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震災で生かされた命だから。被災地支援への動機__ウィーシュタインズ設立の経緯(2)

事業再生の仕事にやりがいを持ち、毎日忙しく働いていた2011年3月。東日本大震災が起こり、福島第一原発の事故が発生しました。

そしてその夏、原発事故の影響で東京の大きなビルの多くが節電をすることになりました。私たちが働いていたビルも例外ではなく、夏の一番暑い時に2週間、オフィスを閉じることになりました。そこで私は1週間は在宅勤務、もう1週間は休暇を取ることにしました。

しかし、急に決まった休暇なので特にやることもなく、忙しくて行きそびれていた健康診断をこの機会に受けに行こうと思い立ちました。そして全ての検査が終わった後、その場で「午後、追加の検査を受けてください」と引き止められました。そして、「乳がんの可能性がある」と告げられたのです。

まさかという思いではありましたが、看護師であった姉にだけは報告をし再検査を受けました。結果は進行性のステージ2Bの乳がん。リンパにも転移があり、当時私は35歳でしたから若年性のがんとの診断でした。

医者からは、「これからどういった治療をしていくか決めていきましょう。セカンドオピニオンを受けてもいい。でも、あなたが悩める猶予は「1ヶ月」だけ。それ以上放置すれば、さらに進行する可能性がある」と伝えられました。

あまりのショックに、その後のことは全く覚えていません。気づいたら家に帰っていました。そして、翌日実家に帰省し、家族に報告。

この時、なぜか真っ先に心配になったのは「もう、私は温泉に行けないかもしれない」ということでした。でも実は私、温泉って好きじゃないんです。さらに「水着が着れないかもしれない!」とも。全くのカナヅチで泳ぐのは大嫌いなくせに。いかに自分がその時に冷静じゃなかったか、ということがわかります。そして、万が一のことを考えて友人を訪ねまわりました。

そんな混乱の日々を2週間ほど過ごしたあと、ある日ふっと気がつきました。

「私が今やるべきことはこれじゃない。」

私が悩むべきは、温泉に入れるかどうかではない。水着が着られるかでもない。一刻も早く主治医を決め、治療を選び、仕事をどうするか考えるべきだ。

急に私のコンサル魂が出てきたのです。

スイッチが入った私は、猛烈に調べ始めました。がんに詳しい方を紹介してもらえると聞けば出向き、傷はどのくらいになるんだろう、抗がん剤の副作用はどんなものだろうと、自分に最適な治療を選ぶべく、情報を集めていきました。

病院は4つに絞りこんな比較表も作りました。

とはいえどんなに調べてみても、私の病状ではどの病院も治療方法はほぼ同じ。そこで、「仕事をしながら通いやすい場所」を軸に絞り、最後は私がする大量の質問に真摯に答えてくれた上で、「それでも命より大事なものはないから。もし、転移があって傷が想定よりも広がるということがあったとしても、僕は君の命を優先するからね。」ときちんと説明をしてくださった先生に委ねることにしました。

資格取得の時もそうでしたが、私は目標が決まると頑張ることができるタイプ。治療と病院を決めてからは、一つ一つやるべきことをこなしていきました。

がん治療を乗り越えた先に抱いたある想い。

実際に行った治療は、抗がん剤治療を6ヶ月した後に手術、そして放射線治療をするというものでした。

仕事については、直属の上司に相談するととても理解ある対応をしていただき、できる範囲での仕事をさせてもらえることになりました。その結果、抗がん剤治療の間も仕事を続けることができました。

しかし、抗がん剤の副作用は思ったよりも大変で…。髪の毛はもちろん、全身の毛が抜けてしまいました。不便だったのは睫毛がないこと。驚くほど目にゴミが入るんですね。睫毛って働いてくれたんだな、と改めて感謝しました。

さらに手足の痺れがあり、ボタンのある服は着づらくなりました。一番辛かったのは、味覚障害です。私の場合、和食が食べられなくなりました。というのも、ダシの「うまみ」が感じられなくなったのです。ただただエグ味だけが残るので、ひたすら苦いのです。

でも抗がん剤のおかげで腫瘍は少し小さくなり、手術も成功。副作用も治療開始から2年でなんとか落ち着き、再び最前線で「事業再生」の仕事ができるようになりました。

そのとき私には、一つの思いが芽生えていました。

多くの方が亡くなった東日本大震災。そして、発生した福島第一原発の事故。2年経った当時もその苦しみと戦っている方がたくさんいました。でも、その事故がなければ計画停電はなく、会社が休みになることもなく、私はまた忙しさにかまけて健康診断を受けることもなかった。そして、1ヶ月の猶予しかなかった危険ながんを見つけることはできなかった。

多くの方の人生に甚大な被害を与えた事故ではありますが、私はそれによって命を助けられたと思えて仕方なかった。生かされた命を、どんな形でも被災者の方々のために使いたい、恩を返したい。そんな風に思うようになっていたのです。

そして、私は第一原発の立地であった双葉郡の仕事に就くこととなるのですが、この話は次の記事で。

最後に。手術からは7年が経過しました。乳がんの経過観察は10年と言われていますので、あと少しというところです。知らなかった!というみなさま、ごめんなさい。わざわざ話すことでもないかな、と思っていました。でも、今の私の活動に欠かすことのできない経験でしたので、思い切って今回お話させていただくことにしました。ご理解いただけますと嬉しいです。

(このnoteは、ライターの馬居優子さんに聴き書きいただきました。)

ウィーシュタインズ設立の経緯(1)
ウィーシュタインズ設立の経緯(3)
ウィーシュタインズ設立の経緯(4)




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