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そして、『永遠』になる。 #麒麟がくる #本能寺の変 🔥 最終回(第44回)

こんばんは。
のびたまごです。

とうとう、とうとう、とうとう…
終わってしまいます…(これを書く頃には終わってしまってると思うと辛い…)

恐らく、しばらくは心がまっっっっっったく平らかにならないと安易に予想が着きますが、noteは書きます。

…その前に、よかったらこちらもお読みください。
☟前回(第43回 「闇に光る樹」)を見た後に書いたnoteです。

ちよっとだけ抜粋。

次回最終回。いざ、本能寺へ。
こんなに悲しい本能寺の変が、いまだかつてあったでしょうか。

こんなに、お互いの、皆の想いの届かない結果に、招かれざるを得なかった本能寺が。

もう、ただただ、見るしかないです。
見たくないけど、見るしかない。

ここまで書いてきた自分の気持ちや過去と、もっと向き合わないといけないかもしれない。
それはハッキリいって辛いです。

が、わたしも前に進まなきゃ。
道を選択しなきゃ。


過去に、選びたくなくても選ばざるを得ない道を選んだ身としては、何度戻っても、どんなに後悔してもあの道を選ぶ自分自分しかない過去を、そしてその先を、『本能寺の変』を通して、見させてもらおうと思います。

今(2021年2月7日 19:54)こういう思いでいます。
というか、終わる前にもうここまで書いておきました!ということで、今から最終回本麒麟!
行ってまいります!!!


↓↓↓ということで…

見終わりました…(๐_๐)

あれ。あれれれれれ。
光秀、死ななかったの??

っていうのが、正直最初の感想でした。
ある意味、固定観念に囚われてたんですかね…?
ものすごい悲劇・愛憎劇が繰り広げられると(最期信長と話するとか、なんなら介錯までするとか)思っていたんですが…

違いました。


本能寺の変の真相 by麒麟がくる

「本能寺の変」は光秀が一度死に、生まれ変わるための【通過儀礼】みたいなものだった、という描かれ方だったのかな…?といま、振り返りながら思っています。

光秀は志はいつも十兵衛と共にあった。
でも、自分が主役になる気はなかった。

『戦のない、大きな国、“麒麟がくる” 世を創る。』ため、それをしてくれる人を探し求め、常に影で支え、その傍らで世を創っていた。

志は誰よりも高く、誰よりも俯瞰した目線を持ち、誰よりも細やかに様々な内情を知り、人の心を知り、学び、変化し、対応してきた。

それは、周りが自分(十兵衛)の期待に応え続けていたから、だったのかもしれない。
周りに自分の役目をさせてきた、ともとれる。その理由はこのあとを読んでいただけたらわかると思います(たぶん)。


「我が敵の名は、織田信長と申す。」

“正気を取り戻した”光秀のことば。
※この「正気」とあえて言ってるのも、このあと書いてます。
向かう先は、本能寺。
敵の名は、織田信長。

それは、もしかしたら、自分自身だったのかもしれない。
偽りの自分自身を殺すための【通過儀礼】。
それが、本能寺の変だった。

二人の笑顔

信長は、十兵衛の期待に応えられなくなっている自分を知っていた。たぶん。
褒めて欲しくて頑張って頑張って、でも出来なくて、みんなが離れていって、良かれと思ったことも全部間違っていて、だから十兵衛を求めていたのに、権力に惑わされ、金と力があれば全ては自分のものになると勘違いした。

のかな。真相はわからない。今回の『麒麟がくる』ではそう描かれていた気がするけど、それすらもたぶん山のように解釈があるだろうと思う。
演出家の方の意図もあると思う。

本能寺で、謀反とわかったとき、その相手が十兵衛だとわかったとき、その時の信長の、あの解放されたような、かくれんぼしていて、誰にも見つけて貰えなくて、見つけて欲しくて、それでやっと見つけてもらえて…思わずこぼえた笑みのように見えた。

もしかしたら、本能寺の変は、信長が仕向けていたかもしれない。
信長も、が正しいかもしれない。

本能寺の変が呆気なく終わって、なんだか気が抜けて、そのあとの十兵衛の生まれ変わったような、憑き物が取れたかのような爽やかな笑顔…

あれは、自分の行く末を見据え、世の中の流れを読み、自分の生きる道を見出し、それを選択し、それを“体現した”誇りの笑顔だったのかも。

最後の最後で、十兵衛は明智光秀になった。


『麒麟がくる』とはどういうことであったのか

それは、一言で言うと、『本当の自分に目覚める』ということだったのではないか、と思う。

自分という人間を生きるその意味を自分に問い続け、答えを見出し、その中で葛藤する。
でもそれを生きるという覚悟。

その覚悟は、【『本当の自分』を生きる】ということ(うまくことばになりませんが…)に尽きるのではないかと。

使命に気づく。自分の生まれてきた意味に気づく。
そして、それを全うする。

この、気づく(自分に目覚める)ということが、『麒麟がくる』というタイトルで表されていたことであり、世を平らかにするということは、自分の心を平らかにする(自分の中の諍いをなくす)ということと繋がっていた。

だから、オープニングの光秀はいつも『目を見開いて』いたんですね。
そして、光秀が目覚めていくにつれて、オープニングでの光(麒麟)の存在が強くなって、最後は光秀と重なっていってましたね…。

使命を生きる

【明智光秀】という人は、【世を平らかにする】ということを使命に持った人であり、そのためには【主君からの自己の解放】【本当の自分を呼び覚ます】が通過儀礼だった。

何度も繰り返しになりますが、十兵衛は、信長を殺すことで、光秀になったんだと思う。

そして、【光秀の目覚め】により、大河ドラマ『麒麟がくる』では平らかな世への架け橋が築かれたところまでが描かれていた。

…という目で見ていくと、『麒麟がくる』という事象は、誰にでも訪れるという見方・解釈ができる。
し、わたしはそれを推したい。


なぜなら、全てのことはフラクタルだから。
(わたしの大好きな言葉です!!昨日のホニャララで某星柱さまも言っておられて嬉しかった〜♡)

誰の中にも『麒麟はくる』

主人公は明智光秀だったけど、全員に「麒麟がくる」タイミングがあったのではないかと。

そういう視点で1話から見直すと、めちゃくちゃ面白いんでしょうね…!!!!!
BluRayでたら買おうかな…

…そして、永遠になる。

最後はこれで締めくくろうと、先に決めてました。
タイトルも枠もつくってから、本麒麟(最終回)に臨んだからです。

どういう展開になっても、そうなる気がしたから。
光秀が最後、菊丸に竹槍で刺されるという展開にならなくて本当によかった(勝手に懸念してました)。

光秀は、また地平線の向こうへ駆けて生きましたね。
いや、「翔けて」いったんでしょうね。
だって、光秀自身が、自分がずっと求めてきた麒麟そのものなんだから。

物語の中で、光秀が生きているか死んでいるかは、この際どうでもいいのかも知れません。
『志』は、生きている者の中に受け継がれている。生き続けている。

そういえば、だから、最後までみんな「十兵衛」って呼んでたのかもしれませんね。
最終回までハッキリ『光秀=麒麟』はきてなかったので。

ありがとうございました!!!

お礼が言いたくなってしまったので、付け足しました。
『麒麟がくる』、全44話。
最後まで創ってくださり、放送してくださり、本当にありがとうございました。

長谷川光秀はわたしの中でも生きていて、これからずっと生き続けます。
絶対に。

大好きなKEI-COさんの麒麟絵を貼って、終わりにします。
KEI-COさん、1年間ありがとうございました!
大ファンです!!!
また来週からも楽しみにしております✨



🌟おまけ。
今回のnoteに使用した曼荼羅はこちらでした。

『時空の狭間』

うねり
めぐり
もどり
むすぶ
それが
永遠に
繰り返される
そんな場所
同時に
そのすべてから
開放される場所

2019.1.12

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