褒められる事について(後編)褒められ方について

前編では、褒められてもリアクションに困る、でも、褒めてもらえたのなら、それを素直に喜べる自分でいたい、という話をしました。

今回は、素直に喜べる褒められ方と、そうでない褒められ方がある、という話です。

もう結論から言いますが、俺は明らかに

人格 よりも 成果物 を褒められたほうが嬉しい

のです。

のぶさんは〇〇が上手いね、のぶさんの〇〇はすごいよね、みたいな「俺自身に対するポジティブ評価」をもらうよりも、
のぶさんの言った◇◇が良かった、とか、のぶさんの書いた▲▲がステキ、とか「俺がつくったモノへの評価」が欲しいのですよ。

俺の人格と分離したところで、成果物が一人歩きしたとしても、誰かがそれを褒めてくれたりしたら、もう最高の喜びなわけです。

例えば劇団の稽古で、即興性が求められるワークをした際などに、
「のぶさんは強いよね」「さすがのぶさん、上手いね」
などと言われるよりも、
前これやった時、〇〇に◇◇って言ってた人 いたよね。誰だっけ。思い出せないけど
のほうが何倍も嬉しいんですね。いや冗談抜きで。

会社の仕事をしていてもそうなんです。
「貴方にしか任せられない!」みたいな役割を持つよりも、「貴方がいなくなってもこれさえあれば大丈夫」みたいなマニュアルやシステムを作るほうが手応えが強い。
俺の特別さ よりも、その マニュアルの価値 を褒められたほうが何倍も嬉しいんです。

この構図、SNSによくある

誰が言ったか/何を言ったか問題

と通ずるところがあるなあ、と少し感じていて。

同じ内容のことを、どこぞの素人とホリエモンが同時にTwitterに書き込んだとして、どちらの内容がバズるか、どちらの発言として世間が認識するか、と言えば、10人が10人「ホリエモン」だと答えますよね。
これが現代社会で猛威を振るう【何を言うか < 誰が言うか】の構図だ。

しかし俺は、あまりこの構造が好きではないのですよ。
俺がとにかく「アンチ権威主義」だ、ってのもあるのですが、どうにか
【誰が言ったか】よりも【何を言ったか】のほうが有利にならないものかなぁ、と、夢見がちなことをいつも考えているのです。

その発言や、成果物が、俺という人格(だったり、ホリエモンら権威ある存在の人格だったり)を離れたとしても、その価値を失わない輝きを放つ、そんなものを世の中に出していきたい。そちらの方が、行為として美しいのではないか。
そのように、特にサラリーマンとして働きはじめてからは、考えていたんです。

どうして、こう考えるようになったのだろう。

分からない。

事柄と自分を切り離したほうが、心理的安全性が高い

という状況が、自分でも気づかないうちに、価値観のベースになっていたんですよね。
(今にして思えば、どうしてこんなに自尊心が欠落しているんだろう、と疑問を持たざるを得ないが)

でも、言わずもがな ですけど、これだと自分の評価に直結しないのですよね。当たり前ですけど。
そうであったとしても、自分でなく、成果物の方を重く見てきたんです。
自分をその影に隠してきたのです。
そうでなければ、怖くて、生きて来れなかったのです。

その理由って何なんだろう。

分からない。

以前のエントリでもお話しした「褒められた時、どんな反応したらいいのか分からない」という感覚も、同じところから湧き上がってきているのかもしれないですね。

あまりにも、自分に価値をつけること、自分というものを社会に売り込んでいくこと、に対して、及び腰になっている。
だとしたら、ちょっと逃げ腰すぎるなぁ、と自分でも思ってしまうんですよね。
自分で事業をして、自作のプロダクトやらソリューションやらを社会に発信していこう、という立場にありながら、そんなことでいいのだろうか。と。

そろそろ、モノの陰に隠れずに、山本ノブヒロです、と言える自分に

ならなきゃいけないのかも、と、最近は少しずつ考え始めているのです。

だとしても、やはり「評価のされ方」は、「だれ」よりも「何」を重視してもらわければ困る。無碍に「のぶさんだし安心」などと言われると、まだ、冷や汗が出てしまう。全く気持ちよくありません。ちゃんとモノを自分の目で見てくれよと。
あくまでも俺が作ったもの、俺が生み出した価値、そっちに目を向けてもらわないと困る。

分かってるんです。きちんとモノを見てくれた人が、俺を評価してくれているんだ、ということは。
でも怖いんです。
俺を主題にした褒め言葉がとにかく怖いです。モノの影に隠れてしまう。

俺自身も、 現状を、決して良いと思ってません。

一体どうすれば、正々堂々と、モノと俺が、そう、【誰】と【何】が並列に肩を並べて、その価値をしっかりと発信していけるのか。
それが全然わからない。

俺は基本的にやっぱり自分のことを好きになれないのかもしれない。

でも、(本文中で、何回「でも」って言えば気が済むのか) 、そうありたい、そんなりたい、そう変わりたい、これは本心なんですよね。

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