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【民俗学漫談】エンターテイメントのリヴァイヴァル

前回の民俗学漫談で、ファッションのリヴァイヴァルと言うところまで漫談しました。


エンターテイメントのリヴァイヴァル

で、服装という意味でのファッションがリヴァイヴァル、自分の過去を見るか、服の意味を乗り越えるか、もしくは民族衣装のように、よそから上面だけ引っ張ってくるか、そうなって、今もそれは続いているのですが、特にリヴァイヴァルについては、それがフィクション、エンターテイメントに移った気もします。

人々の行為のバリエーションが固定化されくる。

娯楽や職業の種類ばかりが増え、価値観の多様化などと言われながら、その実、価値観は一様化している。

情報が瞬時に手段ばかりが多様に、運ばれ、見せられるために、人々の価値観が同じようなものになってくる。

そのような状況がまずあります。

作り手は子供の時に漫画やアニメをよく見ていたから、大人にっても漫画やアニメに違和感がない。ゲームにしてもファミリーコンピュータが発売された以降の世代となるわけですから、画面の向こうの世界と自分のリアルをつなげられる感覚を持っている。

物語も新しいものは考えづらい。

そこで、過去のエンターテイメント作品、漫画などをリメイクしたり、実写化したりする。

ある程度の需要が見込まれますから。

一見、新しそうなものでも、どこかで読んだような話になっているものが少なくないですが、何かを作り上げるということはこの合わせ技が一つの要点ですから、単純なリメイクとはまた別の話です。

作品としてのリヴァイヴァルは、やがて、フィクションの世界を飛び出して、リアルの世界にも、飛び出すわけです。

なんというか、漫画でもゲームでもその他のジャンルの作品でもエンターテイメントが二次創作のようになっています。
それと似たようなもの、長期連載の漫画でもアニメでも、同人誌のノリというか、焼き直しにしかなっていない感があります。
多くのゲームもパターン化しているように見えます。
音楽も同じ、漫画も同じ。どこかで見たようなものばかり。

世代が変わるからそれで受けるのでしょうが、見る方も惰性で見ているのでしょうが、その手段を使うと、次第に質が下がっていくわけです.。
内容は真似するだけ。
後は進んだ技術や整ったデザイン、感情的な音楽で包んでしまえばいい。

漫画の実写化もそうですし、『コラボ』と称して、ゲーム性も薄いゲームに、世界観を無視してほかの漫画のキャラクターを登場させるようなこともありますが、つぎはぎのようなことをして、それでビジネスとして成り立たせてしまう。

ファッションなんて、すでに諦めているのか、普通の物ばかりになってしまった。

GUや島村の服を自由に着こなすことがセンスがあるといえるし、そもそもそれがファッションなんだと思います。

いつ頃かでしょうか、漫画のキャラクターが銅像になるようになったのは。

21世紀に入ってからでしょうね。人々がいかなる職業であっても、消費者としての自分を意識しながら生きるようになってからでしょう。

銅像は、そもそもその時代の人々が、その時代の人々に何か意志を示すか、後世に伝えたいがためにするものです。偉人と芸術ですね。

しかし、その時代に流行っているキャラクターを銅像に仕立てるのは、作り手の食い扶持であり、つまり宣伝であり、見る側にとっては、日常の消費であるわけですから。

渋谷にドラえもんの銅像が立ちましたね。

あの現象は何なんでしょうか。偉人でもなければ芸術でもない。いや、あれもポップアートということなんでしょうか。

それにしては、ドラえもんは過去、物語を持ちすぎなわけですよ。

批評としてはいくらでもできそうですが、作り手はそんなこと考えていないと思いますよ。単に広告や制作といった業界が金の持っていきどころがわからない、でも自分で使いたい、実績にしたいから、それなりに消費者の需要が見込まれるものを作り出したわけじゃないでしょうかね。

『人々の共通意識に大きな物語がなくなった』とかいわれていますが、私はそれについては別にくわしくはないのですが、それが正解である前提に立つならば、物語がなくなっても人々は物語を欲しがる欲望を持っているわけですか、それがドラえもんであったり、クレヨンしんちゃんであったりするのでしょうか。

映画版はパターンが同じですから。

そこまでしてどうして物語を欲しがるのか。やっぱり、共通の話題が欲しいわけですよ。特に上の世代が、下の世代との。

今の大人は、乖離に堪えられませんからね。

つながっていないと。

『なぞう』

まあ、ふつう、銅像は永久に残したいから建てるものですが、アニメのキャラクターの銅像は、との当時の感覚や政治の都合で偉業を伝えたいとか、芸術の永遠性と言うことで建てるとかそういうものではなく、地域振興の広告看板なんでしょう。

そこで、もはや広告看板と言う書割が、立体化して、しかも銅で作られる。

感覚としては永久に残そうとするはずの銅を以て、書割に過ぎない広告看板を作ってしまうという、大学生のサークルに無駄に金を与えたらこんなことをしそうですね。

伝統的なものに構わなくなる。行事や服装、更に物に対しても意味を求めず、その上面を取捨選択する。ただ、消費するためだけ、広告のために必要なところだけ持ってくる。ニュートラルというより無節操で。

それが20世紀だったわけですが、それさえ旧世紀に追いやる勢いですよ。

とうとう、素材、マテリアル自体の意味さえ剥ぎ取って、軽く扱えるようになったのですからね。

地火風水、エレメンタルの四元素も木を加えて東洋風に五元素でもいいんですが、もうエレメンタルの意味さえ考えなくなりそうですよ。

もうなっていますか。

鉄骨の上にただの飾りとして木を張り付けている建築もありますし。

木と金とか、相性が反発するでしょうよ。

五行相剋で。それだから、木はその特性、つまりは意味をはぎ取られ、上面のデザインとしてのみ、金属に張り付けられているんですかね。

そう思えば象徴的ですよ。意図はわかりませんが。

アニメの銅像を見た時の違和感は、広告看板と言う一時的に過ぎないものを銅像にしているからですよ。

逆ならアートになりますよ。

国家が示したがるような偉業を成し遂げた人物の像を発泡スチロールで作るとか。

家庭用プリンターでコピー用紙に出力した肖像を都心の一等地に掲げるとか。

もしくは国家的事業のセレモニーを学芸会のような書割で行うとか。

オリンピックの開会式も金だけかけて『学芸会』とか揶揄されるくらいなら、初めから、アートとして、異化効果を狙って、『これはフィクションですよ、あなたたちの日常とは重なりませんよ』とでもして、本当に高校の学芸会のようにした方が面白かったんじゃないでしょうか。

面白いだけかもしれませんが。

都市が書き割り化してくると、もう表面だけですよ。

機能も。

建築や看板だけじゃありません、町中の機器が書き割り化ですよ。

デジタルサイネージもそうですし、それこそ違和感があったのは、飲み物の自動販売機の全面がすべてタッチパネル式のモニターになっていまして、飲み物の画像が映っている。

あれ、電力的なものとか、液晶というかLEDをつくる資源的なものはどうなっているんでしょうかね。

前の自販機の構造の方がわかりやすいんですけど。

なんで、自動販売機で飲み物を買うのにエンターテイメントを感じなきゃいけないんでしょうか。

どこが製作しているんですかね。

これは服飾ではなく、デザインの話ですね。流行と言う意味ではファッションですが。

ところで、地方に行くと、謎の像が立って居ますよね。駅前とかに。

例えば宇都宮の餃子像とか。

餃子を縦にして、細い手足をつけて、なぜか火星の人面石のようなものが付着している石造です。

謎の像だけにこれを『なぞう』と名付けたいものです。

で、この『なぞう』ですが、全国各地にあるわけですが、地域振興のために、地域のシンボルをキャラクター化してそれを像にして駅前に建てるわけですよ。

このように広告看板として像を建てるという行為はいつごろから始まったのでしょうか。

つまり、恒久的に残したいはずの像を気軽に手軽に像にしてしまおうと言う感覚はいつごろからかと言うことです。

バブルの時代にあったか。あまり思い出せません。

もっと近く、21世紀になってからの気はします。

バブル経済の頃は、単に昔の感覚で金に任せて狂気が噴出していただけですから。

派手なだけで新しさがないから、今見れば、かっこよさがなかったわけです。

『なぞう』の歴史については、全国を旅しないとわかりません。

財力を持てたらやろうと思います。

『なぞう』の多くは、ゆるきゃらを像にしている気もしますが、次のものを見てください。

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サッカーボールですよ。

こちらは鹿島神宮駅から少し歩いたところにあります。

ゴム製の大量生産品までも、像にしてしまう。

フラットなんですよ。

後ろに見えている布袋様と同じレベルて作って、置いちゃうんですよ。

まあ、布袋様も富貴繁栄を求めて拝まれることが多いですから、このサッカーボールも同様の願いをかけられているのでしょうね。

サッカーといえばですが、京成線の四ツ木駅です。

駅というより、アニメ映画の上映中のようですよ。

駅を出たコンビニも。

30年以上前の漫画アニメで、駅を飾っていますが、これ、いつまでやるんでしょうか。


ただ、昔も、商売のために、流行の神様を神社に分祀するということはやっていました。江戸時代。

神社の中に、摂社や末社、主に末社と呼ばれますが、本殿と比較して小さな社でお祀りされている社がありますよね、特に稲荷社など多くあります。

ああいったものは、当時、稲荷神が流行して、例えば王子まで行かずともお参りできるという体で、祀られたものです。

簡単に言うと、流行に乗じて、より、参拝客を呼び込もうということですよ。

また、茶屋を並べてそこに妙齢の女子をウエイトレスにして、客を呼び寄せるなんてことをしていました。神社がですよ。

そうであれば、『なぞう』も一つの偶像として商売繁盛を願う人々によって建てられた現代の信仰の表れかもしれません。

やはり、信仰となれば、ポスターや動画、デジタルサイネージではなく、そこは、固い信仰心をあらわすべく像にしなくてはならなかったのでしょう。

ドラえもんの銅像も、黄金(こがね)色に光らせたらわかりやすかったと思いますよ。

半端に銅にするから、ここまで考察が長くなってしまいました。

いや、むしろ銅のような鈍い黄金(こがね)色の方がふさわしい気がします。

像はそこに確固としたものとして、ある何かを示しているわけです。

典型が十字架を持つ像ですよね。

または、ちまたにたつ道祖神もそうですよ。

ゆるキャラはキャラがゆるくでどうするんだ、立っていないと、ということで、みうらさんがつけたわけですが、『なぞう』についても像が謎でどうするんだ、ということです。

しかし、奇抜な発想で自分を表現することは時代にそぐわなくなってきたのかもしれない。
それが、テキストであれ、絵であれ、立体であれ、映像であれ。
選び抜かれた質素というか、人に、情況にぴたりとはまるもの、そういうものが求められているのかもしれない。
だぶん、皆、疲れているから。

アニメやゲームのリヴァイヴァルにしても、もしかして、作り手は恥ずかしいのかもしれない。
今更、奇抜な発想で作られたものが。
しかし、だからといって、ぴたりとくるものなど、ほとんどの人が作れないわけだから、過去の焼き直しをしているのかもしれなない。
それは、すでに、過去、一度受けていたものであれば、再び作っても、恥ずかしくはない物として、感じられるのではないでしょうか。

だから、ドラえもんでも、クレヨンしんちゃんでも、作者ではなく、別の脚本家が作ったものは、奇抜な発想ではなく、どこか上品で、ストーリーが似てしまうのかもしれません。

本来のドラえもん、本来のクレヨンしんちゃん、本来の天才バカボン、これらはある種のまともな頭では作られないでしょうから。

ほんの数年前まで、まさかAIが侵食する分野が単純作業でなくて、クリエイティブ分野だとは思いもよらなかったでしょう。

クリエイティブ分野こそリヴァイヴァルを繰り返しているんだから、AIが得意とするところなのかもしれない。

過程を共有することの大切さ

AIは、結果だけを手にするためには都合が良いですね。
寝ている間に働いてくれる小人さんみたいなものですよ。

多くの人が結果だけを望んでいます。
結果と言うのは、富と名声です。

AIで作られたものにないものは、過程ですね。
AIで仕事の結果ばかり求めていると、過程を人に示せなくなる。

過程を人に示せないということは、過程を共有できないということであり、意気投合をして、ともに仕事をすることが難しくなるということです。

仕事の醍醐味というものは、この意気投合するというとこにあります。
1人で仕事をしているかのような小説家にしても、編集者と意気投合をするわけですから。

1人で抱え込まないためとか、人を巻き込むためとか、より良いものを作るとか、自分が成長するためとか、そのような責任や利害の話ではありません。

意気投合して仕事をすることそのものが、仕事をする上での醍醐味なのですが、お金と名誉が過(よぎ)る間は、これが理解できないと思います。

これば憧れの職業に就くとか、尊敬している人と仕事をするとか、そういうたぐいの話でもありません。

結果を示し、受け手がそれを受け止めるのは、消費活動にすぎません。

絵でも小説でも音楽でも、すでにAIを用いて作られている。

AIで作ったものが果たして『作った』と言えるのか、という問題ではありません。
自分にとっての好きなことがわからないまま、ただ、商品として作り続ける、商人と同じ感覚で作るようになることでしょう。
そのうち、消費者にとっては、AIで作ったものでも、人間が一から作ったものでも、区別がつかなくなるでしょう。

なんなら、AIで作ったものの方が、読みやすい、見やすい、聞きやすいという評価になる時代になるでしょう。

今、縦書きの国語よりも横書きの文章の方が読みやすい人の方が多いらしいですから。

音楽なんてもう、区別がつかないんじゃないですか。

AIで作品を作る人と、一昔前の芸術家とは、実際に会ってみれば、言葉の選び方、生き方、雰囲気が違って感じられるでしょう。

手で文字を描いていた時代の小説や論文と、コンピューターで書かれるようになった時代のものが文体も雰囲気も言葉の選び方も違うように。

個人的なものであった芸術も、いよいよ商品でしかなくなるのかもしれません。

もうワープロで文章を書くことに文句をいう人も見なくなりました。

AIを用いて作品を作ることも、あと10年もすれば、何の違和感もなくなるのでしょうね。

デジタルアートの多くは、現実とつながりがありませんね。
主張はあるのかもしれませんが。
例えばプラネタリウムなんかにしても、星空とつながっているわけですよ。
でも、デジタルアートは何らかの一部分を切り取って幻想に仕立てているだけに見えます。
何かキラキラしたものを見せられているだけに見えます。

示された興味、示された好き

そうなるともう、何が自分にとっての好きなことなのか、好きな言葉なのか、センスなのか、曖昧になってくるのかもしれず、価値観の一様化どころではない、興味や趣味までも一様化してくる時代になるのかもしれません。

自分の興味も何が好きなのかも、スマートフォン片手に示されたコンテンツにどんどん引っ張られてしまう。

自分の好きなことがわからなくなる。
わからないまま、皆と同じ方向に進むしかなくなる。
自分の『好き』なのか、他人の『好き』なのかわからなくなる時代になるでしょう。

だからこそ、好きなことは手放してはいけない。

本物の「わたし」

皆、オリジナルになりたい。

誰でもない、自分になりたい。

だから、人とは違う趣味、服装、物を求める。仕事も。

でも、そこにあるのは、お金を出せば、誰でも買えるものばかり。

好きなアーティストのライブに行く。曲を買う。それもお金を出して得られる経験。テーマパークも、記念日のお祝い事も。なんでも、どこでも、お金を出して買う。お金を出して買う人の集まり。

お金で買えるものばかりで、飾り立てた、「わたし」とは、つきつめれば、変換可能なものでしかない。

変換可能な自分は堪らない。自分はオリジナル、自分が本物。

そう思いながら、ネットで、『自分らしいなにか』を求めて、誰かが陳列台に並べた『商品』としてのものを手にするしかない世界にいる。

持っているものもオリジナルがいい。
なぜ、オリジナルかといえば、それが『本物』だから。
ブランド品も『本物』だから、価値がある。
それが世界中で大量に同じものが工場で作られ、売られているものだとしても、ブランドなら『本物』となる。
ブランドの印が押してあれば、いくら大量に作られたとしても『本物』になる。
しかし、それはオリジナルなのかな。
オートクチュールではない、いくら手作業であっても、大量に作られて世界中で流通しているものに変わりはないのに。

オートクチュールでさえ、オリジナルのデザインをコピーしたものを売っていましたから。
それはオリジナルのコピーなのか。本物のコピーとは一体何でしょうか。

『本物』、『オリジナル』はどこにあるのでしょうか。

漫画みたいな話ですね。

クリエイターもオリジナルを求めます。

オリジナルだから価値があると、クライアントは思い込んでいますからね。

それを踏まえ、コピーがモードを作るということ、『本物』信仰、つまりはブランド信仰が、新しいものをつくる土壌にはなりえないことを知りながら、仕事に精を出す。

あまりにクリエイティブなものに名声を与えてしまった結果、いくらでも再生産可能である広告(デザインや写真を含む)やモード、デジタルで流通しているエンターテイメントの自由をしばりつけているのではないでしょうか。

オリジナルというものが幻想であれば、確固たる「わたし」も幻想にすぎない。

活躍するには、もっと気楽に世界にあるものを、扱うことです。人さえも。

尊敬や崇拝や憧れは芸術は作れましょうが、今の世界で当たり前となっている再生産可能なものを流通させるには、それらは妨げとなるわけです。

『ルールを気にしない者ほど活躍をする』などといわれることもあります。

ルールを気にしないということは、場に対する、尊敬も崇拝も憧れも、したがって、遠慮もはにかみもないからです。

私は、優しい人が活躍できる世界を望みますよ。

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