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20代を振り返る

20代という10年を過ごして、思い起こせばあっという間の10年間でした。

感覚的には、だらけて燻っての前半、もがいて足掻いての後半、と
思春期延長戦のような、そんな10年を過ごしたような。

10年前の自分は、中高一貫校に進学した副作用で成人式に行く友人がいないことに頭を抱えていたような気がします。
その頃は、特にイキリ散らかしていたことも記憶しています。

その癖、バイトをすればヘマしたり、人の約束を放したり、とにかく出鱈目な日々を浪費するように生きていて

気づけば何を残すでもなく、どこに橋をかけるわけでもなく社会に放出された盆暗が出来上がったのみ

社会を舐めた人間は、社会の外に行くか、痛手と共に門を潜らせていくしかない、というのは身をもって知りました。

最後の砦と戻った家業もまともに手がつかずしばらくは糞を運ぶ日々を過ごしました。バキュームカーの操作も危うく、身体中で中身を受け止めた日のことは忘れないでしょう…

海外を放浪したり、気づけば20も半ばに差し掛かり
優秀な同期は仕事に励み、院で勉学を深め堂々と職に手をかけていくのを横目で見るのは自業自得ながらも少し酷で、薄目で地面を覗きながら歩くしかなかったんだと思います。

野ざらしの自分はこうも1人なのか、惨めなのかとよく分かりました。

「人は、群れで生きる生き物なのだ」
という父の言葉がよく染み入りました、ありがたい言葉は遅効性。

その後は、工場で研修をしたり、飲食店の飛び込み営業から卸の真似事(その後見通し悪くやめました)、取れる資格や許可は取っておけ、と
大特、大型の免許やらフォークリフト
家畜商、古物商、食品衛生管理者、HACCP指導員、審査員etc
暇だったことが幸いして、いらない資格まで取りました。
職を失ったら如何わしい古物を取り扱ってでも生きていけばいいか、と思っています。

26,7の頃の自分は理想と現実の乖離が激しく、一番焦っていて
よく「こんなはずじゃなかった」と頭の中で半数することがありました。
理想とはかけ離れた自分の無能さに落胆する間も無く昼行灯の己からどうにか一つ皮を剥きたい、膜を破りたい
脛齧りをやめたい、1円も生み出せない愚図からどうにか、どうにか、
そういう気持ちばかりでした。

28歳ほどになって、紆余曲折を経て「直販」に向かい
今のショップを作ったり、出回って様々な人に会うようになったと記憶しています。

その時に助けてくれた後輩や仲間には感謝してもしきれません。

一年ほど白い目を外から内から向けられつつも続けていた末に少しずつ光が差して、29になってようやく仕事らしい仕事ができるようになってきました。

そんな中では本当に多くの人に出会い、助けて頂いたり、応援して頂いたり、人に生かされていると感じることも多々ありました。

そしていつの間にか、豚野郎と呼ばれるようになっていました。大層な名前です。

今年の振り返りに話を整えると
3月には新しく農場直送のブランドを立ち上げたり、様々な商品を作ったり
なかなか外で人に食べてもらう機会は持てずもどかしい時は多々あったものの、人に恵まれている、自分達が作ったり、手がけたものが愛していただけていると感じることばかりで
仕事を楽しいもの、と思うことができました。
怒涛の一年と噛み締める間も無く終わってしまったような…そんな気がします。

おそらく、世の30歳の方々は仕事に円熟味を帯びたり、専門性が深まったり、家族を持ったり、様々なコーナーを経て次の周に差し掛かるようなものかなと思います。

これまで「自分は出遅れの身」と思いながら過ごしていましたが、沢山の方に励ましていただいたり、背中を押していただいたお陰でそんな暗い自負も影を薄くしてくれました。

まだまだ人生これからかな、不安だけど、楽しみだな、と
そう思いながら歳を重ね年を越せるようになったのはつい最近、滑り込むようにしてのことです。

10年を立ち帰れば素直に、五体満足にやりたいことを持っていられるだけで充分すぎると感じるし、自分にとっては何が大切で幸せかをよく見つめ直しながら次の10年をじっくり生きたいなと思います。

そう思えるだけでも多少は成長したのだと信じたい、必要な程度の背伸びをしながら生きていければ良いなと思います。

数年越しでじっくり育てて準備したことも来年に花咲けば良いな。
これにて反省は終わりにして、次に向かって楽しんでいこうと思います。
次の一年もどうぞ宜しくお願いします。

気づいたこと
SNSが生活に馴染んでいく中で、気をつけなければならないのは
「自分にとっての幸せ」はなんなのかを理解し、踏み固めていくことだなと
周囲の環境と自分の立ち位置の温度差というのはデカイとガラスのように割れてしまうもので、私にとって「こうありたい」という目的がくずれて
手段と目的がすり替わることが多いなと

恐ろしいことに数字は、証明になる以上に手段と目的をすり替える、人の感覚をスリップさせる力が強いものでした。
数字を追えば、何かしらの自分を証明できるけど、どこに向かっているのかが分からなくなることは往々にしてあることだから
行き先がわかってても、必要な道筋を誤れば辿り着くことはできないことを痛感したものではあります。

淡々と地道にやる以外の道は見つけられなかったので、そういうやり方でいこうと思ってます。

じっくりと進んでいこう。

いまだに諍いの絶えない自分の愚かさは感じるばかりですが、親や身の回りの人に立ち止まって感謝して、次の10年を楽しみたいと思います。

幸あれ!

ちょっと、いいコーヒーが好きです