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ある春の日 #あたたかな生活 #シーズン文芸

note文芸部が新たにお送りする #シーズン文芸 創作企画!
3・4月のテーマは「あたたかな生活」。


本日はこの方、はるさんです!






カラン、というベルの音が鳴り響く。その穏やかな音色で、私の一日が始まる。

「いらっしゃいませ」

海が見渡せる高台の緑地にひっそりと建つ珈琲店。常に満席とはいかないが、毎日そこそこのお客様が足を運んでくれる。展望が自慢のこの店に来るお客様には、二通りのパターンがある。大切な誰かとこの景色を共有したい人。一人でゆっくり海を眺めたい人。どちらのお客様も互いを侵食しない。その空気感が心地良い。

サイフォンで珈琲を淹れながらサンドイッチに挟む厚焼き玉子を焼く。私はこの店を切り盛りしながら、日々文章を書いている。その文章はネットの片隅に置かれている。読みたい人が読みに来てくれて、そっと読んだ印を残してくれる。そういう場所で、私はもう10年近く書き続けている。私にとって書くことは呼吸をすることと同じだ。丁寧に淹れた珈琲を飲む一口目のように、かけがえのないひと時。珈琲のように良い香りのするものばかりを書けるわけではない。ときには酷い悪臭を放つものも書いてきた。それらを消したくなる衝動に駆られることもある。しかし、そうはしない。私は花ではない。良い香りだけを放てる生き物ではない。もっと業の深い、”ひと”という生き物だ。その生き物の軌跡を書いている。ただそれだけのことだ。だから、消さない。どんな匂いのものであっても。


「あの…」

「はい。どうされました?」

「ちょっと聴いてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろん」

この店のサービスの一つに、傾聴がある。もちろん忙しいときには作業をしながらになるが、話を聴いて欲しい人にはカウンターに座ってもらうことにしているので、特段困ることはない。

「あの、あの…」

中年の男性だった。細身で長身の身体を折り曲げて、必死に言葉を探している。一瞬、錯覚を起こしそうになった。目の前の人が、昔の自分と重なった。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ」

そう言った私の顔を見て、その人はぐっと唇を噛んだ。

「想いを言葉にするのって、時間かかりますよね。私も、そうなので」

瞳からこぼれたものが、その人の服に小さなシミを作った。じわりと歪な半円を描くその模様は、とても哀しい色をしていた。
大丈夫ですか?なんて、聞く意味なんてない。大丈夫じゃないから、この人はこのカウンターに座っているのだ。こんなにも切羽詰まった顔をして。

「すみません…。情けないですよね、この年でこんな。だから、大切な人にも愛想をつかされるんだ」

「情けないとは思いません。幾つだって、男だって女だって、哀しいときには泣いた方がいいです」

大人になればなるほど、人は感情に蓋をする。見ないふりをして、相手に合わせる。誰よりも大切にしていいはずの自分の感情を押し殺して、泣きたいのに笑い、泣きたいのに怒る。ただ「哀しい」と伝えるだけのことが、とても難しくなる。ぽろぽろと涙をこぼして泣く姿が情けないなんて、一体誰がそんなしょうもないことを言い出したのだろう。

「ありがとう…。そんなふうに言われたのは、子どものとき以来だな」

「そうですよね。大人になればなるほど、特に男性は”泣くな”と言われますからね。でも、ちゃんと泣いたほうが良いこともあります。じゃないと、心のなかにそれがどんどん積もってしまう。苦しくなってしまう」

「本当にそうです。苦しくて。もう、どうにも苦しくて。ずっと、大切に想っていた人がいました。気持ちを伝えるのが下手で、どうにも上手く伝えられなくて。そのことで相手が傷ついてしまって。どうして。どうして、ちゃんと言葉に出来ないんですかね。どうして、簡単な言葉が出てきてくれないんだろう」

「気持ちが深いほど、大きいほど、言葉に出来ないものも…ありますよね」

「そうなんです。本当に…本当に、愛しているのに。それを、たったそれだけを言えていたら。気持ちが見えない、何を考えているか分からない、なんて言われることもなかったのに。不安にさせていたと知って、どうしよう、どうしようと思って慌ててしまって。言葉が迷子みたいになってしまって。情けないです、やっぱり。初対面でこんな話されても困りますよね。すみません、ほんとに」

「初対面だから、話せることもきっとあります。知らない相手だからこそ。あと、情けないとは思いません、やっぱり。でも、今からでもその気持ちをお相手の方に伝えた方が良いとは感じました」

「そんな…今更ですよ」

「でも、あなたは言いました」

「え?」

「”愛しているのに”と。過去形では、ありませんでした。相手の方が気持ちに応えてくれるかは分かりません。でも、伝えたい気持ちがまだあるなら、今からでも伝えることは出来ます。あなたの想いは、あなたにしか伝えられない。伝える手段は色々あります。話すのが苦手なら文章でもいい。決めるのはもちろんあなたです。でも、初対面ですけど…私はあなたに笑って欲しいと思いました」


どうぞ、と目の前に置いた珈琲を震える手で持ち上げ、その人はそっと口元に運んだ。

「美味しい、ですね」

「良かった。ありがとうございます」

低音で流しているジャズの音楽に耳を傾けながら、その人の内側に力が戻ってくるのを静かに感じた。琥珀色の液体を飲み干しカップが空になったその人は、目元を押さえて立ち上がった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃいませ。またいつでも、お待ちしています」


カラン、とベルが鳴る。細い肩に降る薄紅色の花弁が、”大丈夫だよ”と言っているような気がした。


心にあるものを表に出す。たったそれだけで、人は随分と身軽になれる。それはどんな方法でもいい。話すでも、書くでも、泣くでも。その全てをやるのもいい。溜めんで内側で腐らせるくらいなら、そのままのカタチで出してあげたほうがいい。


こうして私の毎日は静かに過ぎていく。珈琲を淹れて、卵焼きとパンを焼いて、お皿を洗って、乾かして。仕入れをして、下準備をして、書きものをする。そして時々どこの誰かも知らない人の話を聴く。


カラン。

ベルの音がした。

「いらっしゃいませ」

「ただいま」

細い肩の隣に、小柄な肩が並んでいた。真っ白なワンピースを着たその人と繋がれた掌からは、幸せな匂いがした。


小春日和の4月。今日は、良い香りがする文章が書けそうだ。







はるさん、ありがとうございました。
それでは次回もお楽しみに!

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