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【山笠記事2】津屋崎祇園山笠の起こりと特色

みなさん、こんにちは。津屋崎祇園山笠振興会です。

今年の山笠の奉納はコロナウィルス感染拡大の影響で延期となり、
いつもなら町のあちこちで活気ある声が聞こえる7月の津屋崎千軒ですが、
とても静かな時間が流れています。
山笠がないと寂しいねー、という声もちらほら。

振興会として、この機会に私たちの山笠を知ってもらおうと、5本程度の記事を書いていきます。↓一本目の記事がこちら。

さて、
今回の記事は、津屋崎祇園山笠の起こりと特色についてです。

まず、知らない人のために「津屋崎」について

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津屋崎は、福岡市と北九州市の間にある港町です。
今では福間町と合併し福津市となっています。
自然豊かな割に、福岡市と北九州市への交通の便が良く、人口が増加傾向にあります。ありがたいことに、少子化時代において「小学校の教室が足りない」という問題に直面しており、「学校の新設をどうするか?」が、最近の重要な話題です。

この地域は、大昔から海との関わりが強く、海運や塩作りで栄えました。
自然の力に支えられながら歩んできた町であるからか、目に見えないものに感謝する作法が、今でも大切にされています。自然あっての私たちの営み。これからも大切にしていきたいですね。

古墳時代の終わり頃には、海運で名を馳せ、朝臣という位を与えられた胸形君(ムナカタノキミ)という一族がこのあたりを治め、神郡と呼ばれていました。
有名なのは胸形君徳善。娘の尼子娘(アマコノイラツメ)は、天皇家(天武天皇)に嫁ぎ、徳善のお墓と言われている(諸説あり)宮地嶽古墳は、日本全国で二番目に長い玄室を持つ横穴式石室(23m)です。(1位は、奈良県 見瀬丸山古墳)
孫に当たる高市皇子(タケチノミコ)が、壬申の乱(674年)で大活躍したとか。
ちなみに、宮地嶽古墳から出土した副葬品は、全て国宝に指定されています。
九州国立博物館にも展示されているので、ぜひ皆さん見てみてください。

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話が少しそれましたが、山笠の話に入っていきましょう。

1,津屋崎祇園山笠の起こり

津屋崎祇園山笠の起源は、1712年か、1714年です。
筑前國続風土記付録
と、筑前国続風土記拾遺にそれぞれ異なる年号が記されているため、2つの説が存在しています。
どちらが正しいかわかっておりませんが、振興会では1714年を起源としております。

この文献には、

“博多より勧請せり。年毎に六月十九日に山車を三本造りて社前に舁きささけ坊中舁きもてありく。此の日は近村より詣て来る者多し。”(筑前國続風土記付録)

とあります。

ここでいう勧請(かんじょう)とは、神様を分けてもらうこと。
このことから津屋崎祇園山笠は博多から分けてもらって始まったことがわかっています。(博多祇園山笠の起源は1241年(諸説あり))(博多祇園山笠振興会
また、旧暦六月十九日(現 7月19日)が正式な祭祀の日(祇園祭)であることと、3本の山が建っていたことは、今も変わらず続いています。

まだまだ認知度の低い津屋崎祇園山笠ですが、実はすでに三百年以上の歴史を有しているんです。300年も続くことってそう多くはないですよね。

この山笠で祀られているのは、素戔嗚命(スサノオノミコト)
古事記・日本書紀で、天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読尊(ツクヨミノミコト)と並ぶ、有名な神様です。アニメや漫画によく登場しますよね。

この神様を祀ることによって、私たちが何をしているかといいますと、
みなさんの無病息災を願っています。
無病息災というのは、病気や怪我をせず、心身ともに健やかである、ということです。

ただ、長い歴史を持つものの、残念なことに始まってから約二百年間の資料が全くありません。江戸時代中頃から、明治時代の終わり頃まで、なんの記録もないのです。

筑前国続風土記の次に登場するのが、180年ほど飛んだ明治時代のこの写真。

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今の山笠のサイズを知っていたら思わず「おー」となる大きさです。明治時代の山笠は、10mの高さがありました。おおよそ電柱の高さです。(博多の山笠の全盛期は16mあったとも)
残っているのはこの写真と、ボロボロの出納簿だけなので、行事の日程や工程など今とどれくらい違ったのかあまりわかっていません。

その後、大正5年(1916年)に電線が張られるようになり5mの高さとなりました。

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昭和の頃には戦争も経験(戦時中も山笠を実施していたという記録がある)し、
働き方の変化に悩まされ(旧暦六月十九日に実施する決まりのため、当日が平日の場合、舁き手不足がおこり始める)、
昭和38年頃(37年、39年説あり)に中断してしまいました。時代の変化に対応できなかったということになります。

しかし、昭和40年代に、まずは子ども山笠が復活。子ども会の努力が大きかったそうです。

藍の家-0036

それを皮切りに「津屋崎には山笠が必要だ」と熱意ある有志の声掛けで津屋崎山笠保存会(現津屋崎祇園山笠振興会)が発足、昭和50年に津屋崎祇園山笠が正式に復活しました。

藍の家-0023

本来、津屋崎には3本の山が建ち、赤黄桃の三色に分かれていますが、
このときは1本の山を復活させ、三色入り混じって舁いたそうです。

そんな感動的な出来事から40年あまり。しっかりと三本の山が立つようになり、各流100人以上の舁き手が毎年集まるようになりました。

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保存から振興へ。津屋崎山笠保存会は、守っていくという「保存」の期間を終えたと判断し、より広くこの伝統文化の良さを享受していただくため振興していくこととしました。そんな理由で、2019年4月 保存会は、津屋崎祇園山笠振興会へと新たな一歩を踏み出したところです。

だからといって大きく変わったところはございませんが、
子どもたちが活躍する機会として、子ども山笠に力を入れています。

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2,津屋崎祇園山笠の特色

ここからは津屋崎祇園山笠の特色です。先程も書いたとおり、神様は博多と同じ素戔嗚命です。御神体は、↓波折神社内の須賀神社(旧祇園社)にあります。

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博多祇園山笠は、現在七流(昔は十三流あった時も)ありますが、津屋崎は三流となっています。

地域と色で分けられていて、薄桃色の北流、黄色の新町流、赤色の岡流、の三流です。

旗

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↑だいたいの区分

この流は、昔の生業に則して組まれたといわています。
漁業の北流、商業の新町流、農業の岡流、です。

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山笠を華やかに彩る人形飾りは、津屋崎人形巧房の原田さん親子が作ってくださっています。昔は、各流に人形師がおりましたが、現在は原田さん一軒。
日本の郷土玩具を代表するお店なので、ぜひ皆さんご贔屓に。
私は、ピンズをお土産としてよく購入しています。

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津屋崎の山笠は、かつて喧嘩山笠と言われていました。
この三流の関係が、勇ましかったからです。荒々しいとか、喧嘩っぱやかったと言っても良いのかもしれません。
家の瓦を投げつけたり、山笠を縛っている縄を夜中に切りにいったり、飾りの旗を奪いに行ったりと、争いが絶えなかったそうです。

大賀勝太郎・孝男-0010

これは、祀られている素戔嗚命が、荒いことが好きだから、と言われています。
あまり関係ないようにも思えますが、神事では「元気な姿を見せることで神様が喜ぶ」といった考え方をすることもあるので、あながち本当なのかもしれませんよね。

その他の特色として、
「山笠の担ぎ棒の長さが違う」というのがあります。
博多祇園山笠は、6本の担ぎ棒がすべて同じ長さですが、
津屋崎は、狭い路地を駆け巡るため、中心から外に向かって短くなっていきます。本当に狭い道を行くので、電柱や壁に舁き手が挟まれることもあり、コントロールには高い技術が必要とされます。

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そのため、津屋崎の山のぼせたちは、山笠を回す技術に関してはどこにも負けない自信があったりします。

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私たちは、山笠をより速く、より美しく回す(舁くこと=担ぎ動かすこと)ことに、全力を尽くしています。意味を知らなければ、はたから見ると「ただのお遊び」に見えるかもしれません。

でも、これはみなさんが本当に大切な願い事を神社などで行う時、神社に入るところからお辞儀をしたり、丁寧に手を洗って、丁寧に二礼二拍手一礼を行うのと同じなのです。

私たちは、より速く、より美しく山を回すことで、より丁寧により深くみなさんの無病息災を祈願しているのです。山笠における祈願の所作なのです。

今年は、その所作を行うことはできませんが、来年はぜひみなさん見に来てください。山笠が走ったときの風にあたると、夏病にかからないとも言われています。

そして、興味がありましたら、ぜひ舁き手としてご参加ください。

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まだまだ書きたいことはあるのですが、
細かいことを書き始めると長くなってしまいますので、
「津屋崎祇園山笠三百年記念記録誌」をご参照ください。
町おこしセンター津屋崎千軒なごみで購入することができます。

↓いつもの行事日程を紹介しました。雰囲気を感じてもらえたら幸いです。

次回の記事は、
「3, 祇園山笠の起こり」です。
お楽しみにー!




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