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【CEOの頭の中 vol.1】新卒・総合商社から起業へ。とにかく心を揺さぶることをやってみた。

少年のようなキラキラした眼、眩しい笑顔が印象的でありながら、とにかく明るい安村さんのように、とにかく明るくまっすぐな性格をもつ男。
その名も藤田雄也、弊社のCEO(チーフ エンターテイメント お父さん)です!

冬のライトアップイベントでこの10年ほどオーバーツーリズムという大きな課題を抱えていた岐阜県白川郷(正式には白川村)で課題解決を行い、仕組化したことで、ふるさと名品オブ・ザ・イヤーの地方創生大賞を受賞したNOFATEのCEO(チーフ エンターテイメント お父さん:2回目、しつこい)である藤田は、起業前は大手総合商社である伊藤忠商事に勤めていました。退職後、世界放浪、起業、そして現在のNOFATEに全身全霊を注ぐまでの物語をじっくり掘り下げていきます。

藤田雄也 / ふじた ゆうやNOFATE株式会社の代表取締役。前職は伊藤忠商事・金属カンパニー配属にて、アジア15社の顧客開拓、中東ドバイと取引担当、2年間の中国上海駐在を含め、海外事業に長期にわたり携わっていました。自他ともに認めるエンターテイナーで、1秒1秒を情熱的に生きる男です。一人ひとりにしっかり向き合う優しさと誠実さで、我らの人生相談役!

渋谷スクランブル交差点にて動画作成。YouTuberと間違えられました。

とにかく"実践、実行" 野球とゼミに打ち込む大学生活

ー まずは藤田さんについて教えていただけますか。

遊びと学びを混ぜこぜにしている人間です。
あっ、しっかり説明します。新卒で総合商社の伊藤忠商事というところに入社し7年間勤めました。退職してからは、同じタイミングで外資系証券会社を退職した、大学同期であり親友の松場慎吾と地方の体験事業をプロデュースする旅ジョブという会社を設立しました。様々な事業を行う途中、会社の課題や目的が明確になったこともあり、NOFATE(のふぁて)という社名に変更して現在に至ります。

ー そんな藤田さんは大学生の時はどんな活動していたのでしょうか?

部活の野球80%・ゼミ18%・授業2%の比率で活動していました。こりゃ、大学から怒られますかねw
大学では体育会系の硬式野球部に入部しました。高校から野球を始めた自分にとって、高校3年間だけでは物足りず、まだまだ伸び代があると思って大学で野球を続けていくことを決めていました。

高校では監督の指示通りに動くことが多かったけど、大学では監督の権限はそこまでなく、チームメンバーで得手不得手を日々議論しながら、戦略・戦術を立てていくんですよね。甲子園出場メンバー擁する強豪私立大には到底個人の力量では勝りませんでしたが、チームで力を合わせて、強豪校を倒していくことは楽しかったですね。
春秋にリーグ戦があって、毎日自分たちで練習メニューを考え、上も下も関係なくメンバーで切磋琢磨し、強豪チームに勝った時の喜びや感動は今でも鮮明に覚えてます。まさにアオハル(青春)でしたね!

さすが80%を占めるだけあって野球の話だけですね!18%のゼミは何をしていたんですか?

講義や授業も興味関心あるものもありましたが、ゼミ活動に夢中になってました。双方向で色々な議論を行うことができるゼミは楽しかったです。
2年生の7月から国際人事管理論・比較経営論のゼミに入りました。
そのゼミでは「机上の理論だけでなく、現場の実践を大切にする」というコンセプトで、月に一度の企業訪問・企業研究/プレゼン作成・発表をしていました。

企業訪問は、メーカーが中心。メーカーは現場を通して失敗・成功要因や仕組みづくりが見えやすい。コンサルや商社ではなく、メーカーの工場見学を何度もしていました。さらに、現場見学・プレゼンなどの後には、実際に企業で働いている方と懇談会を設けていただき、「働くとは何か」とか「なぜ働くのか」について、学生の早い段階から聞けたことは大きかったですね!今でも当時の皆様には非常に感謝しています!

「自分の得意技で世界を相手に勝負する!」という先生のコンセプトだったからこそ、ゼミ生のレベルが高かった気がします。

ファーストキャリアに選んだのは、「かっこよさ」と「幅の広さ」を兼ね備えた商社マン

会社イベントの相撲大会で並いる巨漢(0.1t級)を破り、優勝!!

ー 総合商社をファーストキャリアに選んだ理由はなんでしょうか。

2つの切り口がありますね!「かっこよさ」と「幅の広さ」。

1つ目のかっこよさは、純粋に仕事を仕事としてというより、壁みたいなものを楽しんでいること。
他にも、子供や若い世代に話す時に「親父のやってることかっこええな」と思える仕事かどうかということ。
野球をしてきましたが、プロに届くほど実力はないな、と大学2年生くらいで悟りました。周りのレベルが高かったのである意味すっぱりと諦めがつきました。
その時に漠然と、自分にとって働くときの"かっこいい"ってなんだろうと考えていると、商社パーソンが出てきた。商社って普段生活している中でほとんど知られてないし、目立ちはしないけど、本質的で生活に欠かせない仕事をしているなと感じたんですよね。

2つ目は「様々な業務に携われる幅広さ」ということです。
商社の業務ってめちゃくちゃ幅広い。いまだに説明難しい。新入社員で入社しても同期みんな違うことしとる!

色んな業態の人とお会いする中で、商社の人って、グローバルに法務や現地の文化の理解、経理・財務や営業・マーケティングを幅広くこなせる人が多いなとで思ったんですよ。
その時にこういった人みたいになりたいと思ったのを覚えてますね。
今から考えると生意気ですが、若手のうちからキャリアや成長を重視してくれて、多くのことに挑戦させてもらえる、裁量権を与えてくれる会社で、「何か」をやってみたかったですね!何でもよかった。

実際OB・OG訪問や人事の方々と話をしていると、ほとんどの企業が40-50歳台で裁量権を持てるようになります!みたいな感じだたので、そういう意味で若手のうちから何ができるのかという点に着目して、就職活動はしていましたね。

起業、体験市場への挑戦、インバウンド需要の変化

唯一無二のここにしかない体験事業のプロデュース

ー 伊藤忠での経験は、その後の人生にどう繋がったのでしょうか。

伊藤忠での7年間は非常に濃く、たくさんの経験をさせてもらいました。
子会社出向・海外・本社と前線で日々試行錯誤しながら楽しんでましたね。会社での出来事はここでは割愛しますが、自分にとってはとても良い会社でした。

ただ、伊藤忠で働く中で、自分は大企業にずっといる人間ではないなと思ったんです(笑)。そもそも幼少期から敷かれたレールに沿って生きてきた人間ではなかったので。
むしろ外れまくってました。

大学の同期の松場と会社を始めたのは、本当に偶然同じタイミングでやめたからです(笑)。松場は大学時代からずっと飛騨でゲストハウス/バーをして地域活性化したいと考えていて、東日本大震災がきっかけで自分自身のキャリアを考え直したタイミングで外資系証券会社を辞めたんですよね。すごいですよね、そのキャリアを手放すのって。

僕自身は特に『これ』といったやりたい“何か”が決まっていた訳ではなかったんですよね。伊藤忠という大きな組織の中で人々の暮らしに貢献するのも素晴らしいですし、行ってきた仕事にも誇りを持っていました。

ただ、自分としては、“世の中にある困っているコトやヒトに注力していきたい”という気持ちがずっとあったんですね。中学校の時まで結構やんちゃなガキんちょでしたが、ある日母親に連れて行かれたマザー・テレサの展示会に行って衝撃が走りましたね。「あー、世の中にはこんな世界もあるのか。自分が今まで見てきた世界は何だっただろう」と。それからマザー・テレサや貧困に関する本や記事を読み漁って、将来は尊敬する彼女のような仕事をしていきたいなーということを考えていました。

いつもどこかに彼女の言葉が心の中に残っていました。
簡単に彼女が遺した名言を引用します。

この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。

所有すればするほど、とらわれてしまうのです。より少なく所有すれば、より自由でいられます。

日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります。

大切なのは、どれだけ多くをほどこしたかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。

自分の中では、総合商社で働いてみて、それなりに会社組織や社会というものが分かった気はしましたが(つもり違い、若気の至りです)、とりあえず会社を離れてみたんです。あ、でも転職することは考えていなかったですね。転職するんだったら伊藤忠でよかったので!
一度サラリーマンを辞めたら、どうな世界が見えるんだろうって。気になっちゃいました笑

ー 会社設立段階は、どのような感じだったのでしょうか。

松場も私もお互い社会人として7年間ガッツリ働いてきた分、退職してからはいきなりやることがなくなって暇な時間を過ごしてました。さてこれからどうしようか、と。
平日の昼間からビールを飲みながら、将来について様々なことを話してましたね。それまでお互いの仕事の話をそこまで深くはしたことはなかったけど、色んな価値観が見つかりましたね。お互いに、国内の様々な地域や海外などを見てきた中で、地域を盛り上げることに着目してみました。20,30個アイデアをブレストしてスモールスタートで動き始めてみました。

そこで気づいたのが、ニーズに対して、”コト体験”が地域には足りてないんじゃないかって。
その頃インバウンドが増えてきていたけど、宿泊、飲食、有名スポットの観光だけに留まっていることが多いことに気づきました。
地域へ観光するお客様に対して、一体どんな価値を付与できているのか正直わからなかったんですよね。地域産業では、その”体験”市場は確立されていないから、インバウンドに向けた体験コンテンツを作るという方向性で事業をしようと思いました。そこでは今あるものを外国人に見せるのではなく、地域に根付く伝統産業を知ってもらう機会を作ろうとしました。例えば、京都の京友禅や漆塗りを体験として外国人に提供し、その体験の中で職人さんとの会話やコミュニケーションなどのタッチポイントを増やすようなことができるんじゃないかと!

もちろん、失敗も沢山ありました。
外国人の前に、まずは日本人向けにサービスを確立しようと、日本人から始めてしまったんですよね。1年くらい日本人向けに進めてはいたけど、どうもうまくいきませんでした。それは自分たちが地元の観光地になかなか行かない、お金を払わないのと同じように、近くにいればいるほど”体験”にはお金かけないということに後から気づいたんですよね。

当時旅行において交通費・宿泊費・食費が大きく、体験の割合は全体の2%のみです。伸びてもその市場って10%くらいかなと思っていたから、資金調達などは考えていなかったです。それより、一つ一つのコンテンツを充実させ、お客様に体験をしてもらって、実績を作っていくことを重視していました。同業他社には、仕事旅行やvoyaginなどがありました。

稼ぐことを考えるのは後

旅ジョブ時代のSakeテイスティング

体験コンテンツって思っている以上に儲からないんです(笑)。
ある時、香港の旅行EXPOに出向いて15社-20社くらいと面談して、営業しまくりました。旅行代理店のパッケージに体験コンテンツを組み込んだツアーは売れないのか?と色々と模索しました。その中で中流階級・富裕層向けに世界のディープな旅行プランを提供する香港の旅行代理店と出会いました。

その会社の責任者が1週間後にプライベートで日本に行く予定があるので、「あなたがベストだと思う体験を体験させてほしい」という機会をいただき、まだ3,4割しか完成してなかった体験を急ピッチで立ち上げて、体験してもらいました。
ハラハラドキドキでしたが、「こういうディープな体験を求めていたのよ」と評価していただき、そこから信用してくれ、仲良くなり何本もツアーを発注してくれました。送客は先方が行い、ツアー設計と現地アテンドはこちらが手配するという形でした。

この時はマネタイズよりは、お客様の反応を洞察していました。
お客さんはどういった時に喜ぶのか、楽しむのかに注目していました。
そしたら自然と売上や利益もついてきました。
これはアマゾンのジェフ・ベゾスも言っていますが、自社の製品やサービスを愛し、顧客を喜ばせることに熱中すると必然と大きな売上や利益は出てくるものだ、ということを実感した瞬間でした。

ーツアー事業での大事なポイントはなんだったのでしょうか?

ズバリ、ガイドさんです!野球で言うところのピッチャーですね。
ツアーはガイドさんの善し悪しがツアー成否の7割を占める、と言っても過言ではないくらい重要な役割です。直接会ったり、skypeで話したりして、最終的に誰に依頼するか決めました。最初関西ツアーを企画した時は大成功だったのですが、次に手配した岐阜のツアーでは、大手会社で30年以上やっていたベテランのツアーガイドさんでしたが、これが大ハズレでした(笑)。

泣きっ面に蜂状態だったのは、そのツアーで我々がアレンジした部屋が気に入らないとお客様からクレームが入り、急遽次の日のホテルを変更してほしいという旅行代理店から依頼があり、今後の関係性も考えて、前日深夜までホテル探しに奔走しました。手当たり次第電話して新しいホテルを予約したものの、キャンセル料や超直前の高いレートで、そのツアーの利益は全て吹っ飛びました(笑)。

白川郷オーバーツーリズム対策で地方創生大賞を受賞

ー そこからどのように白川郷の実績までつながったのでしょうか。

初っ端のツアーアレンジが散々で、「これで終わったな」と思っていましたが、がむしゃらにリカバリーショットを打ちまくって、なんとか関係性を保つことができました。
その後はユニークな旅行プランを提供すると、お客様や旅行代理店からの信頼も増し、どんどん仕事も頼まれるようになりましたね。そして、白川郷のライトアップツアーの企画・手配依頼があったのです。それが地方創生大賞を受賞した”白川郷のオーバーツーリズム対策”の話に繋がってきます。

この景色見たさにアジアから大量の観光客が押し寄せる!

雪景色の合掌造りにライトアップされた光景を見るためのツアーは、出発前からお客様の期待値はとても高かったんです。自分たちもツアーに同行してみたのですが、ライトアップ自体は素晴らしい景色でしたが、実際現地に足を運ぶと現地の運営や体制がとてもお客様をお迎えできるような状態でなく、お客様の不満がありとあらゆるところで勃発しました。
この時のガイドさんはとても素晴らしい働きをしてくれたんだけど、地域側のマネジメントができていなかったですね。現場のオペレーションは回っていないし、お客様もどうしたら良いのかわからず、当日はパニック状態の連続。合掌造り全貌を見ることができる展望台ではお客様が場所の取り合いでおしくらまんじゅう状態。

ツアーのお客様からは「こんな場所、2度と来たくない」という厳しい声をたくさんいただきましたね。とはいえ、商社時代身につけたリスクマネジメントのお陰で同ツアーの中に、飛騨古川の三寺参りというイベントを組み込んでおいたのでお客様のツアー全体の評価は下がることなく催行できました。

観光客は白川郷に行きたいと思っているけど、中にいる住民からすると人が多すぎて煩わしいという現状が蔓延していました。いわゆるオーバーツーリズムってことですね。住民はそんなに観光客が来てもどうしたらいいかわからないと言っていました。ツアーを組んだ時に感じた、村に入った時のウェルカムでない空気感の理由に気づいてしまいました。

2017年展望台整理券を待つ観光客の方々

ー そこからどのように地域に入り込んだのでしょうか?

2017年には、自分たちが地域の受入目線として関わってみたらどう感じるだろうと思い、ボランティアで参加してみました。4週連続で毎週末現地入りして、英語中国語を話せるボランティアを全国から25名集めて対応してました。その際、お客様の欲求や要望、不満点を聞き出すことに注力しました。実際現場に入ってみて感じたことは、当日の対応でどうこうできる問題ではなく、全体をマネジメントする制度設計が必要だということです。イベントでのボランティア終了後、役場や委員会に提言したけど、結局実行する人がいないということが判明しました。

しかし、言いたいことを地域に言いすぎたせいか、なぜかボランティアをクビになってしまった翌年の2018年。
仕方なくお客さんとしてイベントに参加してみることにしました。
駐車場での待機時間は長いし、現場スタッフの説明もよくわからないし、何より帰ってくる人の顔が楽しくなさそうでした。しかし自分たちが何か働きかけるより地域の人たちが自分達で気づいてもらうしかないと思い、特にこちらからアクションは起こしませんでした。
果報は寝て待て作戦です。

時の運というか、この年、たまたま世界的にオーバーツーリズムがトレンドワードになり、観光業界の話題になったんですよね。そのタイミングで、2017年ボランティア後に提案していたプランの実現可能性について地域の方からヒアリングがあり、2019年から完全予約制の導入を検討するということになりました。

施策やルール設計によりイベントは無事成功し、地方創生大賞をもらって評価してもらったけど、自分の中では失敗です。
あくまでも自分達は外野だから、地域の人たちが自走してイベントを開催し、お客様の満足度をあげるための創意工夫ができるようにしないといけなかったんですね。
課題解決が目的ではなく、お客様が継続的にきてくれるように満足度をあげていかないといけなかったんです。

地域の人たちが地域の課題を自分ごととして捉えて、地域の人たちが自らの頭で考え動いていかなければ地域の未来はないと思います。また来たいと思ってもらえるような場づくりにしていくつもりだったのに結局、課題解決だけに止まってしまいました。だから今では地域の人でもできるような形を作ることを意識しています。

ー その後、旅ジョブから、NOFATEに社名を変更したんですね。

2019年2月に変更しました。
”体験”コンテンツ提供だけでなく、地域の人たちが自分ごととして地域を経営していくという設計を作る必要があると、その中で僕たちにできることは何だろうと考えると、旅行ツアーの設計だけでは足りないと思ったんですよね。
事業開発や課題を伴走しながら進めていく会社にしました。

ーとても長くなりましたので、NOFATEでの活動は別の機会とします(笑)
本日はありがとうございました

Writer / Interviewer:南條佑佳

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