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広告年鑑を読んで


『コマーシャル・デザインが芸術を凌駕するのは、それが本物ではなく、本物の予告である。と言うことにある』
好きな言葉の一つです。
この間、広告年鑑を30年分見る機会がありました。

芸術の写真は、キャッチコピーをつけられないでしょうけど、個人的にはコピーは好きなんです。
デザイン、写真、キャッチコピーが決まったポスターは感動すらします。
鋭いキャッチコピーなどはメモしてしまいます。
比較的最近のものですと、earth music&ecologyの一連のシリーズはすてきでした。
糸井重里さんがコピーというものを作ったと言われていますが、なぜあれがコピーなのかと言えば、別の次元から商品を示しているからといわれています。外部性がある。「あるある」ではなくて、「そういう事もあるのか」と示しているわけです。しかも押し付けがましさがなく。アウトサイダーとインサイダーの違いがあります。

キャッチコピーと写真、デザインまたはレイアウト。
広告は、最後に編集が行われることにより、内容と形式が一致し、プロセスが生まれます。プロセスというのは、発せられたメッセージが、受け手に届き、受け手が何かしらのポジティブな一歩を踏み出すということです。
デザインにしても技や知識を動員し、『どーだ』、『どーだ』とこちらに向かってくるような広告は”ニューノーマル”の時代には人をげんなりさせてしまうかもしれません。

こちらから入ってゆけるデザインと、向かってくるデザインがありますね。

絵画の世界でデザイン的といえば浮世絵もそうですが、琳派がありますね。
俵屋宗達の風神雷神図や尾形光琳の紅白梅図における大胆な配置やコントラスト、尾形光琳の燕子花図屏風におけるパターンの連続などはその代表でしょうか。
所感ですが、琳派は大衆の精神が衰える方向に向かうのではなく、それ以前の安土桃山時代の成金趣味を見て、構成し直した感がありますね。
琳派は、日本の情緒を幾何学で構成し直したらしいんですが、幾何学しかないとありがちなデザインになるのでしょうか。よく、デザイナーはどうしてこういう色を選んだか、どうしてこういう配置にしたかなど説明できなくてはならないのですが、琳派には説明し得ぬ部分が多い。
遊びがなくなると、意味のないものを排除したがる傾向を強めるきらいはあります。

designにおいて問題となるのは、効果だけだとしたらどうでしょう。
意味とか解釈は初めから問題にならないそうで、建築は機能だけがあればいい。問題は、建築家が機能を把握しきれないところにあるとも言われています。
designでも動画でも技術を知っていながら、技術に頼らないのがいいのかもしれません。
宗達が動画を作ったらどのようなものを作るのか。名刺を作ったらどのようなものを作るのか。
そういうことを考えてもいいかもしれません。


今はどうか知りませんが、かつての広告はこどもと動物を出して置けば間違いはないと言われていました。

それは、昔のように源氏物語や保元物語など、庶民でも知っているようなモチーフが消えてしまったからではないでしょうか。
今は、それが浦島太郎や金太郎などの童話になっているかもしれませんが。
かつて俵屋宗達などは町衆でも知っているような教養をモチーフにした扇絵を描いて好評を博しました。

シンプルなもの、さりげない物、さらっとしたものの方が生き残る気もします。
人と人とのつながりに新しい方法ができつつありますし。

まず消費者が望んでいるのは、自分のための物。自分のためのプレゼントであり、自分のための場所であり、自分のための時間。そして、なにより自分のための言葉。
ないものを或るものと思い込ませる最たるものが個人向けのエンターテイメント。
どこかにいそうでいない人物、思いつきそうで思いつかない、デザイン、コンテンツ。小説でも、広告でも、こういうものが受ける。最初から、思いつきそうにないものは、かえって受けない気がします。

広告は、日常的生活のシステムから、ちょっと外部に出て消費という新たな体験をして自分の生活へと帰還することの楽しい物語を、繰り返し再生しているのではないでしょうか


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