大村 昇@宮城県美里町

地域おこし協力隊(2022.04〜)/約5年の東京生活からUターン/副業コピーライタ…

大村 昇@宮城県美里町

地域おこし協力隊(2022.04〜)/約5年の東京生活からUターン/副業コピーライター・ライター/Mr.Childrenとスヌーピーが好き/リトルトゥース/のぼ・ぼーの https://lit.link/nobo0630

マガジン

  • 地域おこし協力隊としてのコラム。

    2022年4月から着任している地域おこし協力隊での活動を通じて、感じたこと・考えたことを綴っています。

  • 就職活動に関する気づき。

    就活に苦しんだ大学時代を振り返り、今だからこそ分かってきたことを書いています。

  • 「対話」との対話。

    「この世界に自分の言葉を増やす」をビジョンとする今後の活動に向けて、そのキーワードのひとつとなる「対話」を考えます。

最近の記事

問いがあるから今がある。

同い年の従姉妹が、第一子を出産した。連日、親戚のLINEはその話題で持ちきりというか、これまでたまに会話をしていた程度だったのにも関わらず、頻繁に新着通知を知らせるようになっている。僕の両親も、そして祖母も、新たな命の誕生に心を躍らせているようだ。明日には2つ先の県にまで車を走らせて、会いに行ってくるらしい。 子どもは疎か、結婚もしていない僕からしたら、まずひとつありがたい限りである。両親は「じーちゃんばーちゃん気分」を、祖母は「曾孫の存在」および「曽祖母としての自覚」を味

    • おもしろいことが好きな人。

      地域おこし協力隊として活動している。これまで地域になかった新たな企画やイベントを、常に企み実行している。それが醍醐味だと言い切るつもりはないけれど、少なくとも僕はそうであるし、自分自身の価値や存在意義を感じられる成分でもある。 ふと、新しい企画を生み出すことは、そう簡単な話ではないなあと思った。いや自分が胸を張りたいわけではなく、たとえば何かをやりたいと思ったら即座にかたちにできるほど、地域は軽やかでスムーズなフィールドではない。もちろん一概には言えないだろうが、歴史や文化

      • あきらめる、あきらめない。

        あきらめられることは、自分の長所であると認識している。自分にも他人にも、そして世の中にも期待しないこと。できない自分を、苦手な誰かを認めるというか、あきらめること。それらを踏まえて、割とスパッと新たな道を選べるのが良さだと自負している。いや、僕自身が生きやすいだけだろうか。 あきらめられないことについても、すこし考えてみる。それはたとえば、できない自分を認められず、できるようになるまで努力すること。あるいは誰かの苦手な部分と向き合い、しっかり対話をして、互いの妥協点や変われ

        • 今日は居酒屋トークに花が咲き誇ったのでつぶやきにて

        問いがあるから今がある。

        マガジン

        • 地域おこし協力隊としてのコラム。
          53本
        • 就職活動に関する気づき。
          9本
        • 「対話」との対話。
          18本

        記事

          よく喋る人見知り。

          「人見知り」についてどのようなイメージがあるだろうか。たとえば関係性の浅いコミュニティで過ごしたり、人前に立ったりするとき、その人はとても緊張しているような、遠慮がちで寡黙な印象がある。そして、とあるバラエティ番組の『人見知り芸人』という自虐を孕んだ企画で、ある意味市民権を得た言葉ではないだろうか。その特性の持ち主は、どちらかといえばネガティブな雰囲気を纏っている。 きょう知り合った女性は、明るく元気で、よく喋る人だった。僕はその口数とテンションに押され気味だったが、彼女は

          よく喋る人見知り。

          アートは余白があってこそ。

          地域の知人が主催する個展を観に行った。地元の駅のギャラリースペースで、ひとことでいえば画展のようなものが行われていた。いわゆるマダムと呼んでも差し支えのない雰囲気をまとった女性が、シニア世代に差し掛かってからのめり込んだというPCを駆使したアート。ずらりと並んだ作品たちを眺めてみる。 在廊していたマダムは、僕を見つけると来場への感謝を言い、そして自身のアートを説明し始めた。「これはこのとき、こういうふうに思ってね…」「ちょうどタイミングよくあれがあったからね…」などと、それ

          アートは余白があってこそ。

          守ることが好きな人。

          学生時代、休み時間でサッカーをしていると率先してゴールキーパーを務める友人がいた。彼はゴール前に文字通り立ちはだかることに価値を見出し、鋭い反応でボールを弾いてみせた。 ストライカーや司令塔などと呼ばれる、攻撃的なポジションを花形だと信じていた僕にとって、なんだか信じがたい存在だった。ドリブルやパス、シュートによって、とにかく得点に関与したかったからだ。それでも彼はどうやら、守ることが好きだった。相手のチャンスを妨げることか、味方のピンチを救うことか、その本質は分からないけ

          守ることが好きな人。

          素と無。

          たとえば「素の自分でいられる」と、飾らない力まない、いわゆるありのままの姿や感覚は、しばしば「素」と表現される。「もっと素を見せてほしい」だなんて、じつに厚かましい恋愛での言葉を聞いたこともあるけれど、ふと考えてみる。素とは何なのだろう。何をもって、人は素だと言えるのだろう。 かしこまりもへりくだりもしない、等身大の感覚。日常生活で喩えれば部屋着をまとってくつろいでいること、だろうか。好きなものを好きといい、苦手なものを苦手という。自分に正直な、忖度のない姿。素を思えば、そ

          「しらんけど」のスタンスで。

          最近知り合った兵庫出身の若者が、ふとした雑談の中で言った。「ああ『知らんけど』って関西以外の人も使うんや」と。僕は「しらんけど」とひらがなで表記したい。まあここはただの好みの話であるけれども、だいぶ市民権を得た言葉ではないかと思っている。たしかに発祥は関西であるし、関西弁でしか表し得ない独特のニュアンスだ。ただ、そんな“なにわのプライド”も相まって、やたら軽んじられているなあと感じてしまう。僕は、とても本質的な良い言葉だと思っているのだ。 すなわち「まあ私は知らないけどね」

          「しらんけど」のスタンスで。

          曲がることを恐れずに。

          ここ1年ほど、焚き火をよくしている。キャンプではない、あくまで焚き火である。町の公園や会社の駐車場で火を焚き、そこに集まった人と話したり、話さなかったり。もちろん役場や消防署など各所へ申請を出して、正式に行っているものである。 薪を割る機会がある。クサビと呼ばれる鋭利な金属を薪に当てて、ハンマーでこつんこつんとヒビを入れながら切るように割っていく。しっかり真下に力を伝えることがコツで、それを掴めばたとえば子どもでも使いこなせるだろう。しかしながら当然、薪に対して曲がってクサ

          曲がることを恐れずに。

          主体性を支えるもの。

          地域で、教育や対話について考えることが少なくない。近ごろの僕は「アート思考」という言葉が気になっていて、たとえば社会的な「正解」よりも、自分だけの「答え」を信じられる人、そして実際にかたちにしてしまう人を地域に増やしたいと思う。それこそが魅力的な地域であるのではないかと、個人的には感じているのだ。 そんな中で、「主体性」について考える。辞書で引けば【自分の意志・判断によって、みずから責任をもって行動する態度や性質】とあり、アート思考な地域を実現するための“成分”のひとつなの

          主体性を支えるもの。

          相談の本質。

          自分の中にある問いや考えごと、ときに悩みなどを、口頭で自分の外に出してみること。それを聞いてくれた誰かが、アドバイスをくれること。これが、いわゆる相談の一般的なイメージなのではないかと思う。 僕はあまり、相談するのが得意ではない。たまに“される側”になることはあるけれど、自分以外の誰かに心や頭の中を目の前で直接話すということに、なんだか抵抗があるのだ。30代になって、たとえば地域での企画の相談などを徐々にできるようになってきた感覚はあるものの、基本的にはひとりで考えることが

          嬉しくもなく、哀しくもなく。

          ふだんの雑談レベルだけれども、誰かの話を聞くことが多い。嬉しかったこと、仕事や他人への愚痴、あるいは今後実現したい夢や目標。僕は「へー」「そうなんだ」と、さまざまな思いやエピソードを聞いている。 そんな僕の姿を、求めてくれる人がいる。どうやら話し手にとっては「とりあえず聞いてくれるのがいい」らしい。その意見はおかしいと否定されるわけはなく、無理な解決策を提案されるわけでもない。話を途中で遮られないということにも、価値を見出してくれている。 僕という張本人としては、まず率直

          嬉しくもなく、哀しくもなく。

          Aという意見があるとして。

          スマホをちょいと触れば、また今日も誰かが意見を発している。自己表現をしている。例に漏れず、かくいう僕もそのうちの1人である。 当然ながら、自分と異なる意見が散見される。何なら共感できるものの方が、きっと少ないのではないかと思う。いや、そもそも人は違う生きものだから違う前提で過ごした方が気楽であるという、僕の“気の持ちよう”なのかもしれない。まあそれはそれとして、いずれにせよ自分とはちがう意見があるとする。 僕はアイデンティティを感じるチャンスだなあ、と捉えている。たとえば

          Aという意見があるとして。

          「やりたい」以上に大切なこと。

          もし、いま自分が就職活動を控える学生だったならば、どのような世界が見えるだろう。歩むべき道を、見据えるべき景色を、どのように定めるのだろう。 大学時代の就活を振り返ると僕は、まるで何もわかっちゃいなかった。会社や社会、さらには自分自身のことまで。いや厳密にはすっかりわかった気になっていて、当時22歳の僕は僕なりの正義を、精一杯生きていたのではないかと思う。そう解釈して、かつての自分を可愛がってやりたい。 とにかく「書く」仕事がしたいと、コピーライターになるのだと、やりたい

          「やりたい」以上に大切なこと。

          パーカーでの役場出勤。

          時刻は朝の8:30。何もないけれどとりあえず、出勤前にnoteを書いてみることにした。誰かが言っていた、考えてやることも大切だけれどやりながら考えることはもっと大切、みたいな感覚。こうして書いていると僕は、ある程度ネタを考えながら日々書いていることに気づかされている。何もないのに書き始めたから分かったことだと、やたらポジティブに捉えてみる。 窓の外では、久しぶりに雨が降っている。やっと咲き始めた桜の花びらが落ちてしまうなあと思いつつも、こればかりは仕方がない。今の僕は、週末

          パーカーでの役場出勤。