「好き!だからやる。」というシンプルさ。

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『書くこと=裸になること』としているなら、私は人前で裸になりたいのか?うーん、ちょっと違う。裸の付き合い並に、何も飾らない、風のように軽やかなコミュニケーションを取りたいのだ。

何も飾らないコミュニケーション。

文章を書くことが実は昔から好きだった。

心が落ち着くというか、頭が整理されるというか、自分を表現するというか、何とでも言えるが、たぶん何でも良くて、ただ文が出てくるからそれをアウトプットしたい、それだけなんだと思う。

でも書くというのは人前で裸になる行為だとも思っていて、というか、どこまで裸になれるかだと私は思っていて、本当は裸になりたいのにいつの間にかよそ行きのワンピースを着ちまった・・・みたいになるし、本当は見せるつもりのなかったボロボロの下着を見せちまった・・・みたいになるし、私は私が書きたいから書いているだけのに、見せた裸であわよくば何か得たい!みたいな自分を見つけて嫌になるし、アレコレ考えてる自分がバカらしくもなるし、「みんな、同じような道を歩んできたんだよね?」的に書いたつもりが「大変だったんだね」みたいな同情とも似つかぬなんとも言えんエネルギーを感じた時には死にたくなるし、とにもかくにも書くというのはパワフルな行為だけれど、静かな反逆みたいな、時には儀式みたいな、自分の一部のような、そうでもないような、『書く』というのは不思議なもんです。

『書くこと=裸になること』としているなら、私は人前で裸になりたいのか?うーん、ちょっと違う。裸の付き合い並に、何も飾らない、風のように軽やかなコミュニケーションを取りたいのだ。というか、そういうコミュニケーションが取れる人でありたい。そういう人間関係がいい。心の深い部分に傷があっても、それを同情し合うでもなく、無かったことにするのでもなく、当然とするのでもなく、治そうと躍起になるのでもなく、鼓舞するでもなく、その傷の存在を認めて、時間と知恵と勇気を使って少しずつ克服していく様子を、お互いが流れるかの如くサラッと見守るみたいな。

説教臭い熱い言葉って、何も響かないなって思う。ただ真っ直ぐな視線と真っ直ぐな生き方しか、人に響かないんじゃないかって。

「俺はこれが好き!だからやる。」

私は自分に素直に生きている人が本当に羨ましい。ド・ストレートに人の目を見つめられる人。自分の中に矛盾が無い人。「俺はこれが好き!だからやる。」みたいなシンプルな人。隣で誰かが「そうは言っても現実は無理なんだよ」なんて言っても、「へー、そうなんだ」って言いながら、実は何も聞こえてなくて、もう隣でやってる、みたいな人。「だから!現実は無理なんだって!!」って隣の奴が叫び出しても「へー」って言ってるもんだから、気がついたら隣の奴も何も言わなくなって、そしていつの間にか結局そいつも自分の好きなことをやってる、みたいな。「俺は好きなことが出来ると信じている。だからお前もやれるんだよ!」みたいな説教臭い熱いことは一切言わない、でも隣でブーブー言ってた奴が急に「俺、実は蕎麦打ってみたかったんだよね」とか言いながら蕎麦道具を磨き出すみたいな。

説教臭い熱い言葉って、何も響かないなって思う。ただ真っ直ぐな視線と真っ直ぐな生き方しか、人に響かないんじゃないかって。別に「言葉より行動だ!背中を見せるんだ!」なんて言いたいわけじゃなくて、真っ直ぐさが何かに響くような生き方が自然に出来たら素敵だなとは思う。でも、それって真っ直ぐさを望むとか望まないとか、そういうことじゃなくて、自分の内側なのか外側なのかわからないけれど、真っ直ぐさと出会うか出会わないか、みたいなもんだと思っていたりする。出会っても出会わなくても、熱いのがお好きな方は熱い人生を堪能したらいいと思うし、ただ響かせるという人生を堪能したい方はそうしたらいいし、全部自然な流れのなかでそうなるんだろうなと思う。いいじゃない、熱くても冷たくても、何でも。

透き通るような青空の下、洒落た折りたたみ自転車をダルそうに漕ぐ黒いターバンらしき布を頭に巻いたオッサンを見つけた。固定概念でインド人かと一瞬思ったけど、近くで見たら顔は純和風。改めて頭をよく見たら、オッサンはターバンを巻いていたのではなく、腹巻を頭に被ってた。帽子の代わりであってほしいとなんとなく思う。オッサンは何にも動じることなく、ゆるくジグザグに自転車を漕ぐ。どこに向かおうとしているのか。それともどこにも向かっていないのか。これが究極の「俺はこれが好き!だから、やる。」なんだろうか。何か響かせていたに違いない。

今日も皆、なんだかんだと元気に生きている。

明日もなんだかんだと元気に生きていく。


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