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【自伝(6)】拗らせのーこの半生(2012年7月・23歳〜2012年8月・24歳)

前回は実家の引っ越しやら今の彼氏・Dさんとの出会いやら書き、入院するところで終わりました。
その続きになるのでここからは乳ガンの話が多くなると思います。
乳ガンの話も以前のnoteアカウントやブログにも書いてきてるんですよね。
なので、以前は書いていなかったようなことも新たに書きながら進めていきます。(惚気が多くなりそうで中々筆が進まなかった)





2012年7月。当時23歳。
引っ越し後の現・実家にて、入院までの暇な時間を某マイナーSNSアプリに費やしていた。
そこで出会ったDさんとはメッセージのやり取りが絶えなかった。

私の乳ガンのこと、メンタルのことなど色々話した。
Dさんもまた、以前の彼女が自ら命を絶ったことなどを話してくれた。

そんなDさんは私を一生懸命励ましてくれた。
絶対に大丈夫だと。手術も上手くいくと。

何の根拠もなく大丈夫だと言ってくれるDさんに、この人凄いなと尊敬の念を抱きつつあった。

そして7月下旬。
私の乳ガン手術のために入院開始。
この辺のことは過去にブログに書いたものがバックアップとして残っているので、それをピッて貼っちゃいます。



引越しも落ち着き、7月26日。
翌日27日に手術する為に入院開始。

手術は左胸温存手術。
リンパ節に転移が無いか手術中に調べ、転移が無ければ五日ほどで退院、あればもう少し長く入院するというプラン。

このリンパ節の転移の有無を調べる検査をセンチネルリンパ節生検と言うのですが、私は上手く説明出来ないので、分かりやすく説明されているページのリンクを後で貼っておきます。

手術前日の26日は特にすることもなく。
担当の可愛い看護師さんが、「私、のーこさんと誕生日同じなんですよ」なんて話してくれたりして和んだ。

人生で何回か入院・手術の経験がある私は、手術前日に必ずやることがある。

顔の産毛処理だ。
何となく綺麗にしておこうという儀式的なものでもある。

大部屋でカーテンを閉め、全顔にベビーローションを塗りたくっていたところに担当の看護師さんが登場。
「また後で来ますね!」と慌てて去って行った。これまた可愛いなと和んだ。

夕飯をいただき、20時か21時から絶飲絶食。
後は寝るだけなので問題無し。

そんなこんなで迎えた手術当日。

手術を受ける前にまず、先ほど書いたセンチネルリンパ節生検の為の処置を受けた。
詳しい説明はこちらをお読み下さい。

ベッドに左側を上にして横になり、私の左胸のしこり付近に色素を注射してもらった。
注射後しばらくはしこりの辺りをほぐすか何かしなければならないのだが、当の私はと言うと全く動いてはいけない状態。
確か30分くらいかな?ただジッとしなければならない。
処置してくれたのが若めの男性技師さんだったのだが、その技師さんがコットン越しに私の左胸をほぐしてくれたので、何とも言えない空気が流れた。
とても良い経験でした。

センチネルリンパ節生検の処置が終わり、後は手術を受けるのみ。
過去に何度か同じ大学病院で手術を受けているのだが、その時と様子が変わっていたのがとても印象的であった。

私が高校生の頃は、ストレッチャーだったり歩きだったりで手術室に移動し、結構すぐに手術開始という感じだったはず。
でも乳ガンの手術の時は、歩きで手術室へ移動。

そして手術が始まるまでの間は、待合室みたいなところにソファーや雑誌が置いてあり、ゆっくりくつろぎながらお待ち下さいという感じになっていた。
「こんなに変わったんだー」なんて呑気に周りをキョロキョロ。

実は高校生の時に初めて手術を受ける際に、怖さのあまりに泣いていたのだ。
そんな私の手を看護師さんが優しく握ってくれたのは嬉しかったな。
泣いてしまったのは多分、ストレッチャーとかで移動となると手術のことしか考えられず、変に不安とか緊張とかが募ってしまったからだ。

でもこうやって歩いて移動し、のんびりと待つことが出来ると、変に手術を意識しないで済むので怖さを感じずに済む。
まぁ慣れもあるけど。

そんなこんなで手術開始。
全身麻酔を点滴される時はいつも「絶対起きててやる!」と抵抗するが、秒で意識が無に。

手術が終わり全身麻酔が切れると、主治医の先生が「のーこちゃん、どう?」と聞いてきてくれた。
私が「大丈夫です」と答えると、「意識はっきりしてるわねー」と先生の返事。

そしてリンパ節に転移は無かったとのこと。
良かった、安心した。

乳ガンの手術は、私が過去に受けた手術に比べ比較的楽に感じた(これはあくまでのーこの経験に基づいた主観です)。

過去の手術は全身麻酔が切れてもとにかく怠い、それに加えて尿道カテーテルが必要であった。

もうね、この尿道カテーテルが嫌すぎて嫌すぎて。不快アンド不快アンド不快。
あと麻酔が切れた後に酸素のチューブを抜かれる時の不快感もね。これは喉もやられるのでね。

でもこの乳ガンの手術は、麻酔が切れた後に一人でトイレに行けるほど意識がハッキリしていたので、尿道カテーテルが不要だった。
その時の喜びと言ったら。
「よっしゃぁ!!」と心の中でガッツポーズした。

とは言え絶対安静なので、病室に戻り酸素マスクをしながらただただ静かに過ごす。

でもかなり元気。その証拠の当時の自撮り写真。



でもこの日はね。今でもよく覚えているんだ。

私が手術後安静にしていると、夕飯の時間がやってきた。
看護師さんが「今日は土用の丑の日だからウナギですよー」と言いながら配膳していた。

ウナギだとっ?!

私は手術後なので食べられない。
酸素マスクの隙間から入り込んでくる、美味しそうな香ばしい匂い。

前日から絶食と言うこともあり、お腹が空いて仕方がない。

ウナギ食べたい。ウナギ…。

なんと言うタイミングで手術を受けたのだ。
これはもう仕方ない。

みんなウナギ食べて元気になって早く退院しやがれっ!!

そう思いながら夜を過ごした。

(追記・そして確かこの時、Dさんに無事に手術が終わったとメッセージを送っていた。
昨日から何も食べられなくてお腹が空いたこと、よりによってその日の夕飯がウナギなことなども。
するとDさんは、じゃあ俺も食べるの我慢する!と言い、好きな歌舞伎揚を食べずに我慢したそうな。
お付き合いが始まってから後々、あの時本当に我慢したんだよと言ってくれた。)

話は戻り、手術翌日。先生が病室に来てくれた。
「元気そうだから明日には退院できるわねー」と。
実際に翌日退院しました。
めっちゃ元気だったな、本当に。

手術が終わり私の腫瘍の病理検査の結果が出たので、母と詳しい説明を聞くことに。

腫瘍の大きさは約2.7cm。
パソコンに私のしこりの写真が写し出される。
手術を何度か経験しているので実物を見せられたりするのだが何とまぁ、衝撃的なことよ。

リンパ節に転移無し。
進行状況はステージIIAであると診断。
そして粘液ガンという特殊なタイプであることも知らされる。

粘液ガンはその名の通り、ガン細胞が粘液の中にうようよ漂っている感じらしい。
比較的予後が良好とされているが、抗ガン剤が効きにくいともされている。

そして私の乳ガンは、女性ホルモン感受性のあるタイプ(ルミナルA型)とも診断された。

このタイプは、女性ホルモンと女性ホルモン受容体が結合する際にガン細胞が発生してしまう。
なので、ホルモン治療という女性ホルモンの分泌をストップさせる治療が有効とされている。

まず、リュープリンという注射で女性ホルモンの分泌をストップさせる。
最初は一ヶ月効果が持続するものを注射し、大丈夫そうなら三ヶ月効果が持続するものに変更。
最後の方は半年効果が持続するものになった。

それでも僅かに発生してしまうかもしれない女性ホルモンと女性ホルモン受容体の結合を防ぐ為の飲み薬を、毎日一回服用。

このホルモン治療を五年間受けなければならない。
特に私みたいに若い人は尚更キチンと受けるべきと説明された。

五年間。五年間。

長っ!!

もうそれしか無かった。

長っ!!

私ちゃんと最後まで受けられるのかな?
薬飲み忘れそうだわ。
途中で嫌になって辞めちゃわないかしらと色んな不安が過った。

そして女性ホルモンの分泌をストップさせることにより、更年期障害が起きるとの説明も。
私は20代で女性ホルモンの分泌が活発だったので、急激に止めるから症状はキツいかもしれないとも言われた。

そしてもしかしたら、そのまま閉経する可能性もあると。
つまり子供を望めないかもしれないと。
子宮ガンのリスクも上がるとも説明してもらい。

色々大変だなぁって。
ガンになって何が辛いかって、色んな幸せな可能性が潰されることなんだよな。
それを身をもって知った。

でもね、生きる為に私は治療を受けるしかないのでね。
腹を括り、五年間のホルモン治療の始まり始まり。

ホルモン治療中のことや放射線治療についてはまた次回以降に書きます。

この頃は、ガンの本当の辛さを身をもって知りました。
将来の幸せな可能性が潰されると、「私何のために治療頑張ってるんだっけ?」という疑問が泉のように湧いてきます。

何のために生きようとしているのか。
こんな辛い思いしてまで治療を頑張る必要があるのか。
ずっと悩んでいました。

この辺りのことも次回以降もっと詳しく書こうかなと。

でもね、安心して下さい。
のーこは今元気です。

治療も終わり、女性ホルモンも無事に戻ってきました。



ここまでブログのコピペです。
途中のDさん歌舞伎揚我慢は書き足しました。
ここからは退院後のことを書いていきます。


手術が終わり退院。
センチネルリンパ節生検のために左脇を切ったので、左腕をあまり動かせずにいた。重いものを持ったりもできなかったので、まぁ不便不便。
現・実家にはまだ私一人で住んでいたため、お米とか2Lの飲み物とかの買い出しも自分で。
右手で全て持つのはしんどい。
しかも夏真っ盛り。汗だくになりながらヒーヒー言っていた。

そして8月上旬。
ひっそりと24歳の誕生日を迎える。
友達との交流がなくなってから特に祝われることもなくなったので、この時も家で一人で誕生日だなーって思いながら過ごしていた。

Dさんには多分誕生日であることを伝えていたので、おめでとうのメッセージを貰った記憶がある。
もう記憶があやふやだけど。
私の誕生花が向日葵なので、向日葵のイラストを送ってくれたような。

この時に知ったことは、人にはいくつか誕生花があるということ。
私は向日葵とエリカという花が誕生花である。

そしてなんと誕生日が違うDさんも、エリカが誕生花であると。
ちょっと運命感じちゃうよね。

これは最近知ったのだけど、私にはもう一つ誕生花があって。
ムラサキツユクサなのだが、この花言葉が「尊敬しているが恋愛ではない」。
最近のDさんに対する気持ちを代弁していて笑った。

話を戻そう。
手術後には放射線治療を受けることになっていたのだが、これは9月に入ってからだった。
8月はホルモン治療が開始した月だったと思う。
もう詳しい日付覚えていません。すみません。
多分8月だったと思うので、ホルモン治療について少し書いていこう。

病院にてリュープリンという皮下注射を腹部に打ってもらう。
最初は一ヶ月効果が持続するものを打ち、問題がなければ三ヶ月持続するもの。
治療の終盤には半年持続するものに変わっていった。(ブログのコピペにも全く同じこと書いてるのにまた書いてる自分の脳みそが心配)

このリュープリン注射はアレルギーなどなく、特に問題はなかった。

だが、毎日一錠五年間欠かさず飲まなければいけないノルバデックスという薬に問題発生。
アレルギーが出てしまった。
口周りや手などが赤く腫れ、痒い痒い!となった。

食べ物のアレルギーはなく、薬は特定の抗生物質で吐き気を感じるなどはあるのだが、痒い痒い!ってなった薬は初めてであった。
そして今よりおバカだった私は、当時よく納豆を食べていたため、「もしかして大豆アレルギー発症したか?!」と斜め上なことを思った。

念のため乳腺科に電話してこんな症状が出ましたと伝えると、「それはノルバデックスのアレルギーね、お薬変えるからすぐに病院来てー」とN先生。

そりゃそうだ。

そしてすぐ病院に行き、閉経後の患者さんが使用するトレミフェンという薬に変更。
閉経前でも効果があるとのことで、こちらを五年間服用することになった。

8月はこの薬のアレルギーでちょっとメンタルも参った。
退院してすぐのことだったので、体調も万全とは言えず、食欲がかなり落ちていた。
野菜を適当に切ってシリコンスチーマーでレンチンしたものに塩胡椒をかけたものと、納豆くらいしか食べられなかった。
そこに薬のアレルギー発症で、この先五年間私頑張れるのか?と不安で仕方がなかった。

こんな感じで始まったホルモン治療。
確かホルモン治療始めてすぐは一回生理がきたような?
リュープリン注射は徐々に効果が出るものなので、すぐに閉経とはならなかった。
だが効果が出始めると、私はホルモン治療の辛さを思い知らされることになる。
この辺は次回以降の出来事になるかと。

そうそう、8月に入ればDさんとは長電話する仲にもなっていた。
夜中、私はベランダで生温い風にあたりながら、お互いのことを朝まで話した。
私がどんなふうに生きてきたか、Dさんがどんなふうに生きてきたか。
本当に朝まで。
この時にはお互いに特別な感情が芽生えていた。
惚気るの得意じゃないんすよね。色々あって今はそんなんでもないし。恥ずかしいやい。


乳ガン発覚してから手術を受け、初めは現実味が全くなかった「自分が癌である」という事実が、現実であることを思い知らされていく。

その過程で、私は自分の体と心がバラバラになりそうであった。

あんなに死にたがっていた私が、乳ガンになり生きたいと願うようになった。
そんな私の心とは裏腹に、体は死と直面している。

生きたいのに死ぬのが怖い。
死んでしまうかもしれない。だから生きるのも怖い。
ならいっそのこと、今生きるのを諦めたら恐怖がなくなるのでは?

こんな思いに囚われ、パニック発作を起こすようになった。
とにかく思考がバラバラで、冷静さがなくなる。

こうなってしまった時、ベランダでまだ会ってもいないDさんに電話で助けを求めたことがある。

死ぬのが怖い。でも体は死に向かってる。
頭と体がバラバラでどうすればいいか分からない。

それを聞いたDさんは、「絶対に大丈夫!」と言ってくれた。

「のーこちゃんは絶対に死なない。根拠はないけど俺はそう信じてる。のーこちゃんが下しか向けなくてどうにもならない時は、俺が上に引っ張るから」

この言葉を聞いた時、私はDさんが好きだと自覚したのだと思う。 

世の中に絶対なんかなく、責任感の強いお医者さんであるほど絶対という言葉は使わず。
そんな根拠のない重い言葉を、この人は使えてしまうんだなって。
それが無責任で凄いと思ってしまった。


この辺のことは今までどこにも書いてきてないから、まぁ恥ずかしい。
実際にこの言葉に救われたし、その後も救われてきているので、恋愛感情はなくともDさんのことは今も尊敬している。

私がスーパーネガティブモンスターであれば、Dさんはスーパーポジティブモンスターなのだ。

かと思えば、私がポジティブな部分は逆にDさんはネガティブであったりと、そんなところも意外とバランスが取れていたりする。
なので一生を共にするならこの人しかいないかなと思ったりもしている。
分からんけどね。

Dさんと実際に会うのはもうちょい先なので、その時にまた改めて色々書くのかと思うとむず痒い。

今回はこの辺にしておきます。
とりあえず、23歳最後と24歳最初はこんなふうに過ごしていたよと。
精神の振れ幅がもう酷かったです。ブレブレでした。
乳ガン治療が始まったので、しばらくはそれがメインになるかなと。
もちろんその間にも色々あったので、そのことも書きます。

それではまた次回。



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