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生まれてこの方音楽推しですっ!!〜音楽を推すとは〜 その6(最終回)

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クリエイターが生まれる原理

音楽という文化活動を推す

その手がかりとなるのが、今までの議論で保留してきた「音楽という文化活動そのもの」への愛情である。

私は音楽活動に関しては全くプロでもなんでもない人であるのでここから先は特に憶測が多くなってしまうことを先にご了承頂きたい。


プロを志す動機は細かく分けたらもちろん十人十色であると思うが、大きく括ってしまえば、作曲家にしろ演奏家にしろ、「音楽によって自分を表現したいから」であろう。
どの職業もある程度の強い動機がないと就くことすら考えないと思うが、特に芸術活動で生計を立てるとなると、そもそもそのこと自体がかなり難しいので強い動機があっても諦める人も多いくらいである。

そのため、プロの音楽家は音楽への愛情がかなり強いだろう。俗的な言葉ではまとめにくいが、今回のテーマが「推し」であるから、強いて言えば音楽そのものを推しているのである。

では音楽そのものを推しているのはプロだけだろうか。
おそらくプロだけが音楽に情熱を注いでも、仮にプロが生み出した音楽を受け止める対象がいないと音楽は世の中からなくなってしまうだろう。

つまり、作曲家も、演奏家も、聴衆も、音楽という一つの文化活動に対する愛情は同じであり、自分の得意不得意に応じてその愛情を表現する方法を変えているだけなのではないかと思う。


「推し」としての共通点

音楽を推す上では、いずれにしても一般的な「推し」と根本的に同じだろうという点が一つだけあると思う。

それは「ファンがいないと存続不能である」というところである。

これは何かを推す上で必要条件になってくると思うのだが、音楽にとってこれは特に重要であって、これがないとそもそも音楽は成立しえない。


なぜなら、今まで記してきた「作曲」「演奏」「鑑賞」が音楽にとっては必要不可欠だからであり、楽曲を生み出す人、演奏する人だけでは足りず、ファンという受け皿があってはじめて存続できる。

また、はじめはファンであった人たちがその文化活動を存続させたいという熱意から数年後にファンを生み出す側に回ることもあるだろう。

ファンとクリエイター(勿論演者も含める)、両者が一体となってこの文化を絶やしたくないと奮闘するこの姿勢は音楽のみならず、どこの界隈においても存在していているのだと思った。
その上で、このような文化活動そのものを熱愛している人がどの時代にもいるからこそ、人間の文化活動は今まで維持されてきたのではないかと思った。

終わりに

最後まで読んでくれた人は、稚拙で長い文章に付き合っていただいて本当にありがとうございました。
最初の方にも書きましたが、元は大学の授業のコメントシートに記す程度のことで済ませるつもりで、はじめはここまで膨らませるつもりはありませんでした。

しかし、なるべく説得力のある文章にしようとして矛盾を洗い出し、改善しようとしているうちに、説明の足りない箇所の説明を多く付け加える必要が出てきてしまいました。
それでも文章を書き慣れない身であるので、論理性に欠けているところや、説明が不十分な点があると思うとともに、それによって読みづらさを増してしまっていたら申し訳ないです。

あくまで個人の見解だからそこまで突っ込む必要はないだろうと思いつつ、この話題について熱烈な意見の持ち主でそのような至らない点を指摘してくれる方がいたらぜひ教えて頂きたいです。そうでない方でも疑問点等あれば教えていただけると幸いです。

この話はとりあえずここで終わりになりますが、今後も音楽についての持論があればまたこのアカウントで発信していくとともにnoteの使い方を勉強していこうと思います。

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