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GIFT is...から...is GIFTへ

ルナ・レインボウ。
ムーンボウとも言う。「月の虹」。

この月の虹は、目で見ると、白い1本の細い線となる。
白い線はとても神秘的で、たとえばハワイの人々はそれを神がもたらすものとし、祈りを捧げたり、願い事を告げたりする。その白は、儚くて、でもその儚さが尊くて。生で見届ける時にしか見られないものだ。
以前、コスタリカの山岳ガイドから聞いた話だけど、満月の時、雲海の上に月の虹が出る、その風景を、現地の人は「天の頂がひっくり返って地上に現れた」と思うそうだ。

儚くて尊いものは、人を惹きつける。
伝説が伝説を呼び、もう1度見たいと思わせる。
だからこのルナ・レインボウは多くの写真家やテレビの作り手たちに
「撮りたい」と思わせた。そして、その現場に向かわせた。
―――そして、現場に立った時、撮り手たちは驚いた。
目で見れば白い線、なのに、カメラを通すと違う。
多くの自然現象は、肉眼で見た方が鮮やかなのだけれど、
映像のフィルターを通すと、色が見えてくる。

ぼくはテレビの取材のおかげで世界中にいかせてもらったけれど、
大抵は肉眼で見た鮮やかさをなんとか映像の中でも再現しようと思って
撮影する。氷山を埋め尽くすペンギン。頂上から何百何千の滝を落とすテーブルマウンテン。発掘されたての兵馬俑の色。
クローズアップしたり、空撮したり。それでも肉眼で見る感動にはどこか及ばぬものを感じて、くやしさも感じていた。肉眼というのはそれだけ感度が高く、ただ見る以上に多くを感じ取るものだ。それこそ、祈りたいぐらいに。
・・・だけどこの「月の虹」は違う。
肉眼とは全く違う魅力を、映像のフィルターを通じてもたらすことができる。肉眼では見えないものが見えてくる。それは、肉眼で見た時に既にもたらされていた「儚くも尊い神通力」のようなものが、映像に刻まれるのだったらこう見せたい、こうありたい、という別の形で発露されたものに見える。

―――そんなことを思ったのは、あのショウの再配信が行われたからだった。

2月に会場で、東京ドームで「生」で見たあのショウが、どれだけ特別なものだったか。それは都度つど書いて来た。

生で見る魅力、だけでない、映像で見る魅力、まさに「月の虹」のような魅力については、1度書いた。

あらためてこの6月に配信された「GIFT」。
仕事が立て込み、まずいま前半だけを見終えた状態で、この文章を書いている。

―――見る前に、いまこの映像が、
この「6月」に世界に配信された意味を考えた。
長い長いコロナ禍が明けようとしている今。
世界的に見れば病の根絶には遠かったり、
個人的に見ればつぶれてしまった馴染みの店はもう戻らなかったり。
それでも、未来に進んでいる。

そう言う時に、人はどういう姿勢になるか。
「もう前と変わらない!ヒャッハ〜!」と騒ぐだろうか。
そう言う人もいると思うが、実はそう言う人はコロナ禍の間も、ずっとそうだったのではないかと思う(これは非難ではない。時代に左右されない生き方の人もいる、というだけのこと)。
逆に、「いつまたパンデミックが来るか分からない。終末に備えよ!」と警鐘を鳴らすだろうか。
これまたそう言う人もいると思うが、これまたそう言う人はコロナ禍の前からそうだったのではないか。
―――これらにあてはまらない、大多数の人は、もうあの頃には戻りたくない、という思いと、でもあの頃にも悪いことばかりではなかったという思いと、この先への不安と、でもこの先もっと楽しいことが待っていたらいいという思いと、そんな、一色には染まらない、「ないまぜ」の感情でいるはずだ。
そういう時に、「配信」の映像はいい。
なぜなら、僕がいままさにそうしているように、「途中で止められるし、途中から始められる」からだ。ステイホームの時間と違い、外に出る用事もあるし、外に出る楽しみもある。通勤も復活したから細切れに動画を見る時間もあるし、ここ見てよ!とダイジェスト的に見ながらみんなで話すようなタイミングもある。
「生」で見る時、あるいは劇場で見る時の、時間の不可逆性は絶対尊いが、
配信には配信の良さがある。自分のペースで楽しめる良さが。
そういう時に、生の「一色/一つの時間」ではない、配信の「多色/たくさんの時間」はピタリとはまる。
悲しい時にみたいプログラムと、うれしい時にみたいプログラムを決めて、見ることができる。
―――ここからはネタバレになるかもしれないから有料にするけれど、僕は前半を見終えた時に、再配信に向けたある「決断」に驚いた。それはまさにルナレインボウ。儚いものを映像に残し、みんなが見られるようにするならこういうふうにする、という、大きな決断だったと思うから。

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