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自分の生きづらさを知ったら、生きやすくなった話

「その比喩、本当に必要ある?」

何の脈絡なく、突然降りかかる何気ない一言で、そこにあった意識は過去に立ち返り朧気な記憶が立ち上がる。

できればあまり出会いたくないのだが、いつどこでそれが発動するのか予測不能な出来事を前に私はできることは、そこから一目散に離れること。

何の悪気のないその一言から自分を守るにはそれが効果的だと長年の経験から学んだ。

昨日出会ったのはこんなの。

あるイベントの中継をYoutubeで見ていた。3人の登壇者がいて、その方たちの文章を常日頃読んでいたので、どんな話をするのか興味があった。

アクセス解析の話になり、バズると折れ線グラフの数値がどんと上がり、そのあと急降下し一定になる動きを指を動かしながら説明しているとき、バズったどんと上がりそのあとピーー(指を急降下させ一直線をなぞる)と心電図のようになると辛い的なことを話しした。

「ピーーと心電図のように」

わかりやすい比喩だ。納得感はある。でも、その比喩、本当に必要?ないと説明が成り立たないほどに必須?

その後、私の意識はそのイベントにはなく、かつてピーーと病室内に鳴り響き、心電図が一直線になったモニターを目にし、父が亡くなったことを告げられた映像が立ち上がる。「このシチュエーション、テレビで見たことある。」悲しみに暮れながらそう思ったことまでも思い出す。

そっとパソコンを閉じて、深く考える前に母の部屋へ行きたわもない話してまた部屋に戻ってきた。

20代の頃、そういったひとつひとつに腹を立て泣くことしかできなかった。悪気がないことはわかっている。だからこそ、相手にも自分も腹を立てていた。もっと気を使って話せだの、(当事者にならないとわからないがこと多いと分かっていても)悪気ないって分かっているのになんでこんなに傷ついてしまうんだ、自分の人生に何ら関係の人が何を言おうが関係ない、自分に言われたわけじゃないじゃないか、と。

しかし時が経つにつれて、小骨のようにひっかかりはするけれど昔のように過剰になることも少なくなった。でも何ら脈絡ない話のときにふと出てくる場合が多いから、一瞬で立ち尽くしてしまう。

一番の問題は意識がその場から飛んでしまうこと。例えば昨日のように話を聞きたくて中継を見始めたけれど、走馬灯のように昔の悲しい記憶が押し寄せて来てしまうと、意識をこの場に戻すことは難しい。

失うものは、意欲と時間。

昔のように、傷つけられたなどの被害者意識はなく、意欲と時間が削られてしまうため、やろうという気持ちがゼロになり、今回の場合だとイベントのアーカイブ動画があったとしても見ることはないと思う。残念だけども。そして、次に何か別のことをしようと思うまでも時間がかかる場合が多い。

以前にも勉強のために訪れたトークイベントでも似たようなことがあって、その場にいても何も耳に入ってこないので帰ったことがある。

幸い、今は母を暮らしているので話し相手がいるというのはとても救われている。

そんな日々を20年ぐらい続け、いろいろなものが薄れかけた矢先、2年前に兄を亡くした。父を亡くした悲しみと同じようなことをもう一度味わうのかと絶望した。

この2年間、辛いことも多かったけれどでも、1つだけ気づけたことがあった。それは、父が亡くなってからずっと生きづらかったということ。

普通に生活をしたいと思っていても、今回の様に突拍子もないところから父の死の間際の映像が呼び覚まされ無になってしまうことや、何気ない車窓の眺めやいつも聴いている音楽の歌詞にたまたま何かのきっかけで悲しみが襲ってくることで辛くなる。何気ない日々のなかでそれは突如やってくるからいつも無防備だ。

これまで、社会問題に携わり、生きづさに寄り添う活動をしていたこともあったが、でも「生きづらい」という感覚があまり良くわかっていなかったようにも思う。人それぞれが持つ生きづらさは異なるように、私の場合は突然悲しみが襲ってきて時間が止まったようになり、意識を今に戻すのに時間がかかるということ。

でも、それを一旦認めたら、どんなことを言われると悲しんでしまうのか、涙が出てしまうのか、その時々で出会うシチュエーションや言葉に免疫を持たせるため、辛かったと書くことが増えた。

相手が何故そんなことを言うのか、若い頃はそのことに振り回されていたけれど、大事なのはどうして悲しくなってしまうのかを自分自身を知ることにある。

突如襲ってくる悲しみに対しても無防備ではあるけれど、ただ悲しみが過ぎ去るのを待てるようになり、落ち着いたらついさっきまで辛かった気持ちを振り返ったりすることもできるようになった。

軽いものだったら気持ちを切り替えるために母に話しかけに行くとか、見たら絶対に笑顔になるものを見るとか、深く考えずに自然と体を動かして解消することもできる。昔のようになんでどうしてばかり考えてしまうときに比べて、遥かに生きやすくなったと思う。

昨日助かったなぁと思ったのは、昼間のうちに書きたいnoteの内容が決まっていたこと。もし何もなかったならばあのままぼーーっとTwitterとか眺めながら無駄に時間を潰しかねなかった。毎日noteを書いているからできれば無の心になるのは避けたいので、今後も書きたいことは常日頃メモるのを忘れずにいたい。


最後まで読んでいただきありがとうございます。頂いたサポートをどのように活用できるかまだわからないです・・・。決まるまで置いておこうと思います。