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あの日々のこと①  密着、同行、対面

名刺と企画書と熱意とちょっとの幸運だけあれば、会いたい人に会える。

取材というものの醍醐味を知ってもう12年になるけれど、会わないと紡げない意味や表情に触れるたびに味わう興奮は、やはり他に代え難いものがある。

ぼくは勝手に取材を3つのあり方に分けていて、得手不得手もある。

1つめは密着。ある特定の対象(人でも、動物でも、現象でも)にベッタリと張り付いて、張り付いて、張り付き続けて出てくる、ホンネ、素(す)、スキ間、むき出しの姿などを狙うもの、なのだけど、ぼくはこれがとても不得意だ。いまぼくが参加している会社にはかつてタレントさんをホームステイさせてその変化を密着し続けて捉える番組があったのだけど、ぼくは視聴者としては楽しみつつ、自分がやることは絶対にムリだった。最大の理由は、カメラが介在しないところに生まれる波が、カメラを構えた時の高まりになる、と信じているところがあるから。

「黙って立っている表情を横顔とバックショット狙え そうすりゃナレーションが付いてくる」とはまあ、テレビ界の鉄則のようなものだけど、別にそれは素の瞬間でなくてもいい。ポッソリとした呟きを拾え、とは言われるけれど、それは密着していないと出てこないものでもない。(むしろ密着しないとそれが拾えないくらいならそこは作為でしかない)

無論密着をするからこその、まだ見ぬ自分を捉えてほしいと考える取材対象もいるわけで、その場合は大いに密着アリ!だけれど、これだけ監視カメラが普及した社会にあって、取材のカメラが監視的にKEEP WATCHINGし続けるのは「人」がいない感じで、ぼくは苦手である。あくまで、ぼくは。

そういう意味で得意、というか好きなスタイルと言えるのが残りの2つ。

まずは2つめの「同行」。これはいわゆる「レポーター」がいるスタイル。一緒に旅して、同じものを見て、どう思うかを尋ねる。その思いを紡いで、旅の体験を1つのパッケージとして番組などに仕立てる。密着との最大の違いは、「スケジュール、オンの時間とオフの時間を共有している」こと。カメラを構えるのはここまで、カメラを下ろしたらあとはオフ。はっきりしている。この「同行」の欠点はというと、取材を決めた場所しかカメラは構えられない(「密着」の場合、「カメラ止めてください!」みたいなのをウリにするのも多い/「同行」でもできないことは無いけど)。つまり、ややもすると「台本通り」となってしまう。取材場所を決めるに当たって、ディレクターは①どこを取材するか②どういう順番でみるか③どのくらいその場所に時間を割くか・・・の3つを決めるために「台本」を書く。そうすると、台本が一人歩きして、せっかく現場に行ったのに、台本通りだけ撮ってくればカタチになる、と思い込んでしまうことも多い。これじゃ、せっかく生身を相手にしているのに、小津映画みたいである(嫌いじゃないけど、オヅ)。

じゃ、どうするかというと、ぼくは、あくまでぼくは、だけど、「旅人の気持ち」をフリーにしている。こっちは台本書くけれど、旅する人(レポーター、ナビゲーター)には台本は見せない。「きょうは2千年前の街がまるまる残った世にも稀な遺跡に行きます」ぐらいの全体のテーマは伝えつつ、ほぼ、それだけ。ガイドブックを持たずに場所だけ選んで来た旅人のように、フラリと来てもらう。だからさっきの①②③でいうとぼくは②どういう順番で見るか、をウラで異常に重視している。ダラッと見るだけだと本当にただの「旅」だけれど、ウラで順番だけ(往往にして番組で見ていく順番とほぼイコールになる)決めておいてその順番に見てもらえば、大きくズレることはない。そして、むしろここからが大事なのだけど、そこまで「台本」があったり「見る順番」を決めておいても、旅人の「受け止め方」が全然変わる事が多い。「エ?そんなトコロに食いつくの?」というのもあるし、「エ?これに響いてくれないの?」というのもある。台本が瓦解する瞬間。でもこれが「同行」の最大の醍醐味だ。同じものを同じ目的(番組を、作る)で見に行っているからこそ、自分の捉え方にはウソをつかない。その「本当」に影響をうけて、ぼくも現場ではアレコレ順番を変えたり、新しく取材を増やしたりする。それが楽しい。「密着」の場合、こちらが取材相手のスケジュールを変えることは不可能に近いけど、「同行」の場合だと、「この何日間は一緒に旅します」と最初に決まっているから、スケジュールも変更可能。旅を一緒につむぐ楽しさ。これが、「同行」に魅せられている理由だ。

うん。最初の投稿なのに長い、長い。でもここまで10分ほどで書けました。思いを連ねるのはたのしいですね。続きます。ここからが、この場に書くゆえの、本題。

3つめの取材のカタチ、「対面」。これ本当は単に「インタビュー」と言い換えてもいいのだけど、密着や同行のときもインタビューはするから、あえて二字熟語で分けるなら、「対面」。

この取材形式の特徴は、とにかく時間が短いこと。「アナザーストーリーズ 羽生結弦連覇」の場合、トータルのロケ時間は6時間にも満ちません。日数でも合わせて1週間くらい、そのうち4日は移動です。

アメリカ、ニューヨーク郊外に住むディック・バトンさんはご高齢のため取材を限定していて(取材となると、番組ご覧頂いた方にはよくお判りの通り、あの調子で毒と熱をエネルギッシュに放出するので)、取材時間は1時間半限定。あ、でもちなみにブレイク用にクッキーとコーヒーを用意してくださいました。こちらがお土産に「ユヅルさんのふるさとのお菓子ですよ」と「萩の月」を持って行ったら、「こんなに軽やかでウマイものは食べたことがない!だからユヅルはあんなに軽やかに跳べるんだな!」とご機嫌でした。

ロシアのモスクワで指導されているプルシェンコさんは、きっちりエージェント管理のもと、取材は絶対、1時間限定。2度目の取材でしたが、前回、浅田真央さんのソチ五輪のことで取材した時は「もう聴き終わっただろ?じゃ、ぼくは指導に戻るよ」と言った時、時計はあと2分だったのを覚えています。彼は一度も振り返らず、腕時計もつけていないのですが、「取材は1時間」がカラダに染み込んでいて、まあびっくりしました。でも今回は、ちょっと特別。ご子息アレクサンドルさんをはじめ自身の教え子が参加する、しかも自分の名前を冠した大会の会場での取材。まあ待たされました。会場のカフェで聞く予定がカフェが閉店時間になって使えなくなってしまったほど。でも、そのぶん、少しだけ、1時間「6分」追加してもらえました。最後、「浅田真央編」のブルーレイを渡したら本当に喜んでいた。「前にもらったけど誰かにあげちゃって、ネットで探して見ていたんだ!」と。皇帝もエゴサーチするのですね。

そのモスクワからそのまま飛んでいったマドリッドで出会ったのが、ハビエル・フェルナンデスさん。彼はこの時引退は表明していてもまだ現役、最後のヨーロッパ選手権に向けての練習中で、時間はこれまた1時間限定でした。でも、番組をご覧頂いたらわかりますが、この1時間が実に濃密。はっきり言って、1回のインタビューで一言出て来たらグッと手を握るような珠玉のことばが何度も、何度も。それだけ羽生さんとフェルナンデスさん、ふたりの「背中を見せ合う」関係が深いのだと、その関係をすこし垣間見させていただいたこの1時間は本当に至福でした。

「対面」、インタビュー取材の場合、時間が限られる。何時間でも聞いていいよ、と言われることもありますが、集中力には限界があり、どれだけ長くても2時間。だからプルシェンコさんやフェルナンデスさんの「1時間」は決して短いわけではありません。

むしろ驚かされるのは、フィギュアスケート選手の方の特性なのですが、限られた時間のなかでことば、表情で表現することの凄まじいレベルの高さ。考えてみれば彼ら彼女らは2分50秒、4分という時間のなかに、それまでのありとあらゆる経験と、才能と、ひらめきとを表現することに長けた方たち。映画「リトルダンサー」に、主人公の少年がバレエの醍醐味を「電流が走るようだ」と述べる珠玉のシーンがありますが、あのような、腹の底、魂の底から出て来たような言葉が、フィギュアスケーターの方の取材では幾度も体感できます。

そしてそれはおそらく、「密着」していたら出てこないもの。瞬間で表現する人には、瞬間的に接したほうがいちばん良い表現が得られると思うのです。密着していないと撮れない苦悩やブレイクスルーの瞬間は必ずあると思いますが、表現者は表現を本分とするもの。表現としてその人が認めないところまで入り込んで撮るのは、ぼくはすこしアンフェアではないかと考えてしまいます。

これから先、取材したい人はたくさんいますし、取材したい国、現象もたくさんあります。そのなかでたとえば潜入ルポ系の取材など、「密着」の方法がいちばんいいものに巡り会う場合もあると思います。ただ「オールマイティ」を目指すのではなく、自分の得手不得手を理解して進む、自分が求められる場所を突き進むことの大事さを常日頃感じているのも事実。

そんな日々を過ごしながら、またどこかで続きを書くことがあれば、書きます。

2019年6月13日 阿部 修英



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