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日記:大学というところと人間

大学っていいところだな、といつも思う。

大学院を修了してからも、何度か大学へ行く。
正門からすぐ近くに院生室があるので、友達にさらりと挨拶しにいく。大抵さらりとは済まなくて、楽しくなって長居してしまう。
それから院生室のある建物を出て、圧倒的な緑を放つ木々の間を歩く。

6年前、学部に入学して初めての授業の日、高校の頃の友人たちとクラスが離れてしまってひとりぼっちになった私は、広い教室を一瞬で見渡して、良い感じの――自分と同じ感じの――女の子たちが座っているあたりに腰を降ろした。
すると自分の後ろに座っていた女の子2人組の友人らしい子が遅れてやってきて、私の隣に座った。ああ、ここは3人組だったのか、気まずいな、座る場所をミスったな、と思っていたら、隣の女の子が「この授業、怠いなぁ」と声をかけてきた。
結局私は学部4年間をこの子達と過ごすことになるのだが、その最初に話しかけてくれた女の子はいつも構内を歩きながら、「オープンキャンパスでここ来て、緑がいっぱいあっていいなあって思って、この大学に行きたいって思ったねん」と言っていた。

私は他の大学をあまり知らないからよくわからないけど、確かに都市部のビル群の中に建つ大学とは趣きが異なるのだろう。「緑がいっぱいあるから」を理由に進学を決める高校生がいることに驚きはあるが、彼女のその感性に私は新鮮さを覚え、彼女と過ごした4年間を経て、確かに緑がいっぱいあるのは良いことだな、と思うようになった。

今日も私は大学を歩きながら「緑がいっぱいあって良いな」と思った。

構内を少し歩くと、次々と人と出会う。お世話になった大学職員の人や図書館の人、生協のパン屋さんの店員さん、TAをした授業の受講生、一緒にイベントをした先生や、留年し続けている友人、同じ授業を取っていたリカレントの人たち・・・・・・。
向こうのほうから手を振って、遠くからでも見える笑顔で親しい人たちがやってくる。名前を呼んで「元気!?」と声をかけてくれる。

ふらりと歩いている時に誰かから名前を呼ばれて話しかけられる、という経験は私に、私が確かに世界に承認されている、という事実をすごく感動的に伝えてくれる(私の読書会の友人たちが読んだら、またアーレントの話をするのかとあきれられてしまうので、アーレントの話はしない。でもアーレントの話をしているように聞こえるだろう)。
私というひとりは、人と人の間にいて、そして間をつくり、他者とともにあるらしい。私の人間存在を保証する。

今日大学に行ったのは、大江健三郎『個人的な体験』の読書会に参加するためだったのだけれど、この時に「名前」の話をした。
『個人的な体験』の主人公のもとに、頭部に異常を持って生まれた赤んぼうは、なかなか名前が付けられないままストーリーが進んでいく。物語の終わり掛けになってようやく赤んぼうに名付けがなされる。

多くの文学作品において、名前が与えられている存在と名前が与えられていない存在が注目すべき点であることは間違いないだろう。「名前」は人間存在を強く喚起させる重要なモチーフだ。

今、リュック・ボルタンスキーの『胎児の条件』を読んでいる。長く私は胎児に関心があって、中学生の時の夏休みの人権作文は毎年胎児の人権について書くぐらい、ずっと胎児に関心を払っている(人生の半分の期間、胎児のことを脳のスミに置いている)。
胎児の人権の話は別でするとして(しないかもしれない)、この著作の中で「肉としての人間存在」と「ことばによる人間存在」が描き出されている。
ことばによる人間存在、というのがつまり、人間社会の新たな構成員として身振りや儀式によって承認される存在であって、肉としての人間存在はことばによって認証されることで世界に誕生するのである。

この「ことばによる承認」の分かりやすい事例のひとつが「名前」だろう。
私は生まれたばかりの赤んぼうではないけれど、名前を呼ばれることは明らかに「ことばによる承認」で、私という人間存在が世界に迎え入れられていることを感じる。
だから基本的に私は、人と会った時は一瞬の挨拶であったとしても、「○○さん、こんにちは!」という風に、名前を呼ぶようにしている。私は誰かによって承認される人間存在で、唯一性を持っているその私が、また誰かを確かにこの世界の人間存在として保証していることを示したいから。

「よっ友」って、最近聞かなくなったけど死語になったのだろうか。それか単に私がそういう社会から外れたせいで耳にする機会が減ったのか。
「よっ友」というのは、単に「よっ」と挨拶するだけの関係性の友人で、それほど親しくない人のことを指し、主に大学で頻繁に用いられる言葉だ(った)。
ネガティブな扱われ方をすることも多いけれど、今になって思うと「よっ友」っていい存在だったんじゃないか、と思う。
すれ違ってなんにもしないより、せめて「よっ」と声をかけて、確かに互いが互いを隣人として認識していることを、最低限のレベルで最低限のリスクで示す。正直、学部1,2年生のころは「よっ友」の多さといったらキリがなくて、名前を忘れちゃったりどこで知り合ったのかもおぼろげだったりしたけれど、それでもすれ違いざまに短い一声を交わす行為に意味がなかったとは思わない。

大学っていいところだな、と私が思うのはこういう文化で、加えてこういう文化もあれば一方でクローズドな人間関係も存在していたり、かと思えば孤独を極めていてもなんにもおかしくなくて、そういう人間やその関係の幅広さを包み込む度量の広さが好きだ。

私がどんなにヘンテコな服を着て行っても、どんなにヘンテコな髪型をしていっても、みんなスルーするか二度見するか褒めるかで、「そんな恰好をしてはいけません!」と目くじらを立てる人なんてどこにもいなかった。みんな揃って他者に対して適度に無関心で、適度に関心を持っていた。

とはいえ、どれもこれも私が体験したのはたったひとつの大学での6年間に基づいた記述であるから、これを普遍的な「大学」の真理とは言えない。実際、他大学に通う友人に「うちでそんな恰好してたら浮くよ」と釘を刺されたこともあるし、学外者の立ち入りを厳しく取り締まるところもある。ひとつの学部だけで独立したキャンパスを持つ大学もあるから、そういうところだと違う専攻分野の友人を作るのは至難の業だろう。
それにさも私が過ごした大学が「自由」だったかのように言っているが別にそんなこともなくて、変な暗黙ルールのような、遵守されて当然のこととして共通認識がなされているようなこともあった。

それでも、やっぱり大学はいいところだと思う。いろんな人がいろんな熱量でいろんな関係性でもって縦横無尽な雰囲気がある。家のようにも感じられるし、「学校」(小中高のような)にも感じられるし、瞬間的なあるいは長期的な憩いの場のようにも感じられる。

前に書いたのも結局、公共空間と人間が好きで世界が好きみたいな話をしていたのに、また今日もそういう話を書いた。私は手を変え品を変え、ずっと同じことを、ただ好きだと表明し続けているだけだ。私は雑多なもの、語弊を恐れず言えば、猥雑なものや汚いものが好きだが、多分これも突き詰めたらどうせ同じ話をするだけのような気がしてきた。

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