見出し画像

通訳1年目

こんにちは。

通訳1年目を終えて、「今」の気持ちや想いを形にしようと思い、パソコンに向かっています。

将来、スポーツ業界やJリーグクラブで働きたい、通訳として働きたいという人への参考にもなればと思います。

画像2

まずは通訳になった経緯について。

20代はサッカーをすべての判断の軸にして生活していました。異国の地で実際に目で見て体験してきたスポーツ/サッカー文化を日本に還元したい。その中で、30代では一度サッカーの世界から離れて、ビジネス面で実力をつけてからサッカー界へ戻ってきたいと考えていました。なので、2017年年末の時点では年明けに本帰国は決まっていたものの、いわゆる一般企業の選考途中で、まったくサッカー業界で働くことは考えていませんでした。

そんな状況の時に徳島ヴォルティスから通訳としての話をいただき、数日悩んだ末に引き受けることを決めました。どうして自分の進路を変えてまで通訳になったのか。それはトップチームのスタッフだったからです。トップチームで働くチャンスというのはそうそう巡ってくるものではありません。プロ選手になるのと同様に、0→1にする過程が一番難しい職種だと思っています。その証拠に「どうやって通訳の話をもらったの?」と一番聞かれます。この"現場"での経験は将来に必ず活きるのではないかと思い、引き受けることにしました。

そこからは怒涛に日々で。高知キャンプ初日に合流し、あっという間の1年でした。


通訳と聞いてみなさんが想像するのは、選手同士や監督/コーチの間に入り、通訳をしている姿だと思います。ただそれはほんの一部で、仕事は多岐にわたります。練習や試合での通訳はもちろん、インタビューの通訳、生活や家族のサポート、送迎、英文レポートの翻訳、住居の管理、ビザや運転免許の管理、支払いの管理などのサポート業務もたくさんあります。オフの日でもリハビリやケアがあったら行きますし、チーム練習の後にリハビリがあれば、それにももちろん付き添います。

と、真面目に書き出してみましたが、僕自身が大事にしていたのは、きちんとコミュニケーションを取ること。彼らからしたら自分が発した言葉が相手に伝わるかどうかは通訳次第。彼らとしっかりコミュニケーションを取り、彼らの考えや価値観を知ることはとても大事な作業でした。通訳でもあり友人でもある、そんな不思議な関係です。仕事では選手同士やスタッフとの間でバランスを取ることもあります。どちらの意見も聞くので、どちらの意見も分かる。そのうえで最適解をアシストしなければいけない。うまくできたとは言えませんが、この1年に関してはなんとかバランスを取れていたのではないかと思います。

また、彼らは助っ人として日本に来ています。その立場の難しさや責任は、レベルは違いますがフィリピンでの経験があるので少しは分かるつもりです。「俺だったらどうして欲しかったかな」と思い出すことも多々ありました。周囲からの期待は高く、反面、厳しい目も向けられる。その立場のプレッシャーは経験しないと分からない。それに海外で生き抜くためには強くいなければいけません。強がるときだってたくさんあるはず。海外で生活する、しかも日本という独特の文化を持つ国で生活することは、想像以上にストレスがかかる場面もあります。家族がそばにいれば弱音も吐けると思いますが、友人として、そのはけ口になることも意識していました。

とはいえ、僕自身にもモチベーションの波はありましたし、「何回同じ話しとっとや!」と思ったことも多々あったので、そこは反省しなくてはいけなかったと思います。まだまだ器が小さいです。

そういえばコミュニケーションを取る例としては、チーム練習が始まる前に軽く会話する。笑顔で挨拶をして、握手をし、昨夜の出来事とか体調を聞く。バカ話をする。ささいなことですが、こういうのを大事にしていました。

あとは独身か既婚かで関わり具合も変わってきますし、自分の時間がどれだけできるかも変わってきます。運転免許も持っているかいないかでもかなり変わります。家族がいる選手は家に帰ったら家族と過ごすので、割と自分の時間も作れます。オフの日も同様ですね。独身の選手とはご飯に行ったり、遊び相手になってあげたりすることが増えます。チャキとはよくFIFAを一緒にしていましたし、自主練に付き合ったり、落ち込んでいる時はでかけたりしていました。ヨルディの家族が帰国中にはヨルディともそういう時間が多々ありました。TwitterやInstagramで彼がよく出てくるときは家族が一時帰国中で、寂しがり屋な彼と遊んでいた時のはずです。笑

いい意味で手のかかる選手たちでもありましたが、僕は選手たちに恵まれたと思います。彼らには僕の至らない点をたくさん助けてもらいました。2人の天使の誕生に携わることもできました (産婦人科にもばっちり同行しているので、自分の時も安心です笑)。人間的にも素晴らしい3人で、友人としてこれからも付き合っていきたいと思える選手たちでした。まぁヨルディのウザ絡みも、今となってはいい思い出です。苦笑 (京都で元気にしてるかな笑)

そして、これだけは言いたい。3人ともチームのために全力で戦っていました、と。勝負の世界です。試合に出られる、出られないは常につきまといます。覚悟も悩みも聞いていました。毎日、現実と向き合い、最大限の努力をしていました。そんな彼らの通訳として働くことができたこと、心の底から誇りに思います。そこに試合に出ていた出ていなかったかは関係ないです。

徳島ヴォルティスには熱くて優しいサポーターがいました。選手だけでなく、スタッフにもとても優しく、たくさんの差し入れもいただきました。本当に徳島ヴォルティスが大好きで、愛してやまないのだろうな、といつも感じていました。そういうチームがある徳島という土地はとても幸せだと思いますし、その輪の中に入れたことも誇りに思っています。得点したらすぐ前に飛び出しちゃう、そして叫んじゃう通訳でしたが。笑

他にはSNSで積極的に発信もしました。通訳という選手とスタッフの間にいる立ち位置だからこそ見える景色があり、特に外国人選手を知ってもらうために発信していました。その上で彼らには日本を好きになって欲しいですし、徳島を好きになって欲しくて、いろんなところにも連れ出しました。野球観戦もしたし、ビーチに行ったり、山に行ったり。最後にザビが「いつかこの街を娘に見せに帰ってくるよ」と言ってくれたときは泣きそうでした。ヨルディと阿波踊りに行ったのも楽しかったなぁ。チャキにはなかなかFIFAで勝てなかったなぁ。サッカー選手の前にひとりの人として、徳島の生活を楽しんでくれて嬉しかったです。

あとは僕自身が徳島を満喫しました。サーフィンも始めましたし、剣山にも数回行きましたし、つるぎ山荘のお父さんお母さんもとても優しかったです。1日でしまなみ海道100km超えを自慢のロードバイクで爆走しておしりが1週間痛かったこと、高知でイルカウォッチングしたこともいい思い出です。歴代スタッフの中で1番プライベートを充実させた自信もあります。笑 本当に徳島が大好きになりました。食べ物もおいしい!

また、サッカーを愛してやまない人たちでクラブは成り立っているということも学びました。選手たちは毎日厳しい戦いを続けていました。コーチ陣は遅くまで次の試合の準備をし、スタッフも選手のために汗をかいていました。フロントスタッフもそうだし、育成やアカデミーコーチ、全員でこのクラブを成り立たっているんだな、と。限られたリソースの中で身を粉にして働いている姿を間近で見られたことも財産になりました。尊敬できる人たちばかりでした。

まだ1年しか通訳として働いていませんが、とてもやりがいのある仕事です。大好きなサッカーの現場で働けて、スタジアムの中からサポーターの熱さを体感したら、それだけで心が奮い立つ。勝った時のスタジアムのうねりと興奮はすべてを忘れさせ、それまでの努力が報われる。サッカーにはそんなパワーがある。そんな最高の仕事に出会うことができて、本当に幸せな1年でした。

まだまだ僕の人生の挑戦は続きます。これからも応援よろしくお願いします。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

画像3

画像4

画像4

Nos Vemos
Chihiro


[1/12追記] 

2020年はジュビロ磐田で働くことになりました。J2優勝/J1復帰に向けて、全力でサポートしたいと思います。

また、徳島ヴォルティスに携われたこと、育ててもらったこと、素晴らしい経験をできたことに感謝を忘れず、変わらず熱く頑張りたいと思います。本当にありがとうございました。







カナダでのサッカーやスポーツビジネスについての勉強代として大切に使わせていただきます。よろしければ、こちらからサポートをお願いします。