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教育虐待:名古屋小六受験殺人事件

名古屋小六受験殺人事件について
 2016年8月、名古屋市内で、小学校6年生の息子を包丁で脅しながら勉強を教えていた父親が、息子の胸部を刺し失血死させた事件。父親の母校である難関私立中学受験を父子で目指していた。父親は、息子が指示通りに勉強しないという理由で日常的に脅しや暴力を用いていた。前日にも足に切り付けて怪我をさせている。父親には殺傷時の記憶が途切れており、「自分の中では記憶が抜けているとは思っていない。ただじゃあ(息子の)眼鏡はどこにあったかとか聞かれるとわからないという感じ」といって状況描写していない。検察の論告求刑では「教育の名を借りた虐待ともいえる身勝手な犯行」と指摘された。19日の判決で名古屋地裁は殺意を認め、懲役13年(求刑懲役16年)が申し渡された。

事件の背景
本事件の息子は、2歳の頃からその後めざす中学がすばらしいという話を聞かされ、父親と夢物語を共有していたという。父親はその父親(息子にとって祖父)に受験勉強を強いられてその中学に入っており、中学でやっと好きなことができると思っていたのにさせてもらえず成績が急降下、高校まで低迷し続け、超有名進学校出身ながら大学に進学せず、長男でありながら実家の薬局を継ぐことができなかった。職を転々として33歳で職場結婚。結婚後も祖父からの経済的支援を受けて生活していた。

実は、薬局を継ぐ祖父もまた、その父親(曽祖父)に厳しく育てられており、この家系では四代にわたって厳しい教育がなされ、それなりの成果を挙げてきていたようだ。父親もまた、祖父に包丁を机に突き刺されながら勉強するという体験を記憶しており、中学に合格してもその後ふるわなかったことなどから祖父に「お前は人生の負け組だ」と言われたことがあるという。そのような環境の中で、父親の弟は医者になった。つまり、同じ親に育てられながらその教育方法が弟には功を奏し、長男の父親には役に立たなかったばかりか楽しい人生を奪ったということになる(世間ではこれを生まれつきの頭の良し悪しと捉える向きもあるだろうが、人の育ちは様々な条件が変数となる真に複雑な関数である。父親の努力の外にあることであり不幸なことであったとしか言いようがない)。
このような生育歴であれば、通常、父親は学歴コンプレックスを持ち、悩み苦しむだろうと思われるが、公判において、父親は「全くない」と完全否定する供述をしており、事件当時も、そして今もなお、抑圧、乖離の心性が働いていると思われる。その蓋をしてきた「受け止めきれない事象の認めがたさ」から来る乖離が事件を引き起こしたのではないかと思われる。

さて、息子は小学3年生の終わり頃に自ら受験を決め、小学4年生の初めからその中学への最短の道とされる有名進学塾に入る。それまでの父親は、子どもを可愛がる優しいお父さんで、母親との関係も悪くなかったという。子どもにとっても両親にとっても幸せな家族だったようだ。

しかしながら、息子の塾通いを契機に、学校で落ちこぼれていた父親が、その学校に息子を入れるための指導をするという状況となった。もし首尾よく息子が合格すれば、父親にとって人生の挽回の機会となる。しかし当然、勉強を要領よく手際よくするということができず、学力も高いとは言えない父親に十分な指導ができるはずもない。祖父を始めとした親戚や周囲の目も気になるだろう。父親の奥深くに沈潜した複雑な感情(コンプレックス)の蓋が開いてしまったのだろうか。当初は息子を希望する学校に入れてあげたいという子ども思いの気持ちから始まった受験指導であったが、その方法は、皮肉にも自分がかつてされていた強制的な方法であった。父親はそれ以外の学習・教育方法を身につける機会を持ったことがなかったと思われる。次第に厳しさに拍車がかかり、息子の勉強を巡って、父親の暴言や暴力が始まり、母親とももめて、家庭内の器物損壊が始まった。

ところが、このような厳しい指導を受けてもなお、息子は父親に「勉強を教えて下さい」と言い続けていたという。小学生の息子には、親類一同が進学していた中学以外に他の進路は見えていなかっただろうし、幼少期の優しい父親のイメージ、仲の良い両親の思い出、父親の弟が医者として活躍していたこと等もあって、父親の熱心な指導に応えたい、自分の受験を巡って喧嘩する父親と母親に自分が合格することで再び仲良くなってほしいと願っていたのではないだろうか。また息子には、「子どもは大人にコントロールされることが必要」という父親の思考が内在化してもいただろう。厳しい勉強を課す家庭の子どもが、ときに「勉強させてください」と叫ぶことがあるが、これは、勉強に集中できないことで他者に罵倒される以前に、いわゆる超自我(幼少期における大人による禁止や否定が内在化したもの)が、自分を責める現象である。父親の仕打ちがあまりに辛くて悲鳴を上げてしまったとき、息子は自ら自分を責めるという形で父親の期待にさらに応えようとしていたようである。

一方、虐待していた父親は、子どもの希望は自分こそが実現しなければならないと信じていたようだ。「よい学校に無理に入ってもどうにもならんのは自分のことでわかっていた」。でも、本人が受験を望んでいるのだから厳しくしなければならない。自分に子どもに教える力が不足していることで、子どもが悲しい想いをするのは辛い。刃物を使ってでも息子をコントロールしよう。でも、刃物を使うと、時に激昂してものにあたってしまう自分は危険な存在で、何を起こしてしまうかわからないから気をつけなければならないと思っていたようだ。この頃の父親はすでに「何のために何をするか」が見えなくなっていた。父親自身も自分でも「息子に厳しすぎる、受験は不要ではないか」と考えることがあったようで、指導がエスカレートしてからの父親は、やめたいと思いつつもやめられない、やめればさらに自分にも、自分のせいで息子にも傷がつくという状況だったわけである。自らの受験期にかけられた呪いに取りつかれたような状態に入っていたのではないかと考えられる。
父親は息子を大切に思い、息子にもう受験をやめると言わせたかったという。「(受験勉強が)もう無理なら・・・一緒に遊んだり旅行したりしたかった」という言葉が、この子を殺した父親から発せられていたと誰が思うだろうか。

幼児の親が子どもを怒鳴ったり叩いたりしているうちに止められなくなってしまう虐待事例のことを聞いたことはないだろうか。言うことを聞かない子どもを見ているとつい手が出てしまうが、すやすやと寝ている時には反省してごめんねをつぶやく、というエピソードを持っている親は、現在の日本に少なくないと思われる。自分が自分より弱く、自分が所有していると思う相手をコントロールできないというとき、ふがいなさ、無力感や怒りが生じるが、それらへの対処方法を持たないとき、人は暴力的になる。

マンションの密室で行われていた虐待の状況をうかがい知る母親からの止(や)めるようにという嘆願は、自分で止めることのできなくなっている父親には無理な批判に聞こえ、厳しい指導に反対する言葉が、自分の息子への愛情を揺るがす声に聞こえていただろう。ほとんど友達も仲間もいなかった父親は、自分を信じてついてきてくれる子どもこそが唯一の同志に思えて、共に成功することをめざしたのではないか。
母親は息子を守ろうと息子に家を出ることを提案するが、息子は母親からの誘いに乗らなかった。父親の気持ちを慮るけなげな息子は父親を否定することなく、虐待されてもなお父親に同一化していたのだろう。
母親は、これまでの幸せな家庭が一変したことにとまどい、義父からの(塾の費用をも含む)経済的支援への負い目もあったのか、長時間のパートに出かけるようになる。パートに出かけることによって父子の様子を見ないようにしていたのかもしれない。父子の側からすれば母親が一緒に受験に協力してくれないことは淋しいことであり、さらなる夫婦関係の悪化の一因にもなって悪循環が生じていた。

教育虐待の実態
大人が「子どもの将来を思って」熱心になりすぎるあまり、子どものウェルビーイングを損なうまでに勉強やスポーツを強制するということは、日本を含め、世界各国で古くから見られている。近年になって、国連子どもの権利委員会は、日本の受験制度を始めとする過度な教育が子どもたちに悪影響を及ぼしていることを指摘したが、日本政府はその繰り返しの勧告に応えて対応することは特になく、厳しい教育は、家庭に限らず、学校や塾、スポーツ指導等においても、日常的にみられ続けた。ゆとり教育が提唱された時期もあったが、結局その揺れ戻しが起き、子どもたちにもっと勉強させる必要があるという論調は収まるところを知らない。

家庭レベルにおいては、さまざまな批判を受けている公立中学校への進学に、学力や生活上、友人関係上の不安を抱く親が、あるいは私立に進学させることをステイタスや「勝ち組」と考える親が、自分の子どもの将来を心配して必死に受験に取り組むという事象が目立っている。子どもの数が少ないことが、一人の子どもにお金や時間を費やすことに拍車をかけている。
都市において、以前は一部の教育熱心な家庭において行われていた中学受験が一般化してきており、一方で、少子化によって起死回生が必要な受験塾や通信教育のあおりによって、受験は過熱している。大学受験は全入と言われる時代になっているが、大学受験で苦労した親の世代が自分の子どもには苦労させないためにと早くから安全なルートに乗せることを考える。さらに、親の経済状況が子どもの学力に比例しているという研究結果を聞けば、親は経済的に無理をしてでも子どもにいい教育を、少しでも学力をつけてくれる学校に、名のある学校に入れたいと思うだろう。
また、親の世代にとっては、不登校が稀な事象ではなく、いじめられないよう周囲と合わせることに気を使い、地域によっては校内暴力等を受けてきた世代であり、少なくない親が、学校や勉強に対して不信や嫌悪感、あきらめを持つ世代でもある。いじめはもとより、不登校や自殺が出るような学校教育の話を聞けば、自分の子どもを苦しめたくない親は、より人間関係や環境のいい学校に入れたいと考えるだろう。対人関係や教育内容が悪い学校に入って子どもが苦労するのを避けさせたいという思いが中学受験に関心を持つきっかけとなり、一旦そのレースに巻き込まれてしまうと不安が煽られてそこから抜けられなくなってしまう。
行かせなければならないのであれば、自分の子どもはよい学校に行かせたい。小学生の間の子どもの苦しみは一時的なものであって、思春期になる前の小さい子どものうちなら親のコントロールも効く、この期間を抜ければきっと長く続く幸せへの道に乗せることができると考えてしまうのだろう。

しつけや教育を名目とした虐待をしてしまう思考傾向
「子どもは行動のよしあしがわからず、自己コントロール能力が身についていないから、管理してあげる必要がある。それは躾であり教育である」と信じている大人が少なからずいる。「子どもの成長発達は大人次第であるから、大人が行動管理しなければならないし、うまく子どもが育たないのは、管理方法が悪かったからである」と考えているのである。
 そういう大人は、自分に子どもに対する共感性がないとは考えず、自分こそが子どものことをわかっていると思っており、むしろ子どもに共感すれば、わがままや怠けを許すことになると思って、子どもに共感しないこと=迎合しないことをよしとしている。
 一方、長い間そのように言い聞かされてコントロールされてきた子どもは、大人の言うとおりにできない自分が悪い、大人が不機嫌になるのは自分のせいであると思いこまされており、しばしば自ら進んで大人に従おう、叱ってもらおうとさえする。コントロールしてくれる大人がいなくなったら自分がダメになると思っているので、大人の支配から離れられない。ここで他者から別の情報(子どもの権利条約にあるような、子どもの尊厳を守ることが大人には必要であるという情報)を知り考える機会があれば、子どもも抵抗を示すことがあるだろうが、抵抗したとしても、守ってくれる他の大人がいない少人数家族や団体の中では通常は成功しない。そのような環境で育った子どもは、自分が大人になったときに、子どもたちを同じようにコントロールすることがよいと肯定する場合が少なくない。しつけや教育による体罰・虐待はしばしばこの形を取る。
つまり、この父親と同じように、普通の親たちも、この受験戦争がいいものと思っているわけではなく「必要悪」であると思っているということである。子どもたちを自由にすれば成績は上がらないだろう、受験には成功しないだろうと考えている。そして、成功する子どもを育てる「子ども思いのいい親」であるために、熱心な親の取り組みで受験に合格できた体験談を読んでは、自分もまた子どもが社会で苦労しないように育てるために、あらゆる手段を使って「勉強させよう」とするのである。

また、名古屋という土地柄もまた、今回の教育熱心さの背景には若干関係しているのかもしれない。名古屋に住む人は地元で成功することがよいことであると考えているところがある。東京や大阪のような高校の選択肢がほとんどない中で、成功のためにはトップ高に入らなければならない。それが事実であるかどうかはさておき、親がそう信じている場合、受験は熾烈なものとなるわけである。

望まれる教育行政のあり方
親による教育虐待を結果的に生み出しているのは、日本の教育に対する価値観である。最終的にはこの価値観を変えることを考えなければならないが、今、最初に手を付けることができるとしたら、法律への教育虐待禁止の明記であろう。
政府は、2019年3月19日、児童虐待防止法及び児童福祉法の改正案を閣議決定し、親権者らによる体罰の禁止を法律上に明記することとした。ここでは、しつけ名目で子どもへの体罰を行うことを禁止することとしているが、今回のような事件の発生を予防するためには、さらに一歩踏み込んで、教育名目での子どもへの体罰の禁止も明記される必要があるだろう。
もちろんそれだけでは、今回のような深層心理によって生じる事例の抑止力にはならない。直接的に教育虐待が減るということもないかもしれない。しかしまずは最初の段階として「決してしてはならないこと」という認識が広がることが必要である。それによって、今、過熱している「お受験」の温度が下方に下がり、子どもへの教育のあり方の変化が生まれることが大事なのである。
そしてさらに、この法律をお題目だけでないものとするためには、子どもの権利(人としての尊厳)を大切にするということが国民全体の合意となる必要がある。
たとえば、子どもに睡眠時間を充分に取らせない、休憩時間や遊ぶ時間を与えない、意見を封じ込めるなどは子どもの権利条約に反する行為であるが、日本では必ずしも守られていないという状況がある。これらが子どもの発達に総合的にマイナスに働くということを大人が理解する必要がある。
また、幼少期からの過度に強制的な勉強や運動は一時的な成果を上げることはできても、子どもの将来に渡る人生を考えたときにウェルビーイングを損なう可能性があることも充分に理解されなければならない。
同時に、大人はどのように子どもたちを育ててはいけないのか、よりよい方法はどんな方法かということについて具体的に啓発していくことも必要だろう。これは、家庭のみならず地域や学校においてもそうである。すべての子どもが生涯を通じてウェルビーイングな状態で生きていけるように、子どもたちが24時間を生活する上で、絶対にこうしてはいけないというラインを、体と心と脳の発達をきちんと学んだ上で考える必要があるということである。
さて、世界には、教育が無償の国、どの学校に行ってもほぼ同じ教育が受けられる国、自分で行く学校が選べる国がある。もし教育が無償で選択の自由があり、学校間格差がなければ、親は受験に必死になる必要がない。したがって、教育虐待は起こりにくくなるだろう。
そのような学校教育は日本においてどうしたら実現するのだろうか。私たちは、この問いを日本の子どもたちの(そしてその後の大人たちの)人生の問題、命の問題として真剣に考えなければならない。その際、たとえ学校教育を変えても、人のウェルビーイングが、「経済的成功succeed」「エリートの地位」にあると思っている限り、教育虐待が生まれる状況は変わらないということは忘れてはならない。

最後に  
大人自身が余裕のない生活を送っている中では、どうしても弱い立場の子どもへの風当たりが強くなる。これまで大人が受けてきた教育の影響は、次の世代に引き継がれる。その中で、新しい世代は、格差がなく、競争的でない社会の実現に向けて大きく転換していく必要があるだろう。お互いの向上を願う切磋琢磨という意味でない競争をなくすことが必要である。子どもたちに必要な「生きる力」は人を蹴落として自分だけが生き残る力ではない。「人と共に生きる力」を子どもたちが身につけたとき、その世代から日本は変わっていくことができるだろう。

付記)親による教育虐待を防ぐために
付記として、親が気をつけるべきことについて記述しておこう。

それは、一にも二にも、自分がされて嫌なことは子どもにしない(「己の欲せざる所、人に施す勿かれ」論語より)、ということである。これに尽きる。子どもを一人の人間として扱い、その意思を尊重する。もし、未熟な面があったら、必要な情報を与え、安全に試行錯誤させ、自らの力で伸びていくように温かく見守る。北風と太陽の寓話を思い出し、太陽になるように心がけてほしい。
しかし、本人はあまり気が進まないようだけれど、もろもろの事情で受験はさせなければならない、ということがもし「本当」だとしたら、しっかりなぜそれが必要であるかという情報を与えて対話をして、子どもが自らの意志で「行きたい」「そちらの方がいい」と決断するよう、本人のやる気を引き出すことが必要である
(しかし、この事件では2歳からの刷り込みにより、息子本人が「行きたい」と言っている。そう考えると、受験が本当に必要なのか、何が大切なのかという最初の問いの持つ意味は大きい)。

一方、子どもには、多様な価値観を持った人々と触れ合う機会を作っておきたい。親や教員を始めとした学校教育の世界の大人だけではないさまざまな生き方をしている大人に出会う機会を多く作る。親以外の話し相手、逃げ道を用意しておいて、自然に自分なりの価値観が作られ、自分でいられるようにすることが求められるだろう。そのことによって、親の意見に反する自己主張をするようになるかもしれない。それは子どもの成長のプロセスである。核家族が多い現代であるからこそ、サードプレイスを用意することが必要となる。多様な価値観の中で、親の子離れ、子の親離れが必要となり、親も子も揺さぶられて、考えて、成長することが求められるのである。


☆では、受験勉強を強制しないでどうやっていい学校に入れるの?あるいはどうやって子どもを幸せにするの?うちの子は特に優秀なわけでもないし、そんな魔法があったら教えて!!という詰問が聞こえてくるようだ。それに答えることは教育に対する価値観を変える大きな仕事である。一人一人の状況に合わせて答える必要もある。理解していただけるように書くには相当な労力と時間がかかる。今回はまず、教育虐待を防ぐことを第一に記述した。この点については、別の機会に書きたい。
(具体的な問いがあればお尋ねください。すべてに応えることはお約束しかねますが、何らかの形で対応していきたいと思います)

☆虐待する親はひどい親であるというのは確かです。でもそのような結果だけを見るのでなく、この事件が生じるに至るプロセスをしっかりと分析して、人間の心理と行動を理解し、私たちが学べることを学ぶことが、この被害児の弔いになり、現在苦しんでいる親子への道しるべの提供になるでしょう。非難に終わらない議論をどうかお願いしたいと思います。

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