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弦のふるえ

最近の僕はよくギターを弾く。自分でも驚くほど、毎日ギターばかり弾いている。とはいえ、なにか一曲くらい通しで弾けるようになったのかといえばそれは全くの別問題で、どれだけカードをシャッフルしてもチップを掛けるまでゲームは始まらないのだ。

あれはたぶん五年ほど前のこと。当時まだ高校生だった友人から「気がついたら五時間くらい弾いてる日もあるんよ」と、地域性の汲み取りにくい語尾を聞かされて呆気にとられ、「ははは」と乾いた笑い声を返した僕だけれど、当時の僕がいまの自分自身の暮らしぶりを目にしたら、やはりピーナッツの殻みたいな重みのない笑みを浮かべるのだろう。

物心つく前から姉はピアノを弾く人だった。父親の仕事の都合で僕たち姉弟は三つの小学校を渡り歩いたのだけど、渡辺篤史が好奇心を奮い立たせるのに四苦八苦するほど探訪し甲斐のない手狭な社宅に、強引にグランドピアノを運び入れるアンバランスな家庭は、見聞きする限り周囲には存在しなかった。今にして思えば、そうした方向性を定めた僕たちの母親(明美)こそが、圧倒的にファンキーな人間だったのだ。

休日の社宅では、いつもどこかの窓から練習中のバイエルが聞こえていた。
公園を駆ける小学生たちにとって、わずか十センチほどの溝が鬼から身を守るバリアであり、珍しい形をした枯れ枝はヒーローに変身するためのステッキだった。コンクリートにスーパーボールが跳ね、けらけらと笑いながら逃げる岩永くんの背中で水風船が破裂し、軟式テニスのラケットにとまるトンボをじっと観察している間、そこにはいつもピアノが鳴っていた。

僕はなんのために音楽を演奏するのだろうと考える。「『もしもピアノが弾けたなら』が弾けたなら」と、自己言及のマトリョーシカを思い浮かべる。もちろん答えはない。
「……よく気づいたね。『答え』を探す行為、その問いかけこそが、まさに君にとっての『答え』なのだよ」とゆっくりと拍手をしながら近づく老紳士と対面しても、今の僕は完全に無視することが出来るだろう。早く帰宅して、録画しておいた『建もの探訪』を見なければならない。多くの場合、物事には優先順位というものがある。

身動きが取れなくなったときは、思い出し方を忘れるよりも忘れ方を思い出す方がいい。ただそれが難しいから、僕たちは今日も平静を装ってカードをシャッフルする。あるいは弦に指を置く。あなたと同じように。

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