死の重さ

知人が地下…というか地底アイドルをやっている。

期間限定で活動していたので、7月に解散ライブをやるコトにしたらしいのだけど、グループの解散=死と捉え、葬儀と位置づけたコンセプトライブにしたらしい。もちろん告知も訃報を知らせるそれに寄せている。

これにとあるアカウントが噛み付いていた。「死に対して不謹慎だ」と。「こういう茶化し方は大嫌いだから勝手に死ね」とTwitterでその地底アイドルにリプライを送っていた。

「死に対して不謹慎だ」と思うのは、そりゃまあ死ってデリケートなものだから個人の感想もそれぞれあると思うけど、それをわざわざ相手に向かって文句つけたりするのはちょっと違うと感じた。何よりその人がもっとひどい「勝手に死ね」というコメントを付けている矛盾はどうなんだっていう。

少し前に「ぼくのりりっくのぼうよみ」というシンガーが自分の活動に終止符を打った。彼は自分を葬るため、大阪と東京でのラストライブにそれぞれ「通夜」「葬式」と銘打った。これとやっているコトに差はあるのだろうか。

2つに共通するのは、エンターテインメントとして「死」をモチーフにしているというコト。自らの活動に終止符を打つという意味で、コンセプトとしてわかりやすいだろう。例えばこれが「自殺」というタイトルだったらおそらく僕も不謹慎という感想を持つと思う(やっているコトは自殺なのかもしれないけど)。

死を扱うのは不謹慎というのは一般論としてわかる。入ってる宗教にもよるかもしれない。でも、僕はこの地底アイドルがそこまで不謹慎なコトをやっているとは、知り合いというのを引いても思えない。

メキシコでは死を当たり前のものとして受け入れる文化が根強いらしく、お葬式も悲しみを皆で分かち合い明るい気持ちになるために行うという。近い所だと沖縄ではお墓で酒盛りしたり歌ったりするのが当たり前にあるらしい。「死」という概念に対して、国、場所、宗教、様々な捉え方や考え方がある。その中には必ずしも「悲しい」「おごそか」だけでは終わらないものだってある。

通り一遍で死=不謹慎と考えるのもどうなのかなと、少し考えてしまった。


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