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教育虐待(Educational Maltreatment)

「教育虐待」ということばについて、公に紹介した者として、自分の言葉でどこかに説明を書いておかなければならないだろう。これまで口頭で説明してきたが、なかなか理解してもらえないので、重い腰をあげて書いておきたいと思う。なにしろ、Wikipediaやことバンクにも・・・

『 教育虐待』とは、2011年12月、『日本子ども虐待防止学会』において、『子どもの受忍限度を超えて勉強させるのは教育虐待になる』と武田信子教授が発表したことが契機となり、児童虐待を語る現場において用いられるようになった言葉です。

などと説明されているのだから。

 Educational Maltreatment ということばとその概念は、2010年に私が作ったもので、英語の辞書にある言葉ではない。カナダのトロント大学教授マリオン・ボーゴ先生やトロントのアドボケットのアーヴィン・エルマン氏などに2015年にその概念を説明したところ、きちんと書くように示唆されたのだが、いくつかの学会や書籍に簡単に書いた程度で、まだしっかりと説明に手が付けられていない状態である。そこで、まずはここに、Educational Maltreatment (and/or教育虐待)ということばについて、簡単に説明しておきたいと思う。

 最初に教育虐待ということばを耳にしたのは、埼玉大学の岩川直樹先生からである。2010年のことだ。日本女性学習財団が、子育て支援の事例調査にあたって、数名の専門家を集めて、全国各地の子育て支援の場にヒアリングに行くという企画をし、私もそこに参加した。当時の記録は、『むすんでひらいて編みなおして-関係づくりを育む子育て支援-』財団法人日本女性学習財団発行A5判40ページ/定価500円(税込)ISBN: 978-4-88931-113-6://www.jawe2011.jp/publish/jisedai/2007musunde.htmlという冊子にまとめられ、さらに『関係作りの子育て支援』というDVDを製作することになる。http://www.jawe2011.jp/publish/gaku/201103kankeizukuri.html 
 このプロセスにおいて、岩川先生が、社会福祉法人カリヨンこどもセンターにおける弁護士の坪井節子先生のヒアリングに行ったときに、内輪の会話で「教育虐待」ということばが使われていた、と報告したのを聞いたのである。このとき、カリヨンこどもセンターにおける「教育虐待」の使われ方は、「過度に教育熱心な親による子の虐待」であり、「あの親は、教育という名の下に虐待しているよね(それはしつけという名の下に虐待するのと同じように)」というものであった。それは、すでに、1980年代に私が関東中央病院精神神経科で研修をしていた頃、金属バット事件をはじめとしたさまざまな問題が起きており、病院にもそのような事例は少なくなく、私の修士論文はそのように育てられて入院してきた患者さんの事例と中学校における一般の生徒たち1000人以上を対象とした教育等のストレスと精神的な健康の関係に関する研究に基づいて書いたものであったので、私の中では既知の事象であった。

 しかしながら、その言葉を聞いたとき、私は、これは親だけの話ではなく、広く日本の教育一般を説明する言葉だと膝を打ったのである。日本の教育をめぐる状況そのものが子どもたちにとって耐えがたい「虐待」になっていると思っていたからである。不登校、校内暴力を始めとして、いじめや学級崩壊が起きてしまうような学校という場で何が起きているのか、死に至るような「事件」があちこちで起きるのは、一部の子どもたちにとって、学校という場が「虐待(と同等のこと)の起きている場」なのではないか、と思ったのである。

 その11年前(1999年)に、カナダのトロント大学で子どもの育ちや子育て支援を研究していた私は、英語圏の国、あるいは海外の国々において、虐待ということばが、abuse のみならず、maltreatment という概念で捉えられていることを知っていた。「abuse=力の濫用」ではなく、「mal-treatment=不・適切な扱い」ということばである。だから、私にとって、教育虐待は、教育における不適切な扱い、ということばに聞こえたのである。

(そもそも、国連子どもの権利委員会から日本の学校教育の過剰な競争性の問題や強制的な勉強の悪弊は夙に指摘されており、1998年を皮切りに、2004年、2010年と継続的に指摘されてきた。一向に改善の兆しがないためか、2019年2月の報告においては、もうあまり指摘もされていないようだけれど。)

 そのことを私は友人の横須賀聡子さんに話した。すると、当時、茨城県水戸市で、次年度の「日本子ども虐待防止学会」茨城大会の準備がなされており、その準備に関わっていた横須賀さんが、今度のテーマは「こども虐待の予防」だから、そこで「Educational Maltreatment」を取り上げようと言って奮闘して下さったのである。これをどういう表現にするかについて長く議論して、「教育をめぐる虐待」「教育という名の虐待」などといろいろと話し合ったことをよく覚えている。

 日本では、児童虐待と言えば、「児童虐待の防止等に関する法律第2条」において、「保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう)がその監護する児童(18歳に満たない者)に対し、次に掲げる行為をすること・・・」と定義づけられているので、教育虐待ということばの意味は、カリヨンこどもセンターで使われていたように「親による過度の教育」という意味になってしまう。
 そしてその言葉は外で流通させるにはあまりにセンセーショナルで、「親が悪い」という母原病論、父原病論を彷彿とさせるものだから、そのままでは使いたくなかった。注意を喚起したいという思いと、悪者を糾弾するような言葉は使いたくないという思いの間で、随分迷い続けた。私の伝えたいエデュケーショナル・マルトリートメントという考え方は、個人の責任というよりは、社会の価値観の上で生じてくる現象として、対応に取り組まなければならないものだからである。かといって、エデュケーショナル・マルトリートメントというカタカナ語は、日本人にとってはなかなか長くて意味が伝わりにくい。わかりやすくなければ拡がらないという意味においては、「教育虐待」の方が手っ取り早いのである。

 そんなふうにことばを探しつつ、私は、2011年の子ども虐待防止学会第17回学術集会茨城大会(テーマ こども虐待の予防を考える)において「教育をめぐるマルトリートメント」というタイトルで、カリヨンこどもセンターの坪井節子先生と、大阪府立大学の山野則子先生(スクールソーシャルワークの草分け)をお誘いして、シンポジウムを開催した。お二人には私の概念を説明したのだけれど、親以外の人間によるものも含む社会的価値観によって生じているマルトリートメント、という考え方をご理解いただくまでには時間がかかり、結局、坪井先生には家庭における教育虐待を、山野先生には、やはり家庭の貧困などの原因によって教育を受けることができないという場合(ネグレクト)の教育虐待についてご報告いただき、私が、全体の概念を説明することとなった。

 これが、ある全国紙の記事に取り上げられたのだが、さて、誌面には、私の名前はなく、マルトリートメントの概念もなく、親による虐待、の文脈で子ども虐待防止学会学術集会のこの企画と私が慎重に慎重を期して説明していた「教育虐待」ということばが紹介され、お二人が出ていた。記事を書いた記者さんとは会場でしっかりと会話をしていたので、これにはさすがにびっくりしたが、当時の文脈ではまだ理解されがたいことだったのだろうし、メディアというものはそういうふうに部分を取り上げてセンセーショナルに訴えかける誌面を作りたいのだということで、あきらめて次に進もうと頭を切り替えた。

 ちなみに、この半年後、2012年8月25日には、東京弁護士会子どもの人権と少年法に関する特別委員会製作の演劇 もがれた翼 Part19「教育虐待 ~僕は、あなたのために勉強するんじゃない~」が2度上演され、1100人以上の観客が観ている。もともとカリヨンこどもセンターのスタッフたちが使っていた言葉であるから、このようなきっかけによって言葉に命が入り、劇が作られたことを大変うれしく思うし、今やっと社会に共感を得られるようになってきているのだから、もっといろいろな形で広がることが必要なのだと思う。

 さて、その後、読売、毎日、日経、東京等、いくつもの新聞社が記事にしたいということで研究室においでになり、あるいは電話取材をし、私の意図を汲んで丁寧な記事を書いて下さった新聞社もあれば、なかなかそうはいかなかったところもあるといったふうであった。その中で、少年写真新聞社、というところから、中学高等学校の養護教諭(保健室の先生)を対象とした連載記事を書きませんかというお申し出をいただき、そこに2012年12月から「中学保健ニュース」「高校保健ニュース」誌に「今、考えたい教育による虐待」と題して4回に渡る連載をさせていただいた。
 第一回「教育は子どもを幸せにしているか」
 第二回「日本の教育観と行き詰まり」
 第三回「教育観を作る価値観への問い」
 第四回「教育を虐待にしてしまわないために」
これは、かなり丁寧に書いた文章なので、是非読んでいただきたいと思う。
(体と心 保健総合大百科 保健ニュース・心の健康ニュース縮刷活用版 2014 少年写真新聞社所収)

 その後、日本子ども虐待防止学会では、3回のシリーズで「教育をめぐるマルトリートメント」をテーマとしたシンポジウムを企画した(企画者 武田信子)。第18回学術集会高知りょうま大会において「日本の教育をめぐるマルトリートメントの課題とそれへの対応ー教育をめぐるマルトリートメント(2)」平野裕二(子どもの人権連)有村大士(子ども家庭総合研究所)横須賀聡子(特定非営利活動法人水戸子どもの劇場)、第19回学術集会信州大会において、「遊びを奪われた子どもたちの発達 -教育をめぐるマルトリートメント(3)」武田信子(武蔵大学)嶋村仁志(TOKYO PLAY) 横須賀聡子(水戸子どもの劇場)である。

 もちろん、自分でこれに関した本を書きたいと思い、いろいろと企画してはいたが、次々と別の仕事が入って、書けない状態が続いているうちに、おおたとしまささんが『追いつめる親::「あなたのため」は呪いのことば』(2017,毎日出版)を書かれ、古荘純一・磯崎雄介の両氏が共著で『教育虐待・教育ネグレクト: 日本の教育システムと親が抱える問題』(2015,光文社新書)を書かれて、ご連絡下さった。そこで、それぞれの皆さんにお会いして、私の考えを詳しくお話しすることができた。皆さんに「武田さんから早く出して下さい」と言われつつ、出版社を何年も待たせている。最初のシンポジウムから8年も経過し、今年こそは出さなければならない本の一冊になっているのが今の状況である。 その際は、できればエデュケーショナル・マルトリートメントという形で丁寧に伝えたい。

 約45年前の小学生の時、学研の雑誌付録で、サーカスにおいて動物の教育の仕方を鞭を与えることから肉を与えることに変えたことで、格段に技の質が向上したという話を読んだ記憶がある。鞭を与えられている人間の教育は、いつ変わるのだろうか。

 世界中で教育はすでに変化を初めて久しい。日本は大変に後れを取っていると言わざるを得ない。もちろん、日本の教育のよいところはキープする必要があるだろう。しかしながら、どんなによい教育であろうと、たくさんの子どもたちが(そして教員たちもまた)死を選ぶようなきっかけを作る場として学校があってはならないし、死をもたらす場の価値観は、エデュケーショナル・マルトリートメントとしか言いようがないと私は思っている。

 今年こそは、きちんと自分の言葉で説明した書籍を上梓しようと思う。そして、解決への方策も示していく必要がある。今ならば、私の考え方も理解されやすくなっていると思う。

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