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清濁を併せ飲むということについてのとある実践 2024/02/05 -1

書きたいことが思うように書けない悔しさは努力で解消されるのだろうか。と書いてみてはじめて、この問いは今に始まったことじゃなくて、これまでの中で何度も浮上しては都度超えてきてはいる気がして、わたしの求める安心ではないがこれはこれまでも通ってきた道だということで知っているものになってそういう意味では少しほっとした。このままでいいし、それでいいと思えたからだと思う。かといって冒頭の問いの答えが出た訳では無い(出ないのだろうとも思う)。つまり、これまで通り、思うように書けない言葉にならないもどかしさと取りこぼしてしまう感覚の間でもがいていたらいいってことなんだろうな。そうしているうちに、その感覚を超える言葉に出逢っているわたしに出逢うんだと思う。なぜなら、これまでもそうだったから。未知を既知に閉じ込めたり、知らないことを知ってることに当て嵌めるということ解決ではない、共生という終わりにしない"清濁を併せ呑む解決"かたち。

xで呟こうと思ったら文字数が足りなくて、ひとつの記事として書くにはボリュームがなぁと(頭で)考えて、noteのつぶやき機能を利用してみようと思ってせっせと言葉を顕したら、Xと同じ文字数の制限があったことに初めて気付き、それならもうそのまま爆走しよう(言葉を出し切ろう)ということで、文字数への忖度や遠慮をなくしてみたら上記のような言葉の集まりになりました。あえて整えず、そのままここに載せておくことにします(文体が違うのも色かなと思うのでそこも書き換えずに出しておきます)。
実はこのつぶやきが出てくるキッカケになったのは今書いているまだ途中のnoteエッセイなので、今日はこの後もう1つ(あるいはそれ以上になるかも)upしたいと思ってます。実は昨夜寝る前に書いていて言葉で頭がこんがらがって一旦寝かせた放置したnote《エッセイ》もあるのでそれももしまとまれば。

ということで、今日はきっとたまーにやってくる謎のoutputの日。立春後初めて外に出すところまで書ききれたのがこのnoteなのがわたしの頭は不本意らしいのですが、それこそこのnoteエッセイのタイトルの回収であり美しいなと感じるわたしがいることを最後に書き添えておきます。



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