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”TERMINATOR: DARK FATE” に学ぶ、理想のコマンダーのあり方

こんにちは、Nocchiです。
映画を見るときに3つくらい視点を持っています。

①映画作品としてのメッセージ性、脚本、映像など
②多様性(特に国籍、ジェンダー、年齢差)の描写に対するスタンス
③生き方や経営上で学べるポイント

今回はこのどれもに多く思うところがありました。
純粋なT2や洋画ファン!と言う方は意見が分かれる気もしましたが、それぞれ述べていきたいと思います。

ネタバレ前提です。
また、コマンダー論に入るまでが結構長いです。

①映画作品として

[ タイトルの話 ]

まず思ったのは…

原題と邦題全然違うー!

邦題はニューフェイト、原題はDARK FATE。

映画に限らず、コミュニケーションの基本として、極力、その本人の言葉で受け取って咀嚼するように努力をすると言うことを自分に課すようにしているので、母国語以外でもあまり字幕部分を見ないようにはしています。

高校生くらいの頃にSCREENという映画雑誌を毎月買って隅から隅まで読んでいた時期にも、原題と邦題を両方見るようにしていて、その違いに結構驚いていたものでした。
懐かしいなぁ、まだあるのですね。しかもターミネーター回だ❤️

ゼロ・グラビティで結構発奮した原題全然違う問題ですが、今回もまたかとちょっと思ってしまいました。予告編見ていても「うわぁ」と感じるジュマンジとかもそう、アナ雪もちょっとそう。

日本での興行収入を上げるために配給会社が変えているのでしょうか、予告編なども「ヤメテー!」と言う作りの時がたまにあります。
今回も、暗い印象を払拭したかったのかもしれませんが、できれば原題を英語で表現するようになってほしいなぁ。

(映画館にしょっちゅう行く身としては、観客のみなさんがそんなに英語わかんない人たちには見えないのですが…統計取っていないからわからないですけども…どうなんだろう…)

[ シリーズとの整合性 ]

ターミネーターといえば、自分もT2が圧倒的に好きです。
追いかけてくる液体。小学生の時に見て、本当に怖かったし、よく特撮を理解してなかったもののメイキングなどを見て心踊らせていました。

オマージュがいくつかあったので、監督がきちんと拾ってくれたのだろうなぁというファンサービス感。
ラストでI will be backと言わないシュワちゃんなど、敢えて感。ウンウン。

サラ・コナー クロニクルズは途中で断念してしまったのでファンとは名乗れないレベルですが、見てから臨めばよかったというくらいには、サラの話でもあった。
(STAR WARSとはアナキン=スカイウォーカーの話である、ということであるのと同じ感じ)

[ エンターテイメント性 ]

最近のハリウッド映画はテンポよく、長くても2時間くらいで納めてくれるので、長時間拘束への耐久性が落ちているアラサーにはとても嬉しいです。
アクションしっかりで映画館むき。

配給はパラマウント、FOXに並んでTencent picturesが目立ちます。
(SKY DANCEも最近よく見るようになりましたねー)
中国配給が入る場合、如実にアジア描写が入ることがありますが、今回はほぼ感じなかったです。

②多様性に対するスタンス

[ 女性の話 ]

他洋画作品でも本当に感じますが、ここ数年で、女性に対する個としての自立性を応援するメッセージが強くなっていて、個人的にはとても嬉しい。

自身が無双してきたサラ・コナー自ら、主人公のダニーに対して「救世主の息子を産む聖母マリア」という断定的な見解を示したのに対し、実態として本人を救世主だと言う描写にしてくれて、本当に嬉しかったです。
(グレースが即答しなかったのでそうだろうなと思っていたけれど)

Chicken or Eggですが、情操教育におけるメディアの責任と言うのは大変大きいと思う。
サラにも、わざとああ言わせて、世代間の価値観ギャップを、敢えて見せたのではないかと思います。

女が守られ、男が戦うものだという作品を作ると、そう言う価値観の人間が生まれるから、そういう作品しか売れなくなり、その価値観というのはどんどん助長されていく。

そもそも私は幼少期から男尊女卑への怒りが強すぎて、結構根本まで調査したことがありますが、今回発言があった通り、キリスト教がこれを助長したという意見を見たことがあります。
救世主は男性であり、女性はそれを孕むための装置であるというアンコンシャス・バイアスの社会的植え付け。

生物的に、向き不向きは当然ある。
また、女性は守られていいよなと思う男性だってたくさんいることでしょう。被殺害数だって実は男性の方が圧倒的に多い。
映画でも、殺すのが男性なら大量に殺されるのもまた男性。

しかし生物学的ギャップを超えて、精神的にありたい姿を体現しながら生きられる世に、確かに現代は進化しているはず。
テクノロジーがそれを助けてくれる。
アバターもある、SNSもある、自分の多様性を発信しやすくなったし、受け止めてくれる場所が、つまり自己肯定できる機会がとても増えた。
地政学的に閉じられていた接触相手が、場所を超えて見つけられるようになった。
これはインターネットがもたらした最大の価値と思うし、これによって生き延びることができたマイノリティな個体は増えたのではなかろうか。

価値観を変えるには、発信者かつ自身がそのアンコンシャス・バイアスを否定する以外に方法はない。
成熟した人間のアンコンシャス・バイアスを取り除くのはとても難しいことが多い。

どうか、自分の属性に限らず、個人は自分の意思で自分のあり方を決めるものであり、誰を愛し、誰を守り、何が幸せかは自分で決めるのだという生き方を肯定できる人が多い社会に、これからは育ってほしい。
これは人種などにおいても同じ。年齢においても同じ。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーなんてもはや年齢性別超えてアライグマと一緒に戦うわけですが、アメリカってああいう描写をきちんとするんだよね、ダイバーシティへの情操教育が日本とは違うという会話を、最近とある人としましたが、本当にそう思う。X-MENなどもまさにそう。

私はアメリカのヒーローものを多く見て育ってきたけれど、そのほぼ全てに置いて、ヒロインではなくヒーローに共感した。
しかしあれは男性がヒーローで女性がヒロインというアンコンシャス・バイアスを観客に植え付けた。
私は自分のヒーロイズムとジェンダーの乖離について、随分と長い間、疑問を持たざるを得なかった。

けれど、女性がヒーローという価値観を提唱してくれることで、私はこれに悩まなくてもよくなる。
誰かによる「あなたは私の価値観における女性と違う」という発言を受けなくて済む。
こういった発言が自分をどれほど傷つけたか、発言者の方には理解できるだろうか。親切心だろうが何だろうが、私には侮辱と攻撃以外の何物でもなかった。

社会が変容すれば随分と人は生きやすくなる。
xxxは不幸だという言葉を発する人が、その人を不幸にする。
どうか、次の世代を、自分を幸せにしたいなら、自己の価値観と他人の価値観は異なるものであり、幸せの尺度を自らもつ行動を起こしてほしいと切に思う。

[ 弱肉強食と愛の話 ]

お前は、私の大切なものを全て奪った。
今度は私がお前を殺す番だ、というセリフがとても好き。
(こういうのを好きと表明する人も、特に女性だとすごい少ないだろうなとは客観的に自覚しつつ敢えて言いますが…)

何が好きって、自分の大事なものを限定的であることを認知した上ではっきり大事だと公言し、相手に謝れではなく、相手に対する自分の行動を決めているところ。愛と自立からできている発言。

序盤でダニーは弟や父をとても愛している描写がしっかりあって、知り合ったばかりのグレースやサラに対しても愛情深く接する様子が、とても人間味があった。

でも、人類への愛…みたいな聖母とかそういう話じゃないのがいい。
ターミネーターを殺すときはしっかり殺意を表す。
誰を愛するかは自分が決める、そのために自分が強くなる。

アメコミの源流には米軍入隊への違和感を消すための情操教育があるという論調を見たことがあるけれど、それでも、私は、非暴力不服従というよりは、愛するもののために強くなるという理念の方に圧倒的に共感する。

しかも、守るから愛せということではない、愛している人に死んでほしくないから、守れない自分でいたくないから強くなるという気持ち。
弱いという事実と、戦わないという選択は、全く違う。

ダニーは自分をnobody(何者でもない)と表現するけれど、社会的知名度や能力など関係なく、自分がどう生きるかをしっかり表現したとてもいい描写だった。
実際にシュワちゃんの助けがなければ最後殺されていたのかもしれないけれど、生物学的ハンデを負って、自分を追い詰めてなお、人が理念のために自分を体現すべきだという極めてストイックで理想的な姿だった。

トロッコ問題でも構わない。自分が大事にしているものを、綺麗事を言わずに優劣並べて、まず受け入れた方がよほど格好いい。
(一応、天気の子もこの主題が入ってましたね)

現実で実際その場面になることはほぼないとしても、観客にそれを問うために、こういう極限描写をする映画が存在するのだと私は思っている。

また、今回とてもうまいなと思ったのが、息子を殺されたサラが、ダニー同様にシュワちゃんへ激しい殺意を見せるも、彼を思う人を目の当たりにして、殺意の置き場所がなくなる描写。

キングダムで「お前の罪とお前の子は関係ない」という発言がかなり重たかったと感じましたが、人を殺してはならないという社会ルールの根底は多分これで、誰かを傷つけることで、その人を愛している別の誰かが不幸になると不幸の連鎖が始まるから、という描写だなと。

憎悪や殺意そのものを否定せずに描きながら、後悔、懺悔、更正、関係ない人を悲しませたくないという人間に残った、生物への愛情というものを、すごく温かく感じました。

そして、サラが、同一の思想をもつ仲間としてシュワちゃんを助けるところもあれば、彼の死の瞬間に、悼みと共に、恨みが消えていないのだろうなと匂わせる描写もとてもいい。(サラとダニーは泣きも喚きもしない)

別に許す必要もない。でもミッションクリアのために互いのできる限りの協力をする。ドアが開かない最後の方のシーンで、自分には開けられないのだと、力を貸してくれときちんと他の個体のもつ優位性を認め、ミッションのために感情を抑えることができる描写も素晴らしかった。
シュワちゃんもサラの許しを得ようなんて思ってない。贖罪をしたかったから自分にできることをやっただけ。

これらはとても自律的で自我を高尚にしようとする行為であり、押し付けとは全く次元が違う。素晴らしいメンバーでした。
ミッションクリアしたら解散なんです、それでいいんです。
特に日本はすぐ恩義と言うけれど呪いと愛を一緒にしないでほしい。
何かを守る努力など、惰性でも歴史でもなく、そこに見返りを求めない愛によって行われるのがもっとも心地よいはず。守りたいから守っているはず。

ペラッペラな世界平和を説かれるよりも、よっぽど愛の形だと思いました。
愛というのは本質的に執拗で偏っていて優劣そのもの。贔屓そのもの。
そして、自分と同じだった誰かを悲しませないように自分の憎悪すら殺せるほどの慈しみでもある。生々しいそれがよかった。

③生き方や経営で学べるポイント

ジェンダー論はだいぶ語ったのであえて女性であることを意識せずに述べると、主人公のダニーについて、独裁者とコマンダーの違いがわかりやすい、理想的なリーダー像を描写しているなと感じました。

独裁者というのは指揮命令下に自分以外の人間を据え、従属を強制する理念だけれども、コマンダーというのはチームメンバーが可能な限り自律的に行動し、自らが生存を確保しながら、全員でミッションクリアする方法を考え、意思決定する軍師というポジションであると思っています。

エンカウント時に、前列のソルジャーにヘイストとかリフレクかけたりする感じというか(ドラクエよりFF派)
パーティを組むときに考えるのって、どっちが偉いとかじゃなくて、分業とかバランスとか萌えキャラの組み合わせ(←)で。
そういえばFF7のリメイク楽しみすぎる(脱線)

ゲームじゃわかってるのに、会社も学校も家庭も何もかもそうなってない。
ティール組織というのが言語化されなくったって気持ち悪さを体感してきた人たちは多いはず。そうでなければ通勤通学が嫌だという人がこんなに多いわけがない。

高度成長期は同じ作業をさせた方が効率的なのと、そもそも生物に存在する自己承認欲求のもと、独裁者を志す人間が絶えないということがあり、世の中ってのは生きにくい設計になっているところがまだまだたくさんある。

誰かを貶めて他方が仮想優位を得る行為で幸福な社会なんかできるわけがない。絶対に、その時点で、その人から恨みを買っている。
管理職と部下という言い方にして、他方がマウンティングを始める設計にした瞬間に、その組織限界は自ら設定したも同然に近いと思う。

けれど、恨まなくていいのなら恨みたくないわけで、つまり、これはもう、設計がおかしい。
上下関係とは、自立性を失わせ、人の自己肯定感を押し下げる、不幸製造機であるのではないかと、そう思っている。

コマンダーとは、それを生じさせずにミッションクリアする設計を行う人を指すのだと思っている。
今回、ダニーがずっと提唱し続けたのは、味方全員を最大限生かしたまま敵を効率的に殲滅すると言う方針。そして各キャラクターの特性をよく活かし、彼らを細かくケアした。
これは実は、愛情深いのに客観性が高く、最適行動を取れるという意味でコミュニティ・マネージャーの資質にもとても近しい。

また、クレイジーキルトの性質にも近く、エフェクチュエーションを体現した行動であって、経営者というのは本来こうあるべきだと思っている。

私はファイヤーエムブレムと言う任天堂のゲームが、そりゃあもう大好きで、聖戦などはこのコマンダーという価値観をとてもよく自分に教えてくれたのだけれど、今でも、現実世界においてすら、この軍師感覚をとても強く覚える。盤上が見える。囲碁を打つ時もちょっと似ている。

あのゲームの中では、一度失ったキャラクターは蘇らないけれど、セーブデータをリロードすると、同じマップ/敵の設定でも、戦略を変えるだけで、最短ターン数で、全員を生還させたまま、ラウンドクリアすることができる。

もう、コマンダーを説明するのにあんなに素晴らしい教材はないと思う!(熱弁)蒼炎は獣人も出てくるので多様性理解にもいい。

独裁者とコマンダーの、もう一つ、大きな違いとして、独裁者はどこまでも自分が崇められることを望むが、コマンダーの悲願はミッションクリアなのである。

今回その意味でグレースもサラもシュワちゃんもコマンダーでもあった。
ティール組織とは自律分散型組織なのである(とても好きこの言葉)

そして、各人に自意識を持たせ、各自の感情をうまくなだめながら、ターミネーターを殲滅するという共通意識を持たせたダニーこそ、やっぱり真のコマンダーマインドを持っていたと思う。
次世代のリーダー性って何かに秀でたパラメータよりこれだと思うんだよね

本人がいなくなってなお、悲願のために強くなろうという、極めて自発的なチームメンバーが生まれた瞬間に、その人はコマンダーなのだろう。だから本人が抜けた後に瓦解する組織の方がやはり弱いと思うし、支配構造はティールの真逆を行くので、強みを伸ばしてうまく必要なものを与えられる人が、意思決定ポジションにいると、最強の組織になると考えている。

だから、やっぱり少佐は最高なのである!
コマンダー不在でも個別の個体がミッションクリアに自力で向かう様を描いた美しい作品。多くの人に攻殻機動隊を見てほしい〜!(大好き)


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