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【自伝(5)】拗らせのーこの半生(2012年6月・23歳〜2012年7月)

前回から色んなことが同時に起きまして、どう書こうかとこれまた悩んでおります。
この時期はとにかく忙しかったです。
ごちゃごちゃっとしないように気をつけながら書いていきます。

そして前回の記事に書くのを忘れていたのでここで書いておきますが、あれだけ希死念慮を持っていたのに、自分がガンであると分かった瞬間に自然と「生きねば」と思いました。
人間としての生存本能がようやく目覚めたのだと思います。
もんのすごいショック療法ですが、死にたいと思いながら生きるよりも、死ぬのが怖いと思いながら生きていく方が何倍もマシです。






2012年6月。当時23歳。
左胸にしこりを見つけ検査を受けたところ、ガンであることが発覚。
当時付き合っていて一緒に住んでいたあやつとの別れの準備を進めている最中のことであった。
母に乳ガンであることをメールで報告し、一緒に大学病院へ行くことに。

私はまだあやつの家で荷物をまとめている段階で、その荷物を実家に送って帰るだけではあったのだけど。
実はその実家も引っ越しが決まっていて、私は実家に帰ったらすぐにその引っ越しにも取り組まなくてはいけなかった。

そこに私の乳ガンの発覚よ。
もうてんやわんやよ。
なのでこの辺も具体的に覚えてることは少ないです。なるべく詳細に書けるように善処します。

とにもかくにも、母と一緒に手術してもらう大学病院の乳腺科へ。
私の乳ガンを知った母といえば、ひとまず普通だったと思う。
内心は心配と不安でいっぱいだっただろうけども。

待合室で二人で待ち、名前を呼ばれて診察室へ。
私はこの時から今もずっとお世話になっている、女性の主治医・N先生と出会う。

もう9年ほど前のことだからどんなことを話したかは具体的に覚えていない。
ひとまず手術と入院は一ヶ月後に。
そんなのんびりで大丈夫なもんなんだなぁって思った。
そしてこの大学病院でも改めて検査を受けることになった。

そんなことを話していたところ、N先生は私に「大丈夫、私切るの上手いから」とキッパリ言い切った。
この瞬間に「あぁ、この先生なら信頼して任せて大丈夫だ」と自然に思えた。

私は自分の生い立ちであったり、過去にお付き合いした人からはまぁまぁ傷つけられることが多いのだが、出会う人に恵まれているなと思う瞬間も多々ある。
N先生との出会いもそのうちの一つだ。

それから入院するまで、とにかくバタバタと忙しかった。

まずは私があやつの家から旧・実家へ自分の荷物を送り、何故かそれなりに良い炊飯器(五合炊き)を譲ってもらった。
リアルにそれを背中に背負って電車に乗り、旧・実家へ帰った。実はまだその炊飯器が現・実家で現役だったりする。

そしてすぐに旧・実家で荷物をまとめ、まずは私一人で現・実家でしばらく過ごすことに。

というのも、実家には小学生の頃から飼っていた愛猫がいた。
それなりにお爺ちゃんで臆病な愛猫だったので、引っ越しはものすごいストレスになるだろうと。

なので、まずは私が現・実家でしばらく過ごし、私の匂いを少しは定着させようという計画。

この時は7月。かなり暑かった。
だが現・実家にはまだエアコンもテレビも何もなかった。
冷蔵庫やレンジ、布団など必要最低限なものしか揃えておらず、エアコンの設置はしばらくしてからであった。
それまではあらゆる窓を全開にして扇風機にガンガンに回し、どうにか乗り切った。
だが元々暑さに弱い私は若干熱中症で死にかけた。
母がガリガリくんを買ってきてくれてなかったら危なかったかもしれない。

そんなこんなで、現・実家で一人過ごす私。
実家の引っ越しを済ませてひと段落つき、落ち着いた頃にふとあることを思い出す。

そう言えばあやつ、一回も私の父親に挨拶してねえ。
やっと別れられた解放感で忘れてたけど。

普通、世間一般的に、常識的に考えて。
女性が妊娠した場合、その相手は絶対に女性のご両親に挨拶するべきである。
理由が理由であれば、殴られるのも覚悟の上で。

あやつは私の母ならそんなに怒られないと思い、会うことに抵抗はなかったのであろう。

しかし父となると話は別であった。
多分だけど、会っていたら父は一発殴ってたと思う。
それを怖がってか、私が何度私の父に挨拶してくれとお願いしても断られた。
父の方から「怒らないから来てくれ」と告げても、絶対に会わなかった。

中絶したお腹の子には、償いきれないほどに悪いことをした。

でもやっぱり、あやつが父親になること、そしてあやつと家庭を築くことを選ばなかったことが正しかったとしか思えない自分がいる。

でもやっと縁が切れたし。そこに関しては晴れた気持ちでいっぱいであった。
(厳密に言うとこの後もまたちょっとあるのだけど、それはその時にまた書きます。)

だけども、やっぱり考えるのは自分の乳ガンのこと。
自分がガンであると分かってから、私は初めて死を間近に感じた。

それまで何度も死にたいと思い、そのための行動までしてしまっていたはずなのに。
その時にはまだ、死ぬということがどういうことか分かっていなかった。

大抵の人は、自分の意思とは反して死んでいく。
生きたいと願いながら。
天寿を全うした老衰であれば、受け入れながら旅立てるのだろうけど。

生きねばと思ったし、生きたいと思い始めた。
それでも私はガンで死ぬかもしれない。
初めて死ぬのが怖いと思った。
何もない現・実家で一人、泣いて過ごした。

一通りやるべきことを片付けたら、入院まで暇になった。
2011年にスマホを持つようにった私は、家でスマホをいじったりして暇を潰していた。

その時によく使っていたSNSアプリがある。
知っている人いるのかな?って思うほど多分あまり有名ではない。
所謂出会い系とかマッチングアプリとも違い、Twitterに近い感覚で見知らぬ人とメッセージのやり取りができるアプリだ。

漫画とかで見たことがあると思う。瓶に手紙を詰め蓋をし、それを海に投げると見知らぬ遠い誰かに届く。そんなシーンを。
それをモチーフにしており、Twitterで呟くようなことを画面上の手紙に書く。
それを画面上の瓶に詰め、ポイっと投げる。
すると不特定多数のユーザーの元へ私の手紙が届くというものだ。
もちろん私の元にも沢山の手紙が届く。
その中から興味を持った手紙に対して返信をし、興味のない手紙はスルーすることができる。

名前も何も知らない人と気軽に話すには非常に良いアプリなのだ。
中には出会い目的の人もいるけどね。
そして私は今でもたまに使っている。

入院までの暇な時間、そのアプリで色んな人と話をしていた。
内容までは全く覚えてないけど。

ある時、私は家族に対する長文の愚痴を手紙に書いて投げた。
誰にも話せないけど誰かに話したくて。

そしてその手紙にも返信がきた。
その殆どが世間一般的な意見であった。
こんなこと言ってはとても失礼なのだけど、「そんなこと私も分かってるわい」って思ってしまい、それでも「ありがとうございます」なんて返していた。

そんな中、一通だけ違うなって人がいた。
実はその人が今の彼氏である。SNSで知り合って今でも付き合いが続いてるパターン。
彼氏の仮の名前どうしよう。同居人から取ってDさんにしよう。
実際に呼ぶ時も、未だに下の名前で◯◯さんと呼んでいる。
(※追記 2021年5月に別れました笑)

今でこそ恋愛感情が冷めたりと、まぁ悩みが尽きないDさんだが。
この時の私にはとても新鮮な存在であった。

私の家族に対する長文の愚痴に対し、DさんはDさんなりの考えを述べてくれた。
世間一般的な意見ではなく、私の愚痴をDさんの頭で考え、出した答えを返してくれたことがとても面白いなと思った。

それからDさんとアプリでのやり取りが続いた。
Dさんは私の前にお付き合いしていた彼女が自ら命を絶ったことなど教えてくれた。

そんなDさんと出会ったからこそ、私は生きることや死ぬことがそんな綺麗事でもなく、それでも大切にしなければいけないものだと。
諦めて投げ出してはいけないものだと思ったところもある。

そんなこんなで7月下旬。
エアコン設置も無事に終わり、現・実家が快適に過ごせるようになったところで私の入院・手術が始まる。




今回もまぁまぁ長くなりました。
そして同時期に色々あったので色々詰め込みました。
読みにくかったらすみません。

死ぬのが怖いと思えたことが、この時には大きかったことかなと思ってます。
生きねば、生きたいとやっと思えるようになって。
体は病気だけど、心は少し健康に近づけたかな?と。

ここからは主に乳ガンのことがメインになると思います。
長くなりますが、のんびりとお付き合いくださると幸いです。

それではまた次回。




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