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被災した子どもたちに「生きる力」を。教育との出会い__ウィーシュタインズ設立の経緯(3)

2年間のがん治療を終えて再びフルタイムで事業再生の仕事に戻った一方で、被災者の方のために何かできることはないかと考えていたある日、社内に一つの公募が出ていました。

私が勤めていたPwCでは、東日本大震災後、被災地のプロジェクトに社員を派遣するという社会貢献活動をしていました。そして、2014年に公募されたのが「福島県双葉郡教育復興ビジョン」への派遣ポジションでした。

福島に行ける。教育にも興味はある。私はすぐに応募をし、ありがたいことに複数人の候補者の中から選んでいただくことができました。

「福島県双葉郡教育復興ビジョン」とは

双葉郡というのは、浪江町、葛尾村、双葉町、大熊町、富岡町、川内村、楢葉町、広野町の6町2村から成る、福島県浜通りにある地域です。太平洋に面した温暖な土地で、もともとは農業や漁業が盛んであり、戦前は常盤炭田の北端として、戦後は東京電力の発電所が複数立地する電源地帯として、エネルギーの供給地となりました。

しかし、2011年3月11日、福島第一原子力発電所の事故により避難指示が出されました。あまりに急だったので、ペン一本しか持たずに出てきてしまったというような人もたくさんいたそうです。そして、1日ごとに、もっと遠くへ、もっと遠くへと故郷から離れ、住居を転々としました。

私が派遣された2014年には3年が経過していましたが、5回転校した、というような子も決して珍しくはありませんでした。避難所を移ったり、親戚の家を転々としたりと、避難や親の事情もあります。さらに深刻な問題になっていたのは、子どもたちがいく先々で直面する現実です。新しい環境に馴染めなかったり、心無い言葉をかけられたりして、学校を変えざるを得なかった子どももいたのです。

そんな彼らに、「生きる力」をつける教育とは何か。彼らの学びの環境を守るということはもちろん、そのアイデンティティとどう向き合っていくかということが重要な課題になります。そんな双葉郡の子どもたちの未来を切り拓くために、この地域の教育長たちが集まって、文科省、有識者の方々と作り上げたのが「福島県双葉郡教育復興ビジョン」でした。

そして、日本でも最先端のアクティブな教育で、地域の方々と活動することで自らの故郷を知り、また地域の方々も復興に踏み出せる。この教育に関わるみんなの絆を深めるという目的で新たな教育方針が作られました。

でも、ビジョンが発行されてから半年以上経っても、実行に移す人がいなかったのです。そこで、プロジェクトを動かすために、私は派遣されたのでした。

目指す教育_自分の境遇をフラットに受け止めて、生きる力を

「双葉郡教育復興ビジョン」事務局には私を含め5人が在籍していました。

私たちの仕事の一つは、現場の先生たちへの理解促進や研修です。ビジョンはありながらも、どのように具現化したら良いかわからなかった先生たちのために、アクションプランを伝えていきました。

さらに、ビジョンを元に新たなイベントも作りました。小・中・高校生がそれぞれ集まって、学んだことを発表する「ふるさと創造学サミット」です。

研修においても、サミットにおいても、気をつけたことの一つは、先生、保護者、全ての大人たちがどう振る舞うか、ということです。

どうしても大人は、「地元に残って欲しい」「故郷を背負ってほしい」という思いを持って接します。それは当たり前の感情です。故郷に住むことができなくなったり、戻れたとしても人が減っていく現状を目の当たりにしていますから、このままでは故郷がなくなってしまうという不安があるのは当然です。

でも子どもは、大人が思っているよりも、大人の思いを背負って立っています。復興が30年以上かかると言われているこの地域。多くの地元の子どもたちは、自分の人生は復興と共にある、復興に役立つ職業に就きたいといいます。それが夢となります。

そういうと今度は、故郷について学ばせて縛り付けたらダメだ!という人も出てくるのですが、それも違う。彼らの故郷が双葉郡であるということは消せない事実。自分のルーツに誇りを持てるよう、自分の中の生きる力の根っこの部分を作ってあげなくてはいけないのです。

そういったプロジェクトの根幹を、教育をする側の大人の方達と共有することが最初のハードルでした。復興に役立つ人になる、ということももちろん素晴らしい。でもそうじゃなくてもいい。外で羽ばたいた上で、ここの出身だということを堂々と言える子どもも、この町にとって大きな希望なのではないかと。

また、支援をするためにと外から来る大人が、彼らを可哀想という目で見ないようにも気をつけました。彼らはもちろん過酷な人生にはなりました。でも、ふっと周りを見れば、過酷な人生を歩んでいる人はたくさんいます。

抗えない運命はある。でも、それをどう受け止めて生きていくのか。視点を変えて、ポジティブに受け止めるのは難しいけど、フラットに受け止めて、じゃあ自分ならどうする、と主体的に考える力を育んで欲しかったのです。

被災地だから気づいた、ボーダレスな教育の重要性

また、厳しい状況だからこそ生まれる素晴らしい学びもあります。私が出会った頃、小学3年生だったHくん。彼は、通常であれば特別支援学級に入っている子でした。しかし、避難先の学校は小さく、学級をつくる余裕はない。そこで当時の校長先生は、ベテランの先生を彼につけ、他の児童と同じ教室で授業を受けさせることにしました。

みんなとはペースが合わせられず、落ち着いて座っていることが時に難しいHくんではありましたが、授業を聞けなくなったら先生がみんなから彼を離し、またコンディションが整ったら戻る、という対応でみんなに溶け込むことができるようになっていったそうです。

そして、通常であれば参加するのが難しいような大人数のイベントにも、同じ方法で、みんなに混じっては休んでを繰り返し、最後まで参加することができたのです。

実はこのプロジェクトを進めてみて驚いたのは、被災地ということは関係なく、「枠」にはめる指導の多いことです。サミットでの発表の仕方ひとつをとっても細かいところまで指示をして、一様に綺麗な発表をさせようとする先生。

さらに、H君のように「枠」から外れてしまった子は、本来であれば別の場所に移されてしまう。本当は、同じ世界に存在しているのに。同じ社会で生きていかなくてはいけないのに。

どうか、彼らの生きる世界が多様性に寛容でありますように、と願っているはずの大人たちが無意識に作り上げる多様性への不寛容さ。そして、これは、被災地という特別な場所だから色濃く見えているけれど、日本全国どこでも同じなのではないか、そんな気持ちを持つようになりました。

教育復興の経験で持った問題意識を抱え、新たな挑戦へ

そして2年間の「双葉郡教育復興ビジョン」での任務を終えた私は、再びPwCに戻ることとなりましたが、また事業再生の仕事をしよう、という気持ちにはなれずにいました。

その理由のひとつは、双葉郡とのつながりが続いていたこと。もうひとつは、今回の経験を通して、私は先生でも保護者でもないけれど、当事者じゃないからこそ「教育」に対してできることがまだありそうだ、という思いを持つようになっていたからです。

現地で、改めて日本の教員の熱心さを肌で感じ、素晴らしいと感じた一方、その熱心さを活かす方向はあっているのだろうかという気持ちを抱きました。「枠」にはめることに一生懸命になってしまう教育。戦後何十年も変わっていない様々な常識。でも、中から変容するのはとても難しいとも感じました。だったら、外側からもっと日本の教育をアップデートするお手伝いができるのではないか。

そんな思いで新規事業開発を手がける部署に異動しました。新しい教育プロジェクトができないかと考えたのです。

しかし、PwCは全世界で20万人が働く巨大ファームです。その新規事業は、シリコンバレーやイスラエルのスタートアップなどと行う超最先端の開発。イノベーションとか、デザインシンキングとか、そんな言葉が日常で飛び交います。でも、ここで求められている力を持った人は、どうやって育つんだろう。私がこの前まで関わっていた学校で育つんだろうか。

ただ、そういう一方で、社会で必要だから、イノベーションできる人材を育てるのも違うという思いもありました。いまの経済界が求める人材を排出する教育がしたいわけでもない。そうではなく、双葉郡教育プロジェクトで追い求めた「生きる力」を育むための仕組みや環境を作りたいと考えました。

そのためには、PwCという環境は大きすぎました。そして、これはもう自分でやるしかないと決意をしました。福島から戻ってから約1年半、2018年1月に退職し、ウィーシュタインズ設立に向けて動くことになるのです。

これが、ウィーシュタインズ設立までの私の経歴です。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

ここまで振り返ってみて改めて私は自分本位だな、と思います。一見一貫性のない私の経歴で共通しているのは、全てが「自分の動機に基づいたもの」であるということ。そして、私自身が何かを成し遂げたいというよりは、何かを頑張っている人を応援したいということ。結局それがすごく好きで、きっと得意なんだと思います。

やりたいことがある人たちがきちんと活躍するために、そのこと以外は私がやるよ、だから頑張って!と言いたい。そんな役割を、今度は教育という領域で発揮していきたいと考えています。

(このnoteは、ライターの馬居優子さんに聴き書きいただきました。)

ウィーシュタインズ設立の経緯(1)
ウィーシュタインズ設立の経緯(2)
ウィーシュタインズ設立の経緯(4)


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