私が決めなくてはいけないのでしょうか?」

「そうだよ、ミスターカゲ。今日はミスターカゲがメインゲストなんだよ」

私が悪いわけではないのです。

歓迎会というシステムが悪いのです。

何が食べたいかを聞かれたので、こう答えただけなのです。

「兵糧丸ですかねぇ」

かくして一行は、兵糧丸を探しに忍者の里へ・・・行くことはありませんでした。

「いや、近所の居酒屋でいいんじゃないでしょうか?」

ウカミさんの一言で、会社から歩いて22mのところにある居酒屋へ行くこととなりました。

あとでわかったことですが、居酒屋C-B(シーのビー)という店名でした。


「かんぱーい!」

「いやいや社長、ソーファストですね」

「どうしました、カマイさん」

「社長、カマイさんが言いたいのは、せめて歓迎の挨拶をしてからの乾杯じゃないんでしょうか、ということだと思います」

「ザッツライトだよ、ウカミくん」

「歓迎の意を込めた挨拶らったんれすけろねぇ~」

「え?社長、もう酔っちゃったの?」

「そういえば、社長がお酒を飲んだの、見たことがないですよ」

「ハングオーバーが怖いけど、明日はホリデーだからオーケーじゃない?」

などという会話から、私の歓迎会が始まりました。

歓迎会というイベントに初めて参加したことはもちろん、職員のみなさんとの時間がとても楽しく、毎日歓迎会をやればいいのに!と思ったほどです。

「ハヤクジさんってさぁ、最近あまり面白くないですよね」

ウカミさんの突然すぎるツッコミにたじろぐ私。

手を差し伸べてくれたのは、オンミツさんでした。

「ウカミくんが慣れすぎちゃったからでしょ?私にとっては、十分面白いけどね」

「そうかなぁ?まぁ、確かに最近、ハヤクジさんのことをNicePicksに投稿していないかもしれません」

「ほら、やっぱり。ただの慣れよ」

「私って、そんなに面白い人間なのでしょうか?」

「ファニーというより、インタレスティングだけどね」

カマイさんとの会話のほうが、私にとっては面白い…と言いかけて、言うのを辞めました。

なぜなら、社長さんが30分以上もトイレから戻ってきていないと気付いたからです。

「さすがに私は女子だから、助けてあげられないわ」

と言いながら、興味津々で男子トイレに入ろうとするオンミツさん。

なぜか今日の私は、オンミツさんを目で追うことが多いと感じました。

これはもしかしたら…

「社長、大丈夫ですか?」

「はい?なんれすか?ワターシ、トイレツカテルヨ」

「ダメだな。カマイさん、どうしましょう?」

「ソーリー、ウカミ。こんなトラブルは、若い君に任せるよ」

「ウカミさん、私が手伝いますので、まずは社長さんをトイレから出しましょう」

「でもハヤクジさん、鍵がかかってますよ」

忍者として、解錠するスキルはあるのですが、ここで見せるわけにはいきません。

しかし、こういう場合の対処方法を、私は知っています。

「みなさんは、店の人を呼んできてください。私は、何とか社長さんに中から鍵を開けてもらえるようにしてみます」

そういうと、3人は店員を呼びに行きました。

その隙に、シュシュッと解錠しました。

「ねぇ、別に3人で呼びに来なくても良かったんじゃない?」

「あ、そういえば!」

「ワオ!」

3人が戻ってきた頃には、トイレの鍵が空いた状態で、私が社長さんを背負っていました。

「あ、鍵が空いたんですか?」

「はい、社長さんが何とか開けてくれました」

忍者であることがバレずに済みました。

それと同時に、久々に忍者らしいことをし、清々しい気持ちに包まれていました。

やはり私は、忍者を辞めることは無理なようです。

辞めようと思ったことはありませんが。


社長さんをタクシーに乗せ、帰宅させた我々は、店で飲み直すこととなりました。

社長さんは明日、出勤できるのだろうか?と心配はしていましたが、皆さんとの楽しい時間を優先しました。

「ハヤクジさんって、お酒に強いですね」

「いや、皆さんもお強いと思いますよ」

「まぁ、私達はほら、営業だから、接待で飲む機会が多いのよ」

「シックがウォーリーだけどね」

「カマイさんは、一度倒れてますからねぇ、飲み過ぎないでくださいよ」

「ドントウォーリー、ビーハッピー、ウカミ」

飲み会というのは不思議です。

誰かが何も質問をしていないのに、どんどん話題が変わりながら会話が進んでいきます。

そして、皆さんがとても楽しそうで、笑顔がイキイキしています。

「皆さん、歓迎会というものは、毎日やってはいけないという決まりがあるのですか?」

心の声が外に出てしまったようです。

「え?ハヤクジさん、何言ってるの?」

「え、何か?」

「いや、ハヤクジさん、今、歓迎会を毎日やっちゃダメなルールがあるのかって?」

「え?そんなこと言ってました?」

やはり、とぼけて誤魔化すことは無理でした。

「いやぁ、なんか今日は楽しいなと思ったので、つい口に出てしまいました」

「うん、そうよね。私も今日は、久しぶりに楽しいわ」

「まぁでも、普段頑張っているから、こういう時に楽しいと思えるんじゃないですか?」

「なに、ウカミくん、先輩に説教かしら?」

「いえ、そういうわけじゃなくて、でも、何かそう思ったんですよ。勘弁してくださいよぉ、オンミツさん」

本当に、この人達と一緒に働けることが楽しいんだと思いました。

あの公園で社長さんと出会わなければ、こんなことにはならなかったわけで。

奇跡に乾杯!

の乾杯のところで、本当に乾杯をしてしまい、また皆さんを驚かせてしまいました。


「おはようございます、社長さん」

「・・・」

「あ、おはようございます、社長さん・・・?」

「えぇと、君は、どなたでしょうか?」

「え?私ですよ、ハヤクジですよ!」

「・・・!?え?ちょっと待って、君、ハヤクジさん?」

「はい、そうに決まっているじゃないですか」

「だって君、2年半前に突然無断欠勤になったから、もう解雇してますよ」

「え?カイコってどういう意味ですか?」

「単刀直入に言うと、もう我が社の社員ではなくなったということですよ」

「え?なぜですか?」

「だって、ハヤクジさん、あなた、2年半前に歓迎会をやって、その次の日から突然会社に来なくなったじゃないですか。何度も連絡しようと思ったのですが、連絡先がわからないし、家を訪ねても、家らしき建物はないし、それでやむを得ず解雇処分とさせていただきました。もう、出社しなくても大丈夫ですよ」

「え?歓迎会って、昨日やったばかりじゃないですか?何を言っているんですか、社長さん。確かに私、少し酔いました。二日酔いでした。でも、ようやく酔いが覚めたから出社したんですよ」

「ハヤクジさん、酔いが覚めるまで2年半経ってますよ、ありえませんよ、普通に考えて・・・」

「そういうこともあるでしょう。それをありえないだなんて大げさなんですね。その冗談、笑えませんよ、社長さん」

「いや、ハヤクジさん、君のほうが笑えませんよ、怖いですよ、えぇ、とても怖いです」

こうして私は、突然職を失ったのです。

会社というのは忍者に厳しいのですね。

でも、これも修行のうちなのだなと考え、新たな事務職探しの旅へと出発したのでした。

知ってるでしょう?

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