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暴力で人権が奪われるとき

香港で100万人に及ぶ大規模デモが起こり、警察による介入し市民へ発砲する事態にまで発展している。

警察と衝突する市民、銃弾に倒れる人、シュプレヒコールが巻き起こる香港の映像を見ていたら、涙が出そうになる。何故なのかわからない。

大きな権力に立ち向かう人々に対して、自分は一体何ができるだろうかと考えたところで昔も今もその答えがわからない。

そのようなことを考えるきっかけになったのは、20代前半にチベット仏教に興味をもったときに、初めて人権について考える機会となった。チベット全土が中国共産党の支配下に落ちたとき(中国側のは、昔も今もチベットは中国の領土であると主張している)難を逃れるためにチベット仏教の最高位であるダライ・ラマはインドへと亡命をする。今もチベット人、チベット仏教は弾圧されつづけ、それは巧妙に隠蔽されていると言われてる。

自分にできることは、チベットを好きなことや、毎年3月10日に行われている「チベット民族蜂起記念日」にピースマーチに参加することだった。

しばらくそういったことから離れている今、香港の大規模デモを目の当たりに、あの頃のことを思い出している。

人権とはなにか。
私はおそらくこの権利を奪われたことがないだろう。

人が人として、誰からも奪われることないその権利を大きな力で奪われる気持ちを私は実感したことがないにも関わらず、香港のデモを見ているととてつもなく喪失感を覚えてしまう。直接何もできない上に、喪失感まで覚えるだなんて厚かましいにもほどがある。

でも、このまま何も見なかったこと感じなかったことにはできず、さっき焚き火を終えてきて、そのnoteでも書こうかと思ったが全くそんな気にならなかった。

今の私にできることは、去年の3月に初めて香港へ行ったときのことを思い出し、思い出を書くことしかできないように思う。

ニョキニョキ生えているような高層ビル群を初めて目にし興奮しっぱなし。

ただただ歩いているだけで楽しかった。

深夜特急で憧れていたスターフェリーにやっと乗れた。

またいつか絶対に香港行く

最後まで読んでいただきありがとうございます。頂いたサポートをどのように活用できるかまだわからないです・・・。決まるまで置いておこうと思います。