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禅のお勉強 正法眼蔵「現成公案」

正法眼蔵「現成公案」

· 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。

· 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

· 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

· しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

「諸法の仏法なる時節」諸法=「われ」である自己を含めた万物が仏法に基づいて存在する世界、つまり「現世」は、「迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」という常ならぬ世界である。

「万法ともにわれにあらざる時節」しかし、この世界を「われ」である自己を離れ分別の無い見方をすれば、すなわち仏法の世界には「惑いなく、悟りなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」。諸法を根拠づける仏法自体は常に変わることがない。迷悟、生滅などの有無の対立を超えた絶対の無である。

「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに」仏として生きるということは、豊倹(豊と貧しさ)といった有無の対立を超越するものであるから、そこに「生滅あり、迷悟あり、生仏あり」としてもそれらを区別することはない。

そのように悟りを開いたとしても、花が散るのを見れば惜しく思い、草が生すのを見れば鬱陶しく思う、のである。


自己を含めた全ての万物を、「いま、ここに」根拠づけているのが仏法であり、全てのものは互いに依存し合いながら存在しています。これが「縁起」に当たります。ここで明確にしておくべきことは、仏法は「われ」や世界から離れた存在ではなく、(他の宗教での創造主のような)「世界の運行を司る主体」としての存在でもありません。

仏法の働きを見るためには、見る主体である「われ」と客体としての世界という主客の立場を離れた主客未分の「われにあらざる」立場に立って見ることが求められます。

このように、「われ」である自己を離れ分別無く世界を見ることが悟りへの道だとしても、「われ」を消し去ることが理想でもないし、決してそうはならない、と道元は言っています。たしかに、愛惜も棄嫌も煩悩に過ぎないかもしれませんが、それらを全て捨て去ることにとらわれるのも新たな煩悩であってキリがありません。 むしろ、そうした煩悩があることも前提として=「われ」の存在も含めて世界を捉えていく、そのような考え方を示しているように思います。

· たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

· かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

薪を燃やせば灰となる。一度灰になったものが薪に戻ることはない。しかしながら、灰は後、薪は先であると理解してはいけない。薪は薪であることによって薪以外の何ものでもなく、その前後の姿があったとしても、それらは続いてはおらず途切れている。


「永遠の今」不連続の連続としての時間感覚

実在する時間は「今」以外にない。途切れた「今」が連続することによって、時間はあたかも進んでいるかのように感じられるだけで、実際に存在する時間は常に現在をおいてほかにない。

「過去」は現在において想起するという形で存在するし、「未来」は現在において予期するという形で存在する。すなわち、現在の前後は存在するが、客観的な過去や未来は実在しない。

現在すなわち、自己を含めた全ての万物が縁起に基づき仏法により根拠づけられた世界のみが実体であり、言葉を変えれば、存在するものの相互作用が永遠の今を動かす、という考え方になります。 


「今、この瞬間に集中する」

エフェクチュエーションにおける熟達した起業家の行動原則と禅の思想の共通性についての質問に対して、ChatGptが回答した中でキーワードの一つとして挙げられていました。しかし、後者の禅における「今、この瞬間」の捉え方がそもそも理解できていませんでした。そこで、禅の入門書的な文献を読んでいる中で見つけたのが、この正法眼蔵「現成公案」の一節でした。

「永遠の今」、すなわち不連続の連続としての時間感覚によれば、実在する時間は「今」以外にない、ということです。「過去」や「未来」は現在の前後として存在するものにすぎません。自己を含めた全ての万物が縁起に基づき仏法により根拠づけられた「今」の世界のみが実体であり、言葉を変えれば、存在するものの相互作用が永遠の今を動かす、という考え方になります。ここまで掘り下げてみると、「存在するものの相互作用が世界を動かす」という哲学が背後に共通性として浮かび上がりました。

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