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【自伝(4)】拗らせのーこの半生(2011年1月・22歳〜2012年6月・23歳)

さて、今回の記事は過去にどこにも書いてこなかったことを書いていきます。
大変にヘビーな時期でございまして。
どうやって書こうかなと悩ましいです。
私の人生で最も反省すべきことで、読んでくださった方がどう捉えるか、様々な考え方があると思います。
それでは書いていきます。





2011年1月・当時22歳。

依然として鬱は良くならず、希死念慮に襲われる日々。
友達に相談できるはずもなく、病院からもらう薬でどうにか耐えてはいたが、やっぱりどこかに「死にたい」と吐き出したい。

そんな時に活用していたのがネット掲示板への書き込みであった。

精神が病んでしまい、希死念慮を持ってしまうような方が集まる掲示板に、私も「死にたくて辛い」と書き込んだりして気を紛らわせていた。

そこで私は一人の男性、あやつと知り合った。
仮の名前すらつけたくないので、この先ずっとあやつと呼びます。

お互いに辛い気持ちを吐き出し、そして励まし合い、なんとなく気が合うんじゃないかと思ってしまった。

あやつからの会いませんか?という誘いに、特に何の警戒心もなく乗ってしまった。
そして会ったのが2011年1月。

S君と別れてから誰かを好きになるということはなかった。
店のお客さんやらに口説かれ、一度だけ関係を持ち一週間程度でフラれるなんてことはそこそこあった。
来るもの拒まず去るもの追わず、男性からしたらまさに都合のいい女であった。
つまりはただのビッチだ。

そしてあやつと会っても、私自身は特に惹かれるとかそんなことはなかった。

ただ「好きです、付き合ってください」と言われたら、いつものごとく断る理由もなかった。
そんな軽いノリであやつとの交際が始まる。
この軽いノリが全ての原因である。

付き合い始めはまぁ普通だった。
とりあえず悪い人ではなさそうだなと。

付き合っているので当然そういった行為もする。
私は事前に、「私は今精神を病んでて薬を飲んでる。そしてちゃんと働いてもいないしちゃんと自立ができていないので、絶対に妊娠は避けないといけない。なので必ず避妊をお願いします」と話していた。
あやつはそれに対し分かったと了承した。
まぁ避妊は必ずするのが当たり前の認識であってほしいのだけども。

その分かったという言葉が嘘であったことを知るのに、そう時間はかからなかった。

あやつは私を押し倒し、避妊具はつけたくないと迫ってきた。

必死に抵抗し、嫌だ、やめて、避妊だけはお願いと懇願する私の言葉や気持ちなんか一切無視し、無理やり。

今でも思う。
あやつを殺してでも、この時もっとちゃんと逃げればよかったと。

最初から好意なく付き合い始めた関係だったが、一気に信用がなくなった。

もしかしたらのことを考え、妊娠検査薬で検査できる日を迎えたらすぐに検査をした。
陽性であった。

その後ちゃんと産婦人科でも診てもらった。
そして改めて、妊娠していることを告げられた。

正直なことを言うと、妊娠していることを告げられた瞬間、自然と嬉しい気持ちが湧いた。
私のお腹に命が宿っているんだと。
これが母性というものなのだと。
そして、その時は結婚して産もうと思った。

この後すぐに私はあやつと、私の母に報告しに行った。
こういうことは早い方がいいと思ったからだ。
その時も母には産むと話した。
その場に父はいなかった。

そして私の妊娠が分かってから二日後、東日本大震災が起こる。

その時私は実家にいた。
東京はそれほど大きな被害はなかったが、家の中の色んなものが倒れるほどに揺れた。

小学生の頃から一緒にいる愛猫を守るために、愛猫を私の体で覆い「大丈夫だからね」と宥めた。
しかし二回目の大きな揺れで愛猫はパニックになってしまい、軒下へ潜り込んでしまった。
愛猫はしばらく出てこなかった。

もし愛猫が軒下にいる間にまた大きな揺れが起きて、家が崩れてしまったらどうしよう。
それが不安で心配で仕方がなかった。
私はお腹の子よりも愛猫を守りたいと思ってしまっていた。

店にいた父が心配して一度帰ってきてくれた。
いつでも逃げれるようにしなさいと言い、また店に戻っていた。

その日は一日中テレビで震災のニュースが流れていた。
父と母は帰宅できないお客さんの為に、その日はずっと店にいると。
申し訳ないが家には帰らないとの連絡が来た。

私は居間で電気を消して、テレビでずっとニュースを眺め、軒下から出てきた愛猫を脇腹で寝かせながら朝を迎えた。

震災の翌日、家に食べるものがなかったのでコンビニへ行くと殆ど食料がなかった。
かろうじて残っていたクリームパンを購入した。

お腹の子の為に少しでも食べないと。
そう思ったが、私はクリームパンを食べただけでものすごく気持ち悪くなってしまった。

父と母は店のことで手一杯で、だけども私のことが心配でもあるので、とりあえずあやつの家に避難してくれと。

その言葉に従い、私はあやつの家に泊まることになった。
あやつの家に向かう途中の駅のトイレで、あまりの気持ち悪さに吐いた。

妊娠が分かってすぐの震災。
不安だけが募り、自分の考えは安直すぎるのではと考えた。

初めは産む気でいた。
環境だけを考えれば、結婚して産んでも問題なかったのだ。
あやつはそれなりにお給料のいい仕事をし、蓄えもそれなりにあった。

でも。
私自身はまだ精神的に不安定で、ちゃんと自立ができていない。
そして薬をずっと飲み続けている。
年齢的に問題はなくても、その時の私は妊娠・出産をして大丈夫な状況ではなかった。
自分がこんな不安定で、ちゃんと子育てが出来るわけがない。
だからちゃんと避妊をお願いした。
これらの理由を丁寧に説明をして。
それなのに、抵抗する私を強引に。無理やりに。

こんなやつと結婚して、出産をして、果たして誰が幸せになれるのだろうか。

誰も幸せになれないと思った。
私の妊娠を知った父も母も渋い顔をしていた。
そして、私は無理やり妊娠した子を、自分の快楽しか考えないあやつとの子供をちゃんと愛せる自信がなかった。
無理だと思ってしまった。

なので、私は自分の意思で中絶することを決めた。
あくまで私の意思。そして中絶することに関しては全て私の責任であると。
そうでなければ、私は人のせいにして逃げてしまいそうだったからだ。

そのことをあやつに話した。
そしたら分かったと言った。
まるで何の責任もなさそうな顔で。

2011年4月下旬、私は中絶手術を受けた。

入院部屋は、みんな出産を控えていそうな人ばかりであった。
幸せそうだった。

手術前日に、子宮口を広げる処置をした。
痛かった。看護師さんも「この処置を受ける方は痛さで泣く人が多い」と言っていた。
それを聞いて、私は絶対に泣かないと決めた。私が泣いてどうするのだ。

その処置が終わり、翌日全身麻酔を受け手術。
終わって目が覚めると、先生から「綺麗でしたよ、見ますか?」と言われた。
私は怖くて見ることができなかった。

私の血液型がRhマイナスの為、次また妊娠する時に悪影響が出ないよう筋肉注射をしてもらった。

そしてその日のうちに退院。
退院する時に色んな大事なことを説明してもらったはずなのに、思い出そうとしても思い出せなかった。
この日からあやつに対する嫌悪が更に増し、憎しみしかなかった。

だけども私はまだあやつの家にいた。

とにかく私は荒れた。
泣きながら何度もあやつを口汚く罵った。
泣きながら何度も、別れてくれ頼むからとお願いした。

本当はずっと分かってた。
あやつの了承なんか取らず、さっさと出て行けばいいのだ。

でも私にはお金がない。それならば実家に帰るしかない。
実家には親がいる。でも親に合わせる顔がない。
こんな娘でごめんって。散々心配とか迷惑とかかけてごめんって。
中絶なんかしてしまう娘でごめんって。
そんな思いから、私は帰れなかった。

手術してしばらくして、何がきっかけかは覚えていないけれど、普段メールしかしない母と電話した。
母は「泣きたいだけ泣きなさい」と言った。
家族の前でだけは泣かないと決めていたのに、電話越しの母の前で私は声をあげて泣いた。

それでも私は帰れなかった。
でもどうしても別れたかった。

どんなに泣いて別れ話をしても、あやつはのーこちゃんが大好きだから別れたくないと言う。
あの時あんたがちゃんと避妊してくれていればこんなことにならなかったんだと、何度もぶつけた。

それでも何の悪気もなく、まるで何が起こったのか分からないとでも言うような顔で、「だってのーこちゃんが許したから」と言い放った。

言葉が出なかった。

確かに妊娠したのは私の体で、父親になるという実感がすぐには湧かないのだろう。
そして中絶も私から申し出て、責任は全て私が負うとも言った。
それくらい重い決断だったからだ。

なのに。
こんなやつが父親になって良いわけがないじゃないか。

元々あった希死念慮が更に強くなり、私は毎日死ぬことばかり考えた。
「癌になって死ねばいいのに」と毎日願った。

お酒にも逃げた。
瓶の梅酒を一気に飲んで、寝ながら吐いたこともある。

アパートの2階のベランダで、ここから飛び降りても死にはしないなと思った。
駅のホームに立つ度に、今この瞬間飛び降りれたら死ねるなと足を進めようとも思った。

でも、そしたら中絶をした意味がなくなることも分かっていた。
私が今死んだら、それこそ何もかもが無駄になると。

だから何とか踏みとどまった。

そんな私に、一匹の野良猫が懐いてきた。
耳の一部がカットされていて、恐らく避妊手術を受けている地域猫なのだろう。
可愛い雌猫だった。

駅からあやつの家まで通り道に差し掛かると、必ずニャーと鳴いて擦り寄ってきた。
可愛いから撫でた。
すると家まで着いてくるようになった。

しかしアパートはペット禁止だったので、何とか家には入れないようにした。

そんな日が続き、深夜寝ようとしている時。
玄関のドアノブがガチャン!ガチャン!と音を出して動き出した。

私とあやつはその音に驚き、不審者か?となった。
ひとまず様子を見ることに。

ガチャン!と鳴るのが止み、ホッとしたのも束の間、またガチャン!と鳴る。

その不自然な間隔に、これは人間じゃないと思った。
ずっと家まで着いてきた野良猫が、玄関のドアの開け方を見て覚えて真似していたのだ。
小さい体でジャンプして、ドアノブを下に引っ張るように。

そう気づいた私は玄関を開けた。
やはり予想した通り、懐いてきた野良猫だった。
頭良すぎでしょ。

私は観念した。
あやつの家だがそんなのどうだっていい。
家の中に招き入れ、猫の食料なんか用意もしてなかったのでとりあえず水を飲ませた。

そして野良猫と一緒に朝を迎えた。

朝になると野良猫は外に出て行った。
しかし、またドアノブをガチャン!とし、家に入れろとの合図をする。

また家に招き入れる。
私は念のため猫の餌を買っていたので食べさせた。

そんな日々が続き、私のお腹の上で喉を鳴らせ甘えながら眠りに就く野良猫を見て、この子は神様の使いだと思った。

それほどまでに私の心が救われていた。
希死念慮がゼロになった訳ではないが、確実に薄れていた。

この子が幸せならそれでいいと思った。

だけども、あやつに対する憎しみは消えるわけではない。
別れ話はずっと続けた。一年以上かけて。

そして2012年5月頃、ようやくあやつは別れ話を受け入れてくれた。

ただそうなると、もはや家族みたいな存在になったその野良猫とはお別れしないといけない。
あやつは地方の実家に帰り、私はもちろん東京の実家へ。
私の実家には長いこと一緒にいる愛猫がいるので、その野良猫はあやつが引き取って地方の実家に連れて行くことに。

こうやって書くと私はまた誰かに対して甘々なのかもしれないが、あやつが野良猫を可愛がっていたのは確かなので、引き取ってもらうことに不安はなかった。

そして私はまた、捨てるんだなと。
あれだけ懐いてきてくれて、私を救ってくれたのに。
我が子のように思ったはずのに。

なのでやっぱり私は自分を許すことができない。
自分の子供を産みたいなんて望めない。

こうやってあやつとの別れの準備を進ませている間、全く別の問題も進行中であった。

2012年の多分3月とかそれくらいに、私は自分の左胸にしこりがあることに気づいていた。

ツルツルとしていて硬い、ピンポン玉のようなものが左胸に埋まっていた。
ネットでこのしこりについて調べた。
当時23歳。若いと良性の可能性が高い。
悪性の腫瘍は形が凸凹しているのが特徴らしい。
乳ガンの特徴とは殆ど当てはまらなかったが、唯一癒着している点だけは合致していた。
懸念しながらも、まだ23歳だしと。
そう思って一度見逃すことになる。

しかし数ヶ月経ってしこりを触ると、少し大きくなっているような気がした。

私は実家に帰る準備を進めながら、街の乳腺科でちゃんと検査を受けることにした。

2012年6月。
私はあやつ以外にしこりがあることは話さず、病院にてマンモグラフィやエコー、触診や組織診を行った。
諸々の検査を受けるまでは先生も和やかな空気を出していたのだが、触診の辺りから険しい顔つきに変わった。
なので若干の予感はしていた。

検査結果は一週間後。
それまでの間に家族と会う機会もあったけれど、検査を受けたことは話さなかった。
良性だったら心配いらないことだし、これ以上心配をかけるのも気が引けた。

ただ、まぁね。
いざ結果が出たら、案の定悪性で。
結果を聞く為に診察室に入った空気の重さで察した。
検査してくれた先生は「まだ若いから信じたくないんだけれど」と、非常に言いにくそうであった。
そして先生は知り合いの大学病院の先生に、私がすぐに診てもらえるようにその場で電話して予約を取ってくれた。
この先生に乳ガンを見つけてもらってよかったと心から思った。
「穏やかなタイプだから大丈夫」と優しい言葉をかけてくれた。

まぁ、うん。
色々とね。色々よ。
色々ありすぎて逆に現実感がないというか。

ずっと癌になって死にたいと思ってたら本当に癌になった。
こんなことってあるんだなぁって、呑気にそんなことを思った。

私はどれだけ親に心配をかけさせればいいのだ。
とても伝えにくかったが、伝えないことにはどうにもならない。

直接口で伝えるのが怖くて、母にメールで「胸にしこりを見つけて検査したら乳ガンだった」と、こんな大切なことを簡単に報告した。

するとすぐに折り返しの電話が。
その電話の向こうで、母が「何であんたが」と言っていたのは覚えている。





本当はもっと先に進んでから区切りをつけたいのですが、ここまででだいぶ長いこと書いたので続きは次回にします。

中絶については、簡単にどこかで書いたこともありますが、ここまでちゃんと書くのは初めてです。
読んでくださった方は様々な思いがあるでしょう。

私は美談にするつもりもないですが、このことを胸に刻んでこれからも生きていきます。
私が生きていくことが唯一できる償いだと思うので。

長々と読んでくださってありがとうございました。
それではまた次回。


生きる糧にさせていただきます。サポートのおかげでご飯が美味しい。