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意見書全文 池田香代子

 私は性自認と性指向がマジョリティに属する杉並区民です。この立場から、田中ゆうたろう杉並区議会議員(以下「区議」)の言動は性的マイノリティにとどまらず、性的マジョリティを含む人びと一般の人権を侵害するものと考え、救済を求めます。
 区議は、2023年杉並区議会議員選挙の選挙公報に、ある男性のイラストを載せました。それは、後退した額の生え際、まつ毛を強調した上目遣いの目、鼻毛の出た団子鼻、顔の長さの3分の1を占める長い鼻の下、無精髭に囲まれた分厚い唇、何事かを期待するかのように組み合わせた手、衣服の二の腕部分の雲と虹(性の多様性の象徴)のイラスト、顔のそばの2つの星(輝きの漫画表現)と男性を表す記号で成り立っていました。
 そして吹き出しにはこうありました。
 「オレも女だと言い張れば女湯に入れるのネ!」
 区議によると、この人物は性自認は男性、性指向は女性とのことです。このようなマジョリティ男性でも「女だと言い張れば」女性限定空間に入ることが可能になる「性自認条例」(区議による。正確には「性の多様性が尊重される地域社会を実現するための取組の推進に関する条例」)は「改廃」せよ、という区議の主張は、イラストの上に並ぶ8項目の政策の2項目目に挙げられていました。区議が自身の政策中、このことを重視していることが読みとれます。これを何ら疑うことなく受け止めた人びとは、岸本聡子区長のもとで成立・施行された新条例を、危険なものとみなす可能性があります。
 しかし、この区議の主張は二つの意味で事実に反しています。
 まず、区議は「性自認」を「女/男だと言い張」ることと理解しているようですが、それは誤解です。「性自認」は gender identity の訳で、この英語表現には「性同一性」という訳し方もあり、いうまでもなくこれらの訳語は同じ意味です。目下、医学・医療分野では「性同一性」という用語も用いられますが、法律や政治的議論の場ではもっぱら「性自認」が使われます。
 区議は、この「性自認」という言葉を「性を自ら認める」と解釈し、性別はいかようにも主張できる、つまり男性でも「女だと言い張れば女湯に入れる」としていると思われます。
 そうだとすると、これは間違った理解です。トランスジェンダーの人びとは、生物学的外見から割り振られた性別に違和感を覚えるのであって、割り振られたのとは違う性を自らの意思で自認するのではありません。性別違和は、いかんともし難い、意思など挟む余地のない、圧倒的な現実です。
 性別への違和を鮮明に意識するのは、多くの場合、思春期です。子どもたちはまったく未知の現実にぶち当たり、混乱し、内心に秘密を抱えて孤立します。自分の状況をどう受け止めたらいいのか、情報も相談相手もないことが多く、悩み、苦しみ、将来にとてつもない不安を覚えます。そんな時、区議の選挙公報が目に入ったら、どれほどの衝撃を受けるでしょう。自分はこんな醜悪な、社会から嘲笑され断罪されるような存在の延長線上にいるのか、と。もちろん、すでにトランスジェンダーという属性を引き受けて生きているおとなも、少なからず打撃を受けるでしょう。
 社会は、多様な人びとが属性により差別されたり侮辱されたりすることを許さない、という最低限のルールがあって初めて、健全に機能します。杉並区にも、ようやくジェンダーの分野で多様な属性の人びとが尊重し合うための条例ができました。にもかかわらず、区議会議員を目指す公人たる候補者が、選挙公報には候補者が提出した原稿をそのまま掲載しなくてはならない、という選挙条例を盾に、すべての区民が目にすることを前提とした選挙公報上で、曲解を踏まえてトランスジェンダーの人びとを攻撃したことは、あってはならないことだったと思います。この点、選挙管理委員会も、選挙の公正さと人権のかねあいに関し、判断を誤ったと認めていただきたく思います。
 区議の認識に事実の裏付けがない二点目は、身体的な男性でも「女だと言い張れば女湯に入れる」としていることです。区議は街頭演説などで、自称女性が女湯に入ることを拒否した管理者は罰せられることになる、とも主張しています。しかし、これについて厚労省は、「L G B T理解促進法」成立を受けて都道府県知事などに宛てた通知で、「男女とは、(中略)身体的特徴をもって判断するもの」とし、「例えば、体は男性、心は女性の者が女湯に入らないよう」、管理者に求めています(薬生衛発0623第1号 令和5年6月23日)。
 区議の言うように、当該のイラストがシス男性を表しているなら、それは女性と言い張って女湯に入ろうとする軽犯罪法違反者に他ならず、「L G B T理解促進法」施行のはるか以前から常識によって排除され、軽犯罪法で断罪されてきました。
 つまり、区議はありもしない問題を公共の場で取り上げ、不安を煽っているのであり、とくに性被害を受けたことのある女性たちの恐怖や怒りを駆り立てています。こうした女性たちの中には、区議の主張に共鳴する人びともいますが、彼女たちもまた区議によって性被害の記憶を呼び覚まされ、間違った方向に誘導されるという一種の「二次被害」を受けていると言えます。
 社会がジェンダー多様性への理解を深めようとしている今になって、唐突に自称女性の女湯侵入という性犯罪を想定し、過大に問題視しているのは、私の知る限り、性的マジョリティの人びとです。性的マイノリティの人びとが尊厳をもって安寧な市民生活を送ること、つまり人権の恵みを享受することを、無知や無理解によって妨げてきたのはマジョリティの人びとであるにもかかわらず、成熟へ向かう私たちの社会の歩みを今なお阻害する、しかも区議のように公職にある者がその先頭に立って扇動することは、マジョリティの一人として、看過できないと考えます。
 適切なご判断をよろしくお願いいたします。

2024年2月6日 杉並区在住 池田香代子  

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