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1億人のアイドル史(大貫真之介『私がグループアイドルだった時』を読んで)

■ “アイドル戦国時代”の先に

 先日発売された大貫真之介『私がグループアイドルだった時 僕の取材ノート2010-2020』を予約して手に取った。大貫氏は坂道シリーズのインタビューで毎月のように名前を目にするライターであり、僕を含めを多くのファンにとっておなじみの存在といえるのではないだろうか。
 個人としてSNSで発信されている内容も含め、坂道シリーズを追いかけてきて8年目になる僕も、少なくとも一定以上には、大貫氏なりの視点からグループなりメンバーなりを見てきたといえるのだろう、と思う。

 正直、僕は坂道シリーズ以外のアイドルシーンには明るくない。ほぼ知らないといったほうがよいかもしれない。13人の“元グループアイドル”たちへのインタビューを編む形で構成されている本書のうち、坂道シリーズ出身なのは斉藤優里と今泉佑唯のふたり。顔と名前が一致しているのも正直このふたりだけで、名前を聞いたことがあるところまで広げても秦佐和子と槙田紗子がかろうじて、というくらいであった。
 副題が「僕の取材ノート2010-2020」とされているが、本書は2018年11月に始まる大貫氏の文春オンラインでの不定期連載に、書き下ろしとなるインタビューを加えて構成されている。それぞれの取材日は2018-2023年であり、副題にある「2010-2020」からはやや隔たりがある。
 では、「2010-2020」が何を指しているかといえば、個性あふれる数々のアイドルが現れた“アイドル戦国時代”そのものである、ということであろう。連載時代のタイトルはまさに「アイドル戦国時代を振り返る」であった。「振り返る」対象として過ぎ去ったその時代。そこにいたかつてのアイドルたちに“私がグループアイドルだった時”を振り返ってもらうことは、そのまま“時代”を振り返ることに重なる。

 しかし、本書はもうひとつ、ライターである大貫氏自らの目線から、その“時代”を振り返ってもいる。序章には、それは編集者からの要請であったとも記されているが、序章および最終章だけでなく、各インタビューの冒頭に数ページずつ、ライターとしての各メンバー/グループへのかかわりや思い出などについて綴られている。
 ライターである大貫氏自身のナラティブは、シーン全体を俯瞰するような部分もあれば、居ても立ってもいられずにライブに駆けつけた、のようなヒューマンな部分もある。あるいは、事務所と媒体の力学やライターとしての縄張りのようなもの(例えば、AKB48のメンバーの大半は取材できる立場になかったが、SKE48は事務所が異なるため取材できた、など)についてや、市場が縮小するなかで雑誌媒体やライターが少なくなっていったことなど、ファンの集合知や肌感覚の先にあるものについてもいくぶんか記されており、興味深く読むことができたし、それが1冊を通したひとつの軸して成立してもいた。
 「僕の取材ノート2010-2020」は、そうした点にフォーカスしてつけられた副題であるということだろう。

 通読してみた正直な感想は、わからない話だらけで、読んでいてもおそらく、“ついていけていた”とはいえないと思うのだが、でも「読めた」。それは、前述のような1冊を通した骨格がしっかりしており、背景にあたる部分はそこである程度補完されていたことと、インタビューという形式、および内容面の読みやすさによるものであろう、と思う。
 このnoteを読んでいるのは、距離感としては僕に近い、「アイドルといえば乃木坂46と、あとは昔ちょっと追っていたグループくらいしか……」という方が多いのではないかと思う。でも、僕の読みにくいnoteを読むくらい奇特で熱の高い方であるならば、手に取って損はしないと思う(むしろ連載の記事や名前の一覧だけを見て、「知らない子が知らない話をしている」と敬遠してしまうのはもったいない)。

■ 自分語りをします

 本の紹介はここまでで、ここからは僕自身の話をする。通読して感じたのは、自分はやっぱり「アイドルのファンではなく、坂道シリーズのファン」であるのだな、ということだった。
 リリースイベントや対バンライブと言われても実感としてはよくわからない。群雄割拠した各グループは「日本武道館にたどり着けなかった」のようにもまとめられており、日本武道館にはなんだかんだ毎年くらい足を運んでおり、東京ドームにも野球を見に行ったよりライブを見に行った回数が多い自分自身について省みると、そのような感想が身に迫ってくる。

 もう少しいえば、自分は当時の“アイドルシーン”には、年齢や住まい、人間関係など、条件のめぐり合わせがもっと良くても、たぶんファンとして入っていくことはなかっただろうな、とも思った。メンバーとの距離感、ファンどうしの人間関係。あるいは、外から見るとよくわからないことで争ったりもめたりしているような、そしてそれもエンターテインメントの一部に含んでいるような雰囲気。たぶん僕はそういうのが苦手でずっと“アイドル”を通ってこなかったんだろうな、ということを思い出した。
 僕が出会ったころの乃木坂46、欅坂46とそのまわりにも、そういう雰囲気がなかったとはいわない。なんならむしろ、先に挙げたような点については、当時はほぼ変わらずもっていたのではないかとさえ思う。でも、ひとつのジャンルとして大きなぶん居場所を見つけやすかったのだろう。ある意味ではカルチャーに馴染むのを諦めた僕でも、何千人も納めるライブ会場になら平和裏に席についていられる。文章を書くことでしか愛情を表現できないけれど、何万字書いても読んでくれる方はそこそこいる。ありがたいことだ。

 正直、僕は“勝ち馬に乗る”つもりで坂道シリーズのファンになった。以前にもどこかに書いたことがあるが、僕と坂道シリーズの出会いは、日曜深夜のテレビをザッピングしていたらたまたま「乃木坂工事中」がやっていて、そこに出ていた川村真洋が、少し前までお付き合いしていた女性とルックス的にかなり似ており、チャンネルを回す手を止めて二度見、三度見をした、という出来事であった。
 その日のうちに顔と名前が一致するようにはならなくて、「あの子は何者だったんだ」と毎週見るようになったけれど、あいにく川村はアンダーメンバーであったから出演回数は限られており、そうこうしているうちに気がついたら視聴習慣がついた、という流れである。これがたぶん2016年の頭くらいのことだっただろうか(遡って調べてみると、それはおそらく「日村賞総決算」の回で、「ひむろってぃー」のくだりを見たのではないか、というような気もする)。

 そして当然の帰結として、憂鬱な月曜から逃れるために夜更かしをしていた流れで「欅って、書けない?」まで見るようになった。長濱ねるだけ制服の色が違う理由を検索しようとするも、名前がわからないので大変だった、という思い出がある。
 そうこうしているうちにデビューシングルが出るという時期になり、「サイレントマジョリティー」がおおかたの予想を裏切る曲調であったことから、徐々に話題になり始める。僕もYouTubeでMVを見たりしていただろうか。記憶として確かなのは、4月6日の朝に「サイレントマジョリティー」をApple Musicのライブラリに追加して、聴きながら出勤したということである。
 アイドルのファンをやったことは全然なかったけど、メンバーの顔と名前もわかるようになってきたし、メジャーグループをデビューシングルから追えるというのはなかなか貴重な体験だろう。そんな思いで、自分は欅坂46のファンであるということにした。その日から7年以上が経つ。僕も欅坂46と一緒に何かにデビューしたのかもしれなかった。

 話が長くなってしまった。まとめると、「んー、せっかく彼女もいないんだし、アイドルでも推すかぁー!」のような感じでファンを始めたのである。
 なお、ここまでの話は近しい友人との飲み会では鉄板ネタにしており、そうした場では「そうやってキレイに道を踏み外しました」のようにまとめている。

■ “書く”ことに出会うまで

 2016年といえば、欅坂46のデビュー年であった一方で、乃木坂46は深川麻衣の卒業を経験し、「裸足でSummer」で齋藤飛鳥がセンターとなり、秋には「サヨナラの意味」が出て……という年であった。あるいは、ひらがなけやきが11人の1期生を迎えて走り出したタイミングでもある。現在の坂道シリーズにつながる形が形成されていった頃であったといえるだろうか。

 お作法を教えてくれる知り合いもいないので、「ペンライトは2本あったほうがいいらしい」「タオルもみんな持っていることになっているらしい(「裸足でSummer」)」など、全国握手会の会場でキョロキョロしながら少しずつ覚えていった。
 ちなみに欅坂46・2ndシングルの全国握手会には3会場ともに行っていて、日向坂46の改名デビュー期によくテレビ番組でネタにされた「ひらがなメンバーのレーンにファンがいなくて滑走路状態」はこの目で見ているし、なんならそこに加担してもいた(あれは1ミリも話を盛っていない、本当に数名のファンがCDを買い足してはぐるぐるしていたし、誰もいないレーンの向こうからメンバーがこちらに手を振っていた)。

 こうした期間があったことも効いて、この年の暮れごろには躊躇なく単独ライブに足を運べるようになっていた。「ひらがなおもてなし会」に始まり、「Merry Xmas Show 2016」、そして欅坂46「初ワンマンライブ」。ライブの沼に引き込まれていった。
 ここからずっと「行けるライブはぜんぶ行く」のスタンス(スケジュールはできるだけ調整するので、ともかくチケットが当たればよい)を続けていくことになる。予算制約みたいなものを設けた覚えもなく、ただただチケットが当たりにくいことだけが歯止めをかけているような感じである。

 自分は文章をよく書くほうだと思う。中学生の頃にブログが流行って、中2の冬から大学に入る頃まではずっと続けていた。長編小説を書くのに夏休みをぜんぶ使ってしまったこともあったし、ブログ・mixi・Facebook・Tumblr・noteなど、その時期に使いやすいサービスで随筆めいた文章を書くことも多かった。
 だから坂道シリーズに関しても、自分が何を見ているのかわかるようになってきた2017年くらいから、「何か書こう」という思いが生まれてきていたような記憶がある。
 欅坂46の全国ツアー「真っ白なものは汚したくなる」の千秋楽公演、ダブルアンコールの「自分の棺」と「不協和音」を体験した衝撃が本当に大きくて、「欅共和国2017」とあわせて何かを書こうと試みていたが、結局途中で頓挫してしまった。あるいは“欅坂46”と“ひらがなけやき”についても、何か書こうとしていたような気もする。それも形にはならなかった。
 結局のところ、雑誌やWeb媒体にはちゃんとしたレポート記事が出るし、知見もない一介のファンである自分に書けるものはない。Twitterに感想を書くくらいがせいぜいだ。そんな風に感じていたように思う。

 転機は、2017年10月の「アンダーライブ全国ツアー2017〜九州シリーズ〜」であった。僕はいまだに、ことあるごとに九州シリーズの話をしてしまう性質なのだが、そもそも“自分が何かを書く”の出発点がそこなのである。

 北野日奈子と中元日芽香、およびアンダー曲「アンダー」をめぐる状況は厳しく、いろんな人がいろんなことを言っていて、自分自身それがかなりストレスであった。それと重なるくらいの時期には、欅坂46が夏のツアーで苦しみ、平手友梨奈を中心とするグループの状態についての憶測が飛び交っていたこともあった。
 手がつけられない「推測だらけの伝言ゲーム」。そこから距離を置きたかったというのもあったし、九州でのアンダーライブ初演(10月14日、大分公演昼公演)を見て、会場が小さかったことに加え、中元がかなり率直な言葉でグループのことを語る場面もあったりして、「自分が書き残さないと消えてしまうものがある」という思いに駆られたのであった。

 千秋楽(10月20日、宮崎公演)を待たずに書き始めた記事は、帰京した翌日の10月22日には形になり、公開に至っていた。ライブのレポートという色は濃くなく、18thシングルの選抜発表に至る経緯から書き始められており、すでに現在のスタイルに近いな、と自分でしみじみ思ったりもする。
 千秋楽公演での中元と北野のMCが記事の決め手になったものの、自分が正確に記憶できているとも思わなかった。何か瑕疵があれば修正したり取り下げたりするつもりで、薄目を開けるようにしてネットの海を徘徊したが、正解といえるようなものは当然ない。九州シリーズにはメディアもほぼ入っていなくて(福岡公演3日目の、それこそ大貫氏によるライブレポートが『Top Yell』に掲載された程度)、映像も断片的にしか世に出ておらず、結局そのままになってしまっている。

 でも、直後に「嘘だけは書かないように」と心がけながら書いたものだから、そこまで外しているとも思っていない。いまでも九州シリーズについて書くときは、自分のこれらの記事にもとづいて書くようにしている。想像でいつの間にか埋められた記憶よりは信頼が置けると思うから。

 ちなみに、『私がグループアイドルだった時』における斉藤優里のインタビュー前の“振り返り”は9ページとかなりの分量が割かれている。大貫氏の経緯や手がけてきた仕事を考えるとそれは不自然というほどのものではないが、アンダーライブの話が始まると、九州シリーズ、「アンダー」、中元と北野、とあっという間に話が転がっていって、最後の最後になんとか身を翻して、斉藤優里で着地をしたような構成になっていた。
 激しく共感しつつも、僕のブログみたいだな、と少し笑ってしまった。やっぱりこの方に温度感をつくってもらいながらファンをやってきたのだと思うし、あるいは九州シリーズはそれだけ衝撃的な出来事だったんだなあ、としみじみと思ったりもする。

■ それぞれの“語り”で

 こんなに自分語りを続けて何が言いたいのかというと、もっとたくさんの人が、それぞれの目線から、それぞれの“語り”によって、見たものや経験したことを記録してほしいな、ということだ。それは、『私がグループアイドルだった時』を読んで感じたことでもある。
 そして、ここでいう「それぞれの“語り”」とは、そのときに自分が置かれていた状況、歩んできた人生のこともいくぶんふまえたり、直接書きこんだりしてもいい、ということを意味する。

 九州シリーズから3年ほど、北野と「アンダー」のことを軸に細々とブログを続けていた僕だったが、2020年7月16日に欅坂46が改名発表をしたことがひとつの転機となった。この間にも欅坂46に関してしっかりとは書いてこられなかったけど、ずっと追ってきたその欅坂46が終わってしまう。
 いま書くしかない、と追い込まれた気持ちになって、3週間で10万字を書き上げたのが、「菅井友香が『真ん中』に立った日」という記事であった。

 菅井友香を軸にグループの5年間を振り返る、というのは急な思いつきで、斬新なアイデアではないと思うが、そのときは「これしかない」と思った。そして、どうまとまるかわからないままに走り抜けたらこうなった、という仕上がりである。
 ブログの移転を経ているので細かいところはもうわからないのだが、おそらく僕が書いた記事のなかで最も多く(それもケタ違いのレベルで)読まれているのがこれであるはずだ。

 書くにあたって、メンバーのインタビューやブログをひたすら読み返して、あえて引用を増やした。公式サイトのニュースも結成からすべて見返して、どうにか現在までを1本の記事で書ききろうと試みた。
 そのなかで実感したのは、結局「自分の主観や印象で埋めないと文章がつながらなくなる」ということだった。「欅坂46の5年間をまとめました! いかがでしたか?」みたいな記事を書きたかったのではないものの、客観的な事実とメンバーの言葉で綴ることに徹しよう、という意識は当初は多少あって、しかしそれらを編むだけでは文章にならない。当たり前のことかもしれないが、そのことに改めて突き当たり、結果はそのまま書き進めるしかなかった。
 でも結局、それである程度、書かれた意味のある記事になったな、と思っている。自分がこんな視点を持っていることを世に知らしめたい、みたいな気持ちはあまりないのだが、でもそうでない文章として仕上げるならば、それはもうAIにでもやらせておけばいい。

 もっと「それぞれの目線から、それぞれの“語り”によって、見たものや経験したことを記録」されてほしい、と書いた。noteなり何なりでサジェストされてくる文章には“レポ”とか“感想”(※1回のイベントに対するものなど、対象とする時間をしぼりこんでいるもの)、“予想”や“考察”(※未来ないし語られていないことについてのもの)が多くて、それももちろんたくさんあっていいのだが、僕が言いたいものは少し違う。
 ある程度長いスパンで、グループや作品、メンバーのことを語るとともに、それを語っている自分自身のことも少し語ってもよい(語るほどにまでいかなくても、前提としてもっと意識されてよい)のではないか、ということだ。それはおそらく、本来切り離すことができないはずのもので、そしてある程度長いスパンで語るからこそ、“自分自身”もそこに立ち現れてくるのではないだろうか。
 ファンそれぞれに、いやファンじゃなくても、“アイドル”なるものとの出会いや接点、思い入れ(ファンでなければそれは負の値をとるかもしれないが)がある。1億人いれば、1億通りのアイドル史があるはずなのだ。

■ 思い出を残すこと

 自分が坂道シリーズについて書いてきた文章のなかで、どの記事のどの部分が好きかといわれると、ひとつ思いつくのは、「5年後のいま、『サヨナラの意味』を語りたい」という記事に書きこんだ、「橋本奈々未卒業コンサートで隣の席だった男性がライブ中にストロングの酎ハイを2缶飲みきった」エピソードである(「あの日の客席で(個人的な思い出話)」の項)。

 グループに歴史があり、メンバーに人生があるが、ファンにもそれぞれの人生がある。そうはいっても、全体としては事実関係や数字を並べて記事をつくってしまうので、たまにはこういう“人間”の話を混ぜ込んでおきたいな、という思いがある。あまりに関係のない話だと思うが、でも、当時の雰囲気をいくぶん切り取れている気がして、けっこう好きなのだ。

 これで味をしめたようなところがあり、北野日奈子の卒業コンサートについて書いた記事のなかでも、「モバイル先行が始まったその日に足を骨折して松葉杖生活になった」エピソードを書きこんでいる(「Road to ぴあアリーナMM」の項)。

 これらの部分はさすがにかなり雑談めいてしまうが、これらの記事自体は「サヨナラの意味」や北野日奈子といった、しぼり込んだひとつの縦軸のもとで、長いスパンを振り返りきる、といったスタンスで書いているものだ。
 noteで書いてきた記事にも、このような性質のものがけっこう多いように思う。

 これらはそこまで個人的なことを書きこんでいたり、関係ないエピソードを混ぜ込んだりしているわけではないが、テーマを絞って長めの時間軸で書くと、テーマの選定や時間の幅のなかに“自分”が顔を出すことがあるな、と感じる。

 好きでやっているとはいえ、長い文章を書くのはしんどい。いつまで経っても話が前に進まない、まとまらない、思っていた方向と違う方向に進んでいく、そんなことばかりで、見返りもない。もうやめたい、と思うことは意外とあまりないのだが、早く書き終わって楽になりたい、とはずっと思いながら書いている。
 そんな感じで頭を抱えているようなとき、心に浮かぶフレーズがふたつある。

 ひとつ目は、櫻坂46の振付師として(われわれには)おなじみのTAKAHIROが「僕たちの嘘と真実」のインタビューにおいて語っていた、「(大人の責任は)点ではなく線で見続けること」である。スタッフのひとりとしてグループにかかわっているTAKAHIROの発言に自らを重ねるのはやや異なるとは思う。でも、ひとときの熱狂で終わらない、できるだけきちんと経緯を追いたい、と思いながら書いているときに、「点ではなく線……」と繰り返し念じながら、粘ってキーを叩いたり資料を繰ったりしている。
 ふたつ目は、北野日奈子がベストアルバム「Time flies」発売に向けた「#わたしの乃木坂ベスト」のプレイリスト、「日奈子は味方だ!一緒に頑張ろうね。プレイリスト」のコメントに記した「私のこと、私の周りのこと、こんな物語もあった事を今までとこれからのファンの方に知ってほしい。」である。
 過去のことをほじくり返して何度もこすること、特に卒業メンバーの現役時代について、改めて文章に残し続けることには、迷いがないわけではない。大貫氏も著書において、アイドルの“物語”を編むことへの逡巡を綴っていた。“物語”に対する感想・感動が覆い隠しているものもあるし、“物語”に落とし込むことで捨象されるものもある。
 でも、そこに“物語”が在ったことは確かだ。「今までとこれからのファンの方に知ってほしい」と北野がいうのであれば、最後まで粘りきってやる。励まされて書き始めて、もう1年以上。頭を抱えながらも寄り道を続ける日々だが、遠くないうちに“物語”を書き切りたいという気持ちは変わらない。

 “物語”が必要なくなった人生を歩んだ長い時間の先、小さい頃に好きだった小説のページを再びめくるように、“物語”が大切な記憶として慈しまれるときが訪れればいい。それはたぶんメンバーでもファンでも、もしかしたらもう交わることがなくなったあとの未来においても、同じだと思う。


 なんか最後は自分のブログやnoteの宣伝みたいになってしまいました。ともかく『私がグループアイドルだった時』がオススメですよ、というのと、読んだらなんか自分の話がしたくなっちゃいました、というnoteでした。
 大貫さんのことなのか自分のことなのか混乱しそうなので、一人称として普段使っている「筆者」を使用することは控え「僕」としましたが、思ったより違和感が強くて戸惑いました。ブログを書くにあたって使い始めた文体だと思うのですが、かなり身に染みついているようです。

 ちなみに、このnote冒頭のアイキャッチ画像は、2017年10月14日の佐伯文化会館です。これも僕の“物語”の一部といえるでしょうか。

 最後にもう一度リンク載せときます。Kindle版も出ているようですので、ぜひ。


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