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人は身体で生きている。

軽蔑している母の言葉で、唯一覚えている為になった教えとして、触れてはならない、と言う話があった。

当時高校生だった僕は、恋に溺れていた。本当に溺愛していたように思う。学問のカケラにも頭を使わず、ただ刹那刹那で彼女のことを想うばかりだった。その状態を知っていたのか分からないが、母はある日彼女と手を繋ぐなと言った。とうの昔にそれより深い所にのめり込んでいた僕は聞き流して無視をした訳だが、触れてはならない理由は、それなりに真理だった。

大切ならば容易に触れてはならない。触れれば触れる前には戻れない。触れられない状態が切なくなって、手を離せなくなる。触れる事に慣れてしまえば、次に次にと欲しくなる。若ければ、抑えなんて効かない。そのまま深みにはまっていくのだから、ドミノは最初から倒してはならない。

まぁ、とっくに最初のドミノは倒していた訳ですが、それはさておき。

思い返してみても今の状態で感じていることからも、割と真実をついていると思う。触れれば、戻れない。触れてしまえば、次が欲しくなる。そして、そもそも触れると言う身体的な接触が精神を燃え上がらせる。精神は身体に立脚した産物である。即ち、精神が脳の電気的活動に帰着するなら、感覚器に刺激が入る事で賦活化されるのは当たり前のことなのだ。また、その刺激は感覚器からの信号のみならず、辺縁系を賦活化して情動を伴う刺激になる。そうなれば触れることで賦活化した想いは、その想い故に刺激の意味合を増幅させる。こうして一度触れる事で深みへはまっていくのであろう。

だから、僕は触れないようにする。触れなければ強い想いであっても、きっと縮小していく。そして、僕は身体の繋がりを好まない。人並程度の願望こそあれ、それにより本末転倒になりそうなのが好まない。その人を愛しているから触れるのか、触れているから好きだと勘違いしているのか、そのトートロジーに嫌悪を抱く。だからこそ、僕は触れない。

ところが、彼女が誰かに触れられているのだと言ったことを考えると、胸が詰まる。自分は求めないと言い聞かせつつも、誰かが触れて良いとは思えないのだ。矛盾しているとは思う。そこまで禁じるなら、他人に対しても無関心でなければならないと思うし、それが彼女の幸せであれば僕に言えることなんて無いのに、胸部絞扼感はどうしても取れないのだ。

つくづく人間とは不便な生き物だと思う。早く機械になりたいものだ。

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