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物語を交換するために僕たちは生きている

電車の中でスマートフォンを覗く習慣をやめたら、長らく下駄箱の上に積まれていた本たちがすこしづつ溶けていく。

ほとんどのアプリケーションのモバイル通信はオフにして、通知は最低限。一日のモバイル通信量がゼロに近づいたあたりから、「……ひよっとすると僕、スマートフォンを持つのをやめても生活できるかも」と思ったけれど、いくつかの日常的な運用(交通系ICの処理、チケット類の手続き、音楽プレイヤー等)が煩雑になることを思うと、それはそれでやりすぎだろうと思いとどまった。別にスマートフォンを憎む必要はなくて、「あまり頼りすぎないように生きたい」と思い始めただけのことだから。

スマートフォンによって世界は開かれ、何人もの出会えなかった人たちと出会えた(たとえばあなたの事です)。画面の向こうで誰かが生きていることを感じ、きちんと向き合えばその息づかいさえ感じられる。
けれどその一方で、学生時代にあれほど親密だった孤独が、得体の知れない恐ろしいものに思えてしまうこともある。ポケットの中に常時GPSを携えて歩む人生が、こんなにも拠り所のない気持ちを誘うだなんて。

物語を交換するために僕たちは生きている。
お気に入りの音楽を聞き、何度も読み返した本を開き、ときどきあてもなく旅に出て、頼りない知識で星座を探す。

そうした営みの中で、なんの脈絡もなく飼っていた猫の癖を思い出す。「リカーシブコールは生きている」と僕は思う。「いつか忘れてしまうのだ」というルールを忘れ、「いつでも思い出せるのだ」というルールを思い出す。
ようやく重いまぶたを開くと、スープを温める君の背中が見えて、僕は掬い上げたいくつかの記憶の中からはじまりの言葉を見つける。


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