#9 ダブルバインド

ダブルバインド…要するに〈板挟み〉のこと。

暴力に依存している人間は、「暴力を振るわれた記憶」と「愛された記憶」の両極端な2つの出来事に、惑わされ、悩む。

対象に愛されたいがゆえに、「愛された記憶」を過信してしまうのだ。

「暴力は愛されているから」

「いつかまた優しい人に戻ってくれるはず」

「いつかきっと愛してくれるはず」

その強い信念が、愛から来るのか、依存から来るのかは分からない。

だけど愛されたいから、許してしまう。

どんなにどんなに、酷いことをされたとしても。

「おい、何だよ!この冷たい味噌汁は!!」

「ごめん、すぐに温め直すから……」

自宅に帰ってから、しばらくは気を使ってくれていた彼も、数カ月で元通りになってしまっていた。

効率の悪かった家事をタスク化して、朝食の品数を増やしたり、家中を片付けたりしてみたけど、努力は何も報われなかった。

少し回復していた体力で、日雇いのバイトも復帰できたが、それも精神科のカウンセリング料金に消えていった。

払うと約束してくれた治療費も、結局は貰えなかった。

彼がアルコール依存症の講習会に出てくれたのも、あの一回きりだった。

「だってオレ、アルコール依存症じゃねぇし」

「え……だってお医者さんには……」

「医者がおかしいだろ? あんな数分の問診で分かるか?」

目の前がぐらぐらした。

僕の記憶違いだったのだろうか。

「勉強する」と言ったのも、あのしょぼくれた背中も、全部僕が作り出した都合の良い幻だったのだろうか。

暴力は周期を繰り返すそうだ。

ひどい時と、優しい時。

ひどくしっぱなしだと、〈獲物〉が逃げるから。

優しくしっぱなしだと、〈獲物〉が付け上がるから。

僕はいったい何なんだろう。

何で生きてるんだろう。

考えても考えても、答えは出なかった。

僕は治療費を稼ぐために、日雇いのバイトを増やした。

何度か出ている内に、仲の良い固定メンバーもできた。

「え〜、じゃあ同棲中なんだ〜!」

一台のバンに詰められて、長距離移動もするようなバイト仲間とは、仕事上がりにラーメンを食べに行くくらい仲が良くなっていた。

そこで知り合ったミカさんは、メンバーのムードメーカーだった。

バイト歴も長くて頼れる姉御で、みんなでゴハンを食べたり取りまとめてくれたのも彼女だった。

「ラブラブなんでしょ〜?」

「そりゃそーですよ〜」

僕はバイト先で、恋人や友達を大事にする陽気なキャラを演じていた。

〈素〉の僕を知ったら、みんな僕から離れていってしまうと思ったから。

やっと新しくできた人間関係に、家族からも誰からも愛されない人間だって、バレるのが怖くてウソをついていた。

「まあ君、かっこいいから当然だよね〜」

「あざッス!」

お世辞だとわかっていても、人から褒められるのが嬉しかった。

ましてやミカさんのように、仕事もできて、誰からも慕われるような人に認められるのが嬉しかった。

自己肯定感がみるみる回復していった。

段々と、彼のことなんかどうでもよくなってきた。

「ねぇ、みんな帰っちゃうみたいだからさ、この後二人で飲みに行かない?」

「……えっ?」

「あっ、同棲相手に悪いか! ゴメンゴメン!」

「ミカさんこそ……」

彼女は若くして結婚しており、子どもも大きかったはずだ。

でもこんなに朗らかで誠実な人に、まさか下心なんてあるわけがない。

僕はミカさんから選ばれたのが嬉しくて、二人で夜の町に繰り出すことにした。

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