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読書メモ:倫理の経済学 第3章「われわれはみんな伝道者に支払うべきだ」

変人/偏人ブキャナンを読む。
FIREを選択することの外部不経済。あなたが感じる「後ろめたさ」は正しい!
ジェームズ・M・ブキャナン/ 訳者:小畑二郎(有斐閣 1997年2月初版)

「われわれはみんな伝道者に支払うべきだ」倫理の経済的起源

 第1章と第2章での労働倫理と貯蓄倫理の例で見た通り、これらの倫理規範には明らかな経済的価値が認められる。こうした倫理規範の経済的起源の研究については、いくつかのアプローがある。それらは、

1. 「自己規制の経済学」:孤立した個人として、他人の行動と完全に独立に、自己の行動を束縛する拘束を課すことに長期的な利益を見出す。
2. 「立憲的」ないし「契約主義的」:他人の行動が同じような拘束を受けることと引き換えに、自己の行動を拘束する規範や慣習に同意することが合理性を見出す。
3. 「個人の合理的選択」:個人として、他人の行動に拘束を加えることを求める。

などに、倫理規範の経済的起源を見出すアプローチである。本章は、第三のアプローチに基づき、「私は、他人がどの様に行動することを望むのか」について検討する。倫理規範を「伝道」することが「私」にとって利益となる可能性は、他人の行動に関連するのである。

 交換や取引が可能であれば、社会的相互作用において双方に望ましい結果を達成するために倫理的拘束の果たすべき役割は最小限となる。しかし、交換や取引の制度が用意されていない場合は、そこに倫理規範の役割を無視することはできない。実際、「もっと働く」や「もっと貯蓄する」という双方の行動を、経済の参加者同士が直接交渉により合意し、相互の利益を得ることはほとんど不可能である。相互に利益を得る可能性があり、双方が「もっと働き、もっと貯蓄する」ことに合意したとしても、その合意を実行させる契約は複雑さと取引費用の障害によって成立することは不可能だからである。

 人々が労働や貯蓄を選択することに伴って発生する外部性を倫理によって内部化することが優れている点は、「倫理は契約的ではない」ことによる。倫理に従って他の人々が労働や貯蓄を選択することで、全ての人々が経済的な利益を得る。しかし、他の人々がより多く働き貯蓄したとしても、それ以外の人々がそれと同じ行動を取る必要はないのだ。つまり交換におけるような代償物は求められないのである。そのため、「伝道者に支払う」すなわち人々の行動を倫理によって修正することへの投資は、たとえフリーライダー関係の発生が予想される場合でも、経済参加者の個人としての合理的選択となりうる。(社会契約のように社会全体での合意を必要としない。また、個別契約としては成立不可能であることはすでに論じられている。)

 倫理的拘束の源泉は厳密に経済的な要素であることを、ブキャナンは本書を通じて示唆している。個人の選択が自分以外の他人に経済的な影響を与える、そのような相互作用がある限り、自分以外の他人の選好序列に無関心ではいられない。そこに倫理規範が機能する根拠があるわけだが、そもそも個人の選好は変わり得るという前提が必要となる。そこでブキャナンは選好の固定性を公理とする経済学者とは一線を画しつつ、選好が社会化と文化変容の過程の中で修正され得ることを認めている。一方で、コミュニタリアンが主張するような、個人の選好が社会的環境のみに依存する(所属するコミュニティーに完全に順応的)とする議論との区別も明確にする。ブキャナンは、そうした一方的な依存関係ではなく、社会的環境と個人の選好との間にフィードバック効果を認めるアプローチを採用する。

 なお、1の「自己規制の経済学」については、将来直面すると思われる選択における自己の判断を信頼できないときに、人はあらかじめ自己の選択行動に拘束を課す傾向がある。思い付く事例としては、投資家が定める投資ガイドラインがある。これは、いくら確信度の高い投資案件に対しても1案件当たりの集中度の上限を設けたり、逆に投資環境の悪化や暴落のリスクを予想する場合にもリスク資産の投資比率の「下限」を設けるなど、自己規制を定めるものであり、あえて「自らをマストに縛る」行動である。2の「立憲的」ないし「契約主義的」な考え方は、政治的・法律的なルール形成の研究に用いられてきたアプローチではあるが、倫理規範に関する研究に応用できない理由はない、とブキャナンは指摘している。もちろん、ブキャナン自身が「立憲的契約主義者」ではあるが、本書では自説による議論を控え、あえて新古典派や功利主義の土俵での議論を挑んでいる。

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