背徳感の読書

本を読むのは好きだが、長い間読む体力がない。そう考える人も多いだろう。僕も例にもれない。

 図書館に行くと読みたい本、読むべき本が無数に広がり、自分の人生すべてを賭しても読み切れないという非情な現実を目の当たりにする。貸出数限界まで本を借り、家の机に積み上げ悦に入る。まだ読みかけの本があったことを思い出し、借りた本は後回しにしてその本を自分の前に置く。そこで体が冷え切っていることに気づき、コーヒーを沸かす。読書に適した音楽を探してスマートフォンを触る。5分ばかり探し、とりあえずの妥協点を見つけると、友人から明日の予定の確認の連絡が来ていることに気づく。とはいえその連絡はわずか2分前にされたものだ。すぐ返信すると、自分がずっとスマホばかり触っていると思われそうで僕は時間稼ぎをしようとTwitterを開く…。

 気がついたら小一時間経過している。コーヒーは飲まずに再び常温に。連絡は未だせず。栞だけ取ってうつ伏せにした文庫本は昨日読んだページで硬直している。そこからが読書の始まりだ。僕は冷え切ったコーヒーを顰め面で流し込み、文庫本を開く。

 Twitterの短文で毒された僕は、経済史の文章が頭に入らない。淀みなく綴られた文章は僕の頭の中を音も立てずに通り過ぎていく。心地よい調べに甘えた僕は、内容をただの一つも捉えることができない。それを反省した僕は文章と格闘しようと決意する。しかしその決意虚しく僕は開始2分でノックアウトされる。疲弊しきった僕は再びTwitterを開く。気がつけば音楽は流れていない。アルバムはとうにクライマックスを過ぎ、終局を迎えていた。積み上げた本は、心なしか埃が溜まっているように見える。僕は残りのコーヒーを一気に流し込む。

 これは困った。僕には読みたい本がたくさん、いや無数にある。一生かけても読み切れないという事実を悲しんでいる。それでいて僕は本が読めない。

 昔受験勉強に精を出していた頃、僕は村上春樹のエッセイをよく読んでいた。短くて平易な文章。それでいてユーモラスで独特な視点が心地よい。僕は数学の問題に行き詰まったら本棚から村上ラヂオを引っ張り出したものだ。気がついたら一冊読み切っていた。受験勉強は進んでいない。僕はこのままじゃいけないという背徳感を感じながら本を読んでいた。受験は失敗した。

 その時、僕は異様に集中していた。娯楽のための読書。本を読みすぎてはいけないという緊張感。僕にはこの感覚が欠如していたのではないか。何かやらなければならないことを設定して、それに疲れたときに本を読む。そのことで読書の喜びは大きく開くのではないか。昔の人はよく本を読んでいたという。小説は娯楽として、遠ざけられるべきと考えられていたという。背徳感の読書こそ、読書の喜びである。

生きるために使う