「女だから」は波打ち際の砂の表情のように消えていくのか

西武・そごうの元旦広告が話題になっているようだ。

パイ投げのパイを顔面にぶつけられた後であろう女性のイメージに3つのコピーが重なる。女性の右の余白には大きな文字で縦書きの、「女の時代、なんていらない?」(①)そして左下にはそれより小さな文字で、以下の文言(②)。

「女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久にこなくていいと私たちは思う。

時代の中心に、男も女もない。
私は、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。」

そしてこの下に、再び大きな文字で、「わたしは、私。」のコピー(③)という構成になっている。配置から見て、3つのコピーは、①→②→③の順で読まれることが想定されていると思われる。それぞれの機能は、①:テーマの提示、問いかけ/②:①で提示されたテーマの掘り下げ/③:結論、ということになるだろう。そしてそのメッセージを僕なりに解釈すれば、この広告によって伝えられるべき事柄とは、「「女」としてでなく、性別以前に個としての「私」として活躍できるような時代であるべきだ」といったものだろう。パイ投げのイメージは、十把一絡げに「女」というカテゴリの下にアイデンティティを抑圧してしまう社会の暴力性のメタファーと解釈できる。白い皿と飛び散ったパイの破片で隠された女性の顔、何かを言いかけてそこで止まったような半開きになった口は、「女」という括りで一色に塗りつぶされる女性たちの声を代弁しているものに見える。

初めに言っておくと僕も、イメージを含めたこの広告が果たしていいのかというと微妙じゃないかと思ってる。上に述べたような取り方ができるとはいえ、いかんせんそうしたメッセージが読み取られるにはかなり好意的な読解が必要であることは否めない。自分の解釈が正しいとして、塗りつぶすことのメタファーがパイ投げである必要があったのかまず謎だし、パイ投げから社会の暴力性を読み取ってくださいっていうのもなかなかハードル高いと思う。ツイッターの反応など見ていると、炎上マーケティング、話題作りといった声も多いようだ。実際このイメージはショッキングで、女性の顔にパイを投げつけるのが不快だ、というコメントに多くの反応が集まっていることからも、炎上狙いでわざわざこのイメージをぶつけたのかもしれない。まあ、こうして話題になったからこそ、僕もこうやって書いているわけだし。この不快という点も自分の共感する点で、女性のエンパワメントというメッセージを伝える広告に、女性が虐げられているイメージを用いるのが適切だと思わないし、不快感を煽るようなイメージで話題づくりを狙っているんだったらそれもさもしいと思う。

ただ、特に②で言われるようなこの広告のメッセージ自体は面白いと思ってる。というのも、自分がフェミニズムについて調べてみた中で感じた、フェミニズムという考え方が持つ広がりが表れていると感じたからだ。

女性だから点数を下げるとか給与が低くなるとか、制度上で男性優位に扱うことが悪であるということは、現代社会においてほぼコンセンサスになっていると思う。このことに関しては自分は異論も、特に意見も持ち合わせていなくて、素直にそうした理念が実践されていき、平等に向かっていけばいいと思っている。ただこういう意味でのフェミニズムっていうのは、当事者でない自分にとってはやっぱりどこまでも対岸の火事っていうか、意義深いことだとは思えど、自らのものとして引き受けるには荷が重い気がしてる。自罰的になる程コンシャスじゃないと言われれば、その通りなんだと思うけど。

そもそもはっきり言って、フェミニズムっていう言葉に、なんとなく胡散臭いイメージがあるみたいなのもあったりして。そう言った中で、昨年盛り上がりを見せたmetoo運動などによって男女平等、ダイヴァーシティ、インクルーシヴネスといった言葉が持て囃される世の中になった、あるいはなっていくという漠然とした気分があって、どこか乗りきれないような感覚を抱いている人は少なからずいるのではないか。それは例えば自分が男だからそう感じるということだけではないだろうと思う。これから更にどのような制度を作れば、平等は実現されるのか。女だからいい、悪いといった言葉を積み重ねていけば、よりフラットな時代が開けてくるのか。そこに男は関係がないのか。そもそも、平等とはなんなのだろう。僕としては西武・そごうの元旦広告はそういった時代の気分に応答したものではないかという気がしていて、そしてその問題提起は本質的なものを含むと思っている(再度、顔面パイの写真がいいのかは措くとして)。

調べてみるとわかるのが、フェミニズムという思想の変遷は非常に複雑だが、それが絶えざる自己反省と変化の産物であるという点で一貫しているということだ。上に挙げたような問いは、その始まりから現代に至るまでの変遷の中で、既に何度も問われてきた。このテキストは、平等という単純なようで一筋縄ではいかない問いに、フェミニズムがどういった答えを出してきたかを確認するために書かれた。その中で、元旦広告のメッセージがフェミニズムの問いをどのようにトレースしているかが明らかになっていくだろう。広告が時代の空気を表すものであるなら、提起された問題の先にどのような地平が開けているのかを確認することで、フェミニズムの出してきた答えがこれからの時代を生きる指針になることは十分にありうるはずだ。

第一波フェミニズム

一般に、フェミニズムの歴史を遡るとき、18世紀末にその起源を位置付けることができるとされている(*1)。1789年、バスティーユ襲撃からフランス革命へという流れの中でいわゆる『人権宣言』が採択され、全ての人に等しく人として生きる権利が存するという考え方、つまり基本的人権のアイデアが国家の基本的な要素として考えられ始める。しかし全ての人と言っても、ここで権利を享受できるのは男性に限定されていた。当時はルソーが『エミール』で描いたような、女性の存在意義を妻であり、母であることに求めるような価値観が依然として支配的だったので、労働や政治といった領域での女性の貢献は不必要とみなされていたということらしい。こうした考え方は当然女性からの反発も招き、例えばフランスではオランプ・ド・グージュは1791年に『女権宣言』(*2)を書き、女性の権利の保証を主張している。ただ、グージュのような例があったにせよ、女性をめぐる状況はすぐに変化したわけではなく、19-20世紀を通じて、政治的領域における制度上の不平等を是正するための運動が展開される。この運動の総体を第一波フェミニズムという。

第二波フェミニズム〜リベラルフェミニズム:平等とは何か

当然第一波というのは二波以降が存在したからそう言われているわけで、フェミニズムは1960年代に質的変化を経験する(ここで制度上の権利闘争としてのフェミニズムが終わったというわけではなく、新たな潮流が出てきたのだと理解されたい)。長きに渡る闘争の結果、特に欧米諸国において、20世紀前半には参政権や財産権に関する男女平等はかなりの程度実現されていた。しかし第二次大戦後に至って、より広い領域において男女の格差を是正していこうという動きが起こってくる。

第二波フェミニズムの中には、大きくリベラル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムの3つの流れがあるようだ。リベラル・フェミニズムというのは、基本的には第一波フェミニズムの問題意識を踏襲していて、政治、教育、経済の領域で男女同権を目指していく運動である。現代社会においても女性だからテストの点数を下げてるみたいなことが起こってしまうわけで、制度上の平等を求めていく考え方は今でも必要性を失っていない。

だがここで今更だが、なぜ男女平等を求めなければならないのだろうか。リベラル・フェミニズムの根底にあるのは、男女に質的な差はないとする考え方である。つまり、両者に質的に差がないので同様の権利と機会を与えるべきである、というロジックになっている。この点についても、ある程度社会通念として受け容れられているのではないかと思われる。女性と男性を差別するのは良くない。従って、男女平等は漸進的に実現され、女性に開かれた領域がどんどんと拡大していってしかるべきである、となんとなく思われている。だが、男女に本質的に差が全くないというのはやはりどこか言い過ぎのような気もする。医学部の得点操作問題も、それが悪であることは明らかではあるにせよ、医師の労働状況を反映していると言われるとどこか納得してしまうところがある…。女性が妊娠、出産が可能な性であるという生物学的な事実は厳として存在するわけで、男女に差はないというのはやはり無理があるのではないか。では、女性はやはり男性と同様に社会に出て活躍することは難しい、というふうにせざるをえないのか。

こういった考え方は、乱暴に言えば、女性が社会で活躍しづらいのは、女性の側の問題のせいだ、というふうにまとめられるだろう。しかしこの状況を、社会の側のエラーだと考えることはできないだろうか。第一波〜リベラルフェミニズムは、社会を所与のものとして、その中で女性の活躍を考えるものであったといえる。だがそもそも、社会が女性を抑圧するようにできているとしたらどうだろう。こうした問いかけを行なったのが、マルクス主義フェミニズムおよびラディカル・フェミニズムであった。

マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム

マルクスは、労働が価値を生み出す、というところから資本主義の分析を行った。当たり前すぎて逆にわかりにくいかもしれないが、平たく言えば、働くことは、お金に換算されるような価値を生み出しているということである。労働者は、自分の労働力(労働によって価値を生み出す力)を資本家に買ってもらう。この時、労働によって生み出される価値は、常に支払われる賃金を上回る(上回らなければ、資本家は労働力を購入する意味がない)。この構造によって生み出される余りの部分、つまり剰余価値が、資本家の儲けとなるわけだ。これを労働者の側から見れば、労働によって生み出される価値を資本家に搾取されているという事になる。ここで、労働を行う主体は多くの場合男性であった(あるいは、ある)。ではマルクスのこのモデルにおいて、女性の立場はどこにあるのだろう。マルクス主義フェミニストたちは、従来考慮されていなかったこの点を厳しく突いていく。マルクスが言うような男性による労働力商品の供給は、家庭の維持(家事)および再生産(出産、育児)を前提にしている。そしてこの維持と再生産の役割は、伝統的に女性が受け持ってきた。従って、男性の労働力の源泉には常に既に女性の家事(「家事労働」)が存在していたということになる。階級社会は構造的に搾取を生み出すが、そうして搾取された労働者のストレスは家庭に反映される。従って女性は言わば、資本主義において、二重に搾取されているということになるわけだ。このような労働の形態が前提となっている社会においては、家庭以外の領域を制度上男女平等にしたところで、両者の立場における平等は実現されないだろう。

マルクス主義フェミニズムが男女の不平等の源泉を資本主義および階級社会に見たとすれば、ラディカル・フェミニズムが攻撃するのは「家父長制」である。家父長制とは、家庭内において男性である家父長に権利が集中する構造をいう。フェミニストたちはこの言葉に新たな広がりを与え、男性による女性の抑圧を可能にする、社会に組み込まれた権力構造という意味合いで用いた。ラディカル・フェミニストたちにとって、男性が女性を抑圧し、搾取するという構造は社会の中に常に既に書き込まれている。社会は権力者である男性によって作られてきたため、例えば女性の労働を拡大したところで、女性は従来の家事、育児という労働に加え別の労働を行わなければならず、二重の重荷を背負わなければならなくなるに過ぎない。ラディカル・フェミニズムの有名なスローガンに、「個人的なことは政治的である」というものがある。第一波フェミニストやリベラル・フェミニストたちは、公的領域、つまり政治あるいは経済の分野において平等が実現されることを目標にしてきたわけだが、ラディカル・フェミニズムは従来等閑視されてきた個人的な領域に切り込む。この運動が明らかにしたのは、愛や性をはじめとする私的領域に、既に男性優位の権力構造が隠されているということである。したがって、家庭や私的領域も議論の俎上に上がらなければならない。例えばドメスティック・ヴァイオレンスは家父長制を継続するために男性によって行使される暴力行為であるし、ポルノグラフィは家父長的で女性搾取的な社会通念を強化するように働く。こうして家父長的な社会規範が伝達され再生産されていく中で、性や愛という関係自体、男性への従属関係があらかじめ書き込まれたものとしてしか現れえないのである。

その他いくつかのヴァリエーション

マルクス主義フェミニズムやラディカル・フェミニズムは、男女間の格差の源泉を社会の構造それ自体に求める。ここにおいてフェミニズムは、公的領域における女性の権利拡大のみに関係する思想ではもはやなくなり、男女含めた、認識の根底からの変化を迫るものになったと言える。そして、こうした革命的な見方は様々な分野に波及していく。フェミニズムという幹から連なるその枝葉の全てを網羅することはとてもできないが、いくつかの重要な帰結を紹介しておこう。

例えば科学の分野において、「より強い客観性」という考え方が出てくる。この「強い」という言葉は、よりニュートラルな、というくらいの意味で理解されたい。科学は客観性を旨としてきたわけで、その中でより強い客観性というものがありうるのだろうか。受精という生物学的現象を例に取ろう。とある調査の結果、従来の記述ではそのほとんどが、精子が卵子の細胞壁を破り受精に至る、という書き方がされていたという。この記述は、「自然と」精子を主体/主語にしていて、言うなれば精子目線で語っているわけだ。しかし、卵子が精子によって細胞壁を破られる、というふうに、卵子の目線で書くこともまた同様に可能なはずだ。どちらが良いというのではなく、自然に精子目線で書いてしまうというそのことに、社会におけるバイアスが反映されているということは自覚されるべきだろう。より強い客観性とは、こういった検討のプロセスにより獲得されるものである。

こうしたバイアスは科学の分野だけでなく、知の他の分野にも見られる。リュス・イリガライは次のように言っている。「女性が社会的に抱える困難は、女性が、「男性的」な、女性の自分自身に対する、ほかの女性に対する関係を損ねてしまうような表象のシステムの助けを借りなければ言語にアクセスできないという事実によって、強められ、複雑化している」。例えば女性が女性について「アカデミックに」語ろうとするとき、この「アカデミック」というシステムに既に家父長制が書き込まれているなら、女性は自らを男性化することでしか女性について語れないということになる。

このように、家父長制の名残を社会から根絶するのは非常に困難であるため、ラディカル・フェミニストの中には、女性オンリーの、ヒエラルキーのない(ヒエラルキーは家父長的である)社会を作ることで、男性からの暴力が存在せず女性が考え、行動し、創造することができると主張する者も存在する。男性に関係すること自体を拒むこういった思想を、レズビアン・フェミニズムというようだ(*3)。

女の時代、なんていらない?

以上、このテキストでは、18世紀末からフェミニズムの展開を追ってきた。僕の能力の問題もあり非常に簡単かつ図式的にまとめたに過ぎないが、フェミニズムが男女の平等という一見単純な問題を非常に深く考えてきたことがわかると思う。第二波のフェミニストたちは前世紀の後半、女性の権利拡大という運動の中で従来保存されてきた「女性」という概念自体を問い直し、そこに常に既に不平等の源泉が書き込まれていないかを調査することを始めた。言うまでもなく我々は彼女たちあるいは彼らの仕事以降の時代に生きているのであり、フェミニストたちの理論的達成はある程度人口に膾炙しているのだろう。だがそれはおそらく十分とは言い難い。西武・そごうのコピーは言う。

女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。

今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久にこなくていいと私たちは思う。

時代の中心に、男も女もない。
私は、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。

「女だから」強要され、無視され、減点される事実があるとき、対症療法を逐次試していくようなやり方しかなされない今、「女の時代」の到来に異議を挟みたくなる気持ちはよくわかる。「今年はいよいよ、時代が変わる」と言うが、求められているのは漸進的な変化ではなくて、もっと抜本的な変化なのだ。そして、あまりに楽観的に「女の時代」だ、「活躍だ、進出だ」と勝手に盛り上がってしまうような態度、言説がまかり通っているとき、本当にそれが信頼に値するのかを問い始めることには改めて意義があると思う。そうした生きづらさや、祭り上げる態度の下に、女性を対象化し、抑圧してしまうような権力構造が隠されていないだろうか。もしそうであれば、男と女という関係そのものを一度改めて捉え直すことが必要になってくるだろう。まあ広告が言うように、疑わしい「女の時代」の代わりにジェンダーから自由になった「わたしは、私」式の楽観的個人主義を置く、というのが果たして有効かは疑問だし、ちょっとナイーブに過ぎる気がするけど、一歩が踏み出そうとされていることはいいことなんじゃないかっていう気がしてる(*4)。再々度、パイの写真が効果的とは思わないけど。


1 フェミニズムの歴史はなかなか複雑で、自分が目にしたものの中で出来うる限り最大公約数的な概括を作ろうと心がけたが、荷が勝っている感は否めなかったので、間違いがあれば指摘していただけるとありがたいです。インターネットで読めるものの中では、特にこのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/frroots/20180211/1518307385)が非常に面白くかつ分かりやすく、情報量も豊富で参考になった(論理展開とかはモロに影響されてるというかほとんど踏襲している…)。英語だとこれ(https://revisesociology.com/2016/07/11/liberal-radical-marxist-feminist-perspectives-society-sociology/)がまとまっていてわかりやすかった。

2 『人権宣言』の「人」の部分、homme(フランス語のhommeは英語のmanと同様「男/人」を表す)を「女」femmeに変えてもじっている。アネクドートとして、後に断頭台で処刑されることになるグージュであるが、翌週に発行されたプロパガンダ紙には彼女が「女性の持つ性の適性を忘れた」という罪状が載ったという(https://www.marianne.net/culture/olympe-de-gouges-une-femme-contre-la-terreur)。

3 ラディカル・フェミニズム、レズビアン・フェミニズムの議論は興味深いので少しフォローしておきたい。この(http://diglib.bis.uni-oldenburg.de/pub/unireden/ur97/kap1.pdf)テキストの記述を借りると、ラディカル・フェミニズムにとって、ほとんどの男性には、レイプや殺人を含む女性に対する暴力が内在している。そしてそういったミソジニー(女性嫌悪)は、女性を性の対象として扱うマスメディアや、肉の塊として扱うポルノグラフィによって保存され強化される。さらに、ロマンティックな愛という観念自体が、こうした暴力を内包しているのである。家父長制は、暴力とレイプの恐怖によって、女性をコントロールしようとする。男女の性的関係は常に既にこうした家父長的な権力関係の下にあるため、ほとんどあらゆるセックスは男性から女性に対するレイプとしてしかあらわれない。レズビアン・フェミニズムはこうした見方のいわば論理的帰結である。あらゆる男女関係に暴力関係が内在しており、かつ女性が男性よりも愛情深く、相互理解に開かれている性ならば、どうして男性に拘う必要があろう、というわけだ。女性のみのコミュニティは、単なる異性関係の裏返しではない。それは社会に根深く書き込まれた家父長制からの解放の試みなのである。

ラディカル・フェミニズムのこういった側面にはいくつか批判もあるようだ。一つは、女性(および男性)は一枚岩ではないというもので、フェミニズムの中でも「敵と寝る」異性愛者や、クラスやエスニシティの面でマイノリティである人たちがないがしろにされているという批判である。次に、女性のみのコミュニティという発想そのものが男女の家父長的な関係を前提としており、その意味で現状を保存するものであるという、いわば理論的な面での批判。次に、特にレズビアン・フェミニズムに対して、それが同性愛と直接のつながりはないものであるため、不当に呼称を簒奪しているという、セクシュアル・マイノリティからの批判。この中でも、一つ目の批判はわかりやすいというか、男性はこうで、女性はこう、みたいな図式というのは、結局『エミール』のやり方を女性の中の、更にマジョリティを中心に裏返したみたいなもんじゃないの、という気はしてしまう。見てきたように、ラディカル・フェミニズムは男女が同じであるということを前提しないから、こうした帰結が出てくるのは必然ということなんだろうと思うんだけど。

ついでに、自分はこのテキストを書くにあたって、あえてこういう問題含みに見える点を飛ばして構成したというところがある。それは僕の嗜好というよりもいわば戦略的な選択で、というのも、フェミニズムというなんとなく敬遠されがちな領域へのイントロダクションとなればいいというモチベーションでこれを書いたところがあるからだ。ただやはり、フェミニズムを「知的に面白いもの」として消費していいかという問題は大きい。調べていく中で、フェミニズムとは女性の権利拡大を目指す学問、という文言を目にした。フェミニズムは真理の追求である以上に、女性の、女性による、女性のための試みなのである。女性の男性に対する闘争という側面をフェミニズムは本質的に内包する。だから、ここでしてきたように、理論的な面のみを図式的に取り上げて喜ぶみたいなことは、フェミニズムの闘争の面を捨象し、男性化して無力化しているという批判は当然ありうると思う。そしてそういう批判に対して、自分にはっきり反論できる核みたいなのがあるかと言われれば、ない。自分のスタンスとしては、まあ知らないよりは知っておいたほうが、男性にとっても女性にとってもいいんじゃないか、という感じです。この点に関しては、メリットよりも、歪んで伝わることの害悪の方が大きいという見方も当然あるだろうけど、自分には自分がいま正しいと思うことしか正しいと思えないので。別様に考えられるよ、ということがあれば、ぜひ教えてもらえたら嬉しいです。

4 「わたしは、私」というコピー自体は以前から継続して使われているようで、広告のゴールはあらかじめ決まっていて、そこにジェンダーの問題をなんとなく絡めてみました、ということなのかもしれない。

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