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花びらは散れども、花は散らない(櫻坂46「4th ARENA TOUR 2024」スタートによせて)

※ツアーの公演内容(セットリストを含む)についての言及が相当にあります。ご注意ください。

■ “櫻前線”のスタート

 櫻坂46「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?-」が、2024年3月2-3日のマリンメッセ福岡公演よりスタートした。筆者は幸運にも2公演ともに足を運ぶことができ、初演からすでに完成度の高い公演を目の当たりにしたほか、1日目のアンコールで行われた2022年11月以来の東京ドーム公演(ツアーの「追加公演」として)の開催発表にも立ち会うことができた。
 2021年から毎年開催されている櫻坂46のライブツアーは、2023年から開催時期を春に移し、桜の季節と重ねる形がとられている。さらに今年はタイトルに「櫻前線 -Go on back?-」とキャプションが付された。ツアーのタイトルにキャプションが付されるのは「2nd TOUR 2022 "As you know?"」以来2回目のことで、特に実際の桜前線が北上する3月にツアーを行うことを存分に使ったタイトルであるともいえるかもしれない。
 ツアーの日程も、福岡→大阪→愛知→神奈川と北上していく形がとられている。そして追加公演の東京ドームについても、神奈川よりもやや北にあるといえるだろうか(実際の桜前線は、近年はざっくりいえば関東以南は開花日にほぼ差がないような状態であり、今年は東京がいちばん早いくらいの予想になっているようだけれど)。

 グループは約1ヶ月前に小林由依の卒業を経ており、「何歳の頃に戻りたいのか?」は2・3期生のみを歌唱メンバーとして制作された初めての表題曲となった。いわゆる“新体制”での作品ということにもなるが、センターは山﨑天が務め、その両隣を固めるフロントメンバーには森田ひかる・藤吉夏鈴が据えられるという盤石の体制がとられている。
 田村保乃は「初めて曲を聴いたときから、『もうこれ“勝った”』と思うくらい好き」(「こちら有楽町星空放送局」2024年2月18日放送回)とも語っているが、メンバーもその仕上がりには自信をもっているようであり、ツアーについても、福岡公演2日目のMCで森田ひかるが「初日から緊張せずに楽しんじゃった」のように語るなど、メンバーそれぞれがのびのびとその力を発揮しているように映った。

■ セットリストをながめて

 福岡公演の段階のセットリストでは、ユニット曲は3期生5人による「Don't cut in line!」(7thシングル所収)のみにとどめられていた。ユニット曲の披露が少ないこと自体は「3rd TOUR 2023」から続く傾向であるが(「3rd TOUR 2023」ではユニット曲の披露がなく、「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」では1日目アンコールの土生瑞穂卒業セレモニーのなかで披露されたのみ)、3期生は11人、「コンビナート」は12人、8thシングルの選抜メンバーは14人、BACKSメンバーは12人と、公演を通してフォーメーションの規模感が維持されているという印象をもつ。
 それに加え、本編15曲を90分程度で終える構成にはいつも以上のスピード感があり、息つく間もなく走りきっていくような、その間ずっと会場の温度が上がり続けていくような、そんなライブであったと思う。

 坂道シリーズを3グループとも追いかけているのでどうしても比較で考えてしまう部分があるのだが、乃木坂46・日向坂46のライブには、セットリストに一定の“しばり”のようなものを感じることが多い。
 乃木坂46でいえば、全国ツアーは夏に行われるため、“夏曲”はセットリストの核として網羅的に演じられる形になることが定番であり、日替わりのユニットシャッフルも恒例といっていいだろう(ファン投票で楽曲が選ばれた「真夏の全国ツアー2021」がやや例外であるくらいだろうか)。
 日向坂46でいえば、「JOYFUL LOVE」「誰よりも高く跳べ!2020」については、どのライブでも定番をこえて“やらないといけないことになっている”という表現がしっくりくる。「NO WAR in the future 2020」と「キツネ」も、ほぼそれに準ずる位置にあるといっていい。長く続いているグループだから、時にはいつもと違うパターンのライブがあってもいいように思うが、ファンとともにつくりあげ、何なら選びとってきたといえる曲であるがゆえの動かしがたさというか、そういうものを感じることもある。
 “しばり”などというと語弊があるかもしれないが、「真夏の全国ツアー」に行くならば「裸足でSummer」でタオルを掲げる心づもりはしていくし、日向坂46のライブに行くならば自分の席は虹色のなかでどの色になるかは気にしていくものだろう。その程度のことととらえておいていただきたい。

 ひるがえって、櫻坂46にはそこまでのものはないな、という認識で筆者はおり、そのことによる自由さを感じたのが今回のセットリストであった。タオルを回す「ドローン旋回中」や、“スタオバジャンプ”の「Start over!」などは、ライブの定番とされやすい雰囲気を感じる楽曲であるが、それを判断できる時期にはまだ至っていないと思う。
 そもそも、本編でいえば序盤の「摩擦係数」「BAN」以外はすべて2023年以降の楽曲である。「Nobody's fault」“さえ”演じられなかった、と表現してもいいかもしれない(「Nobody's fault」は、「W-KEYAKI FES. 2022」の2公演目と「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」DAY2でも演じられていないが、もう1公演ではそれぞれ演じられていた)。3期生を本格的に迎えて行うツアー、という点もあったのかもしれないが、「とにかく現在のグループのパワーをぶつける」というような情熱を、客席で感じとった部分があった。

 昔の話をしてしまうが、欅坂46時代のグループにも、これと重なる印象をもっていた時期があった。2018年の「2nd YEAR ANNIVERSARY LIVE」では、前年の“全曲披露”のようなコンセプトは排され、「この1年」の楽曲を軸にセットリストが組まれていた(「サイレントマジョリティー」「世界には愛しかない」「二人セゾン」は、アンコールで演じる形とされた)。
 ただその後、リリースが滞る傾向があったこともあり、「持ち曲で新たなチャレンジをする」という方向でライブが重ねられる時期が続いていたように思う。そのなかで、「不協和音」や「ガラスを割れ!」の披露をずっと待ち構えていたような部分もあったようにも思うし、「危なっかしい計画」がセットリストにあることで、うまい言葉が見つからないが、ちょっとした安心を得ていたこともあったかもしれない。

■ そこにある“自由さ”

 卒業直前の時期に、長らくグループをフロントラインで牽引してきた小林由依は、ライブへの臨み方について、このように語っていた。

 確かに「2nd TOUR」でグループの地肩がすごく強くなった印象があります。小林さん的にも、「この方向性だ」と確信が持てたんでしょうか?
「そうですね……さっきもお話したように、最初の頃って欅坂と繋がっていた印象が自分のなかでもあって。メッセージ性の強さだったり、表現力についてだったり、そこにとらわれすぎていたような感覚があったんです。もちろん、それは大切なことではあるんですけど、櫻になってからは歌詞を深く考えることだけでなく、ライブ会場に来てくださった方々をシンプルに楽しませたいなっていう思いが、私の中では膨らんでいって。
(中略)
 そういう……1つのやり方にとらわれないビジョンが見えたのが『2nd TOUR』で、みんながそれぞれ『こうしたらいいんじゃないかな』と思って楽曲に取り組んだ結果、エンターテインメントに昇華されて一体感も感じてもらえる——っていうのが、櫻坂としてできることなのかなって。私はそう感じていたんです」。

『B.L.T.』2024年3月号 p.23

 ここには、櫻坂46がライブにおいて手に入れた“自由さ”のようなものの一端が表れているように思う。欅坂46は「“僕”の物語」という強力な縦軸のもとで、「曲を届ける」ことに精力を傾けてきたグループであった。披露するたびにその「物語」の世界は緻密になり、無限に広がってすべてを飲み込んでいったような部分もあったかもしれない。
 そうしたなかで生じた櫻坂46への改名はある種の革命であった。その物語世界(の大半)は手放され、そのなかで培われたパワーだけを秘めた、手ぶらの状態のグループが立ち現れたのである。そこから積み重ねられていったものは、欅坂46を源流としてもちながらも、それとは大きく違うものであった。

 あるいは、2期生がオリジナルメンバーとなってグループを牽引する形となったことは、現在のグループにつながる非常に大きな意味をもっていたといえるかもしれない。改名することへの受容は1期生のほうが早く、2期生はいくぶん戸惑いが続いていたように語られていたが、1期生は何よりも2期生のためにと、しなやかに改名に進んでいったように見えた。
 かくして生まれた「Nobody's fault」の“3人のセンター”は、今回のシングルのフロントとして居並んでいるだけでなく、「Start over!」「承認欲求」「何歳の頃に戻りたいのか?」と、ここ3作ではマルチセンターシステムを手放したグループの“センター”を務めてきた。
 マルチセンターシステム自体、「センターを孤独にしない」「全員で作品づくりに取り組む」という方針を、まずは形をもって表明するために考案された、労苦の所産であったようにも思える(あるいはそれに加え、「とにかく早く単独ライブが成立する曲数を」という部分もあっただろうか)。しかしそれが手放された現在も、センターは孤独でないし、作品は全員でつくられている。選抜制に移行したこと自体でなく、それがあまりにもスムーズに成し遂げられたことが、往時を思い出せば驚くべき事象だったと思うし、グループの強さだと思う。

 1期生、3期生をあえて省いて語りたいということではないのだが、現在グループの最多勢力であり、中心にいる2期生は、“櫻坂46のすべてを知っている”。だからこその“自由さ”もあると思う。彼女らが何をやってもそれが櫻坂46である、というのみならず、彼女らが何をやらなくても、彼女らは櫻坂46であるのだ。

 連想ゲームで申し訳ないのだが、思い出した言葉がある。ロシア革命の指導者であり、ソビエト連邦を樹立したレーニンについて、その革命に衝撃を受けた芥川龍之介が綴ったとされる詩の一節である。

誰よりも十戒を守った君は
誰よりも十戒を破った君だ。 

誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上った君は
誰よりも現実を知っていた君だ。

君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。

『芥川龍之介全集 第九巻』(岩波書店、1972年刊)p.472
(仮名遣いと漢字の表記を現代のものに改めた。)

 ここでいう「十戒」とはマルクス主義思想のことを指す。レーニンは「十戒」について誰よりも忠実であったがゆえに、その深い理解のもとで誰よりも柔軟に扱い(=「破る」)、革命を指導するに至った。しかしその思想は、彼の死後に社会主義圏が拡大するなかで、「マルクス・レーニン主義」として継承されるが、社会主義国の国是として教条化していくなかで柔軟性が失われ、やがて社会主義体制の崩壊につながっていく。
 櫻坂46が今後どのような道をたどっていくのかはもちろんわからないが、あまりにも“櫻坂46”を内在化したメンバーたちが、「十戒」を守り続け、そして絶え間なく破っているからこそ、現在のグループの魅力があると思うのだ。

■ 「ライブをつくる」こと

 小林が語った、「ひとつのやりかたにとらわれないで取り組むことで、楽曲がエンターテインメントに昇華されて一体感も感じてもらえる」という点は、ライブのなかでも形として現れていたように思う。

 ライブ序盤で演じられた「摩擦係数」は、“野生”チームと“理性”チームがメインステージとセンターステージに分かれて向き合い、「BAN」はセンターステージに配された「SKZ」のオブジェを隔てて、メンバーがお互いを背にするような形で演じられた。やや歴の長い部類に入る曲だからこその演出でもあったかもしれない。
 あるいは「Anthem time」と「ドローン旋回中」が、メドレーで交互に演じられるような形をとられたことは、「ライブ会場に来てくださった方々をシンプルに楽しませたい」というマインドのあらわれであったと思う。歌詞の世界観を重視し、フル尺での楽曲披露にこだわってきたグループとしては新たな形であったが、それにふさわしい楽曲でもあった。

 筆者の感覚がどれくらい現実をとらえているかは自信がないのだが、「あまり知らずに来ても楽しめるライブだな」と、今回は特に感じた。
 これまで述べてきたように、スピード感のある構成、かつ最近の楽曲で固められていたことに加え、盛り上がって楽しむ部分も明確であった。カップリングの新曲「何度 LOVE SONGの歌詞を読み返しただろう」と「油を注せ!」は、MVの世界観を導入したパフォーマンスであり、視聴していれば盛り上がれるし、知らなくてもMVを見たいと思わせるものだったのではないかと感じる。
 ペンライトを揃える楽曲が多いのは欅坂46時代からの思想的源流があっての傾向であるが、それがわかりやすい楽曲が多かったようにも感じる(赤は照明の演出に引っ張られやすい色であるように思うが、それがいつも以上に強調される形であった気がする)。日替わりで演じられた「静寂の暴力」での消灯も、パフォーマンスが進行するうちに徐々に広がっていったという感覚がある。「まわりを見てついていく」ことでも、一体となってライブをつくれる象徴的な場面だったと思う。 
 終盤はパブリックイメージ通りのアーティスティックな雰囲気で畳みかけるが、アンコールではハッピーに終わっていく。東京ドーム公演の発表があった1日目はもちろんだが、松田里奈の回しのもとで楽屋でのエピソードが次々に紹介された2日目もすごく印象に残っている。「アイドルのライブを見た!」という感覚が残る、とでもいおうか。

 それがことさらに強調される機会もあまりなかったことだと思うが、MCでは松田を中心に、「今回は全公演のチケットがソールドアウトした」ということが、「前年まではそうでなかった」ということとセットで、繰り返し言及されてもいた。
 東京ドーム公演の発表の際も、「今の私たちなら、自信を持って東京ドームのステージに立てると確信しています」という語りとセットで、前回の東京ドームには空席が残っていたことにも触れられていた。それを反省したり湿っぽくしたりするようなニュアンスはあまり出さずに語れるのは松田の明るさがあってこそだと思うし、何よりグループの良い雰囲気を反映しているのだとも思う。あるいはそれは、「(どんなバックグラウンドがあるとしても)あなたと東京ドームのステージをつくりたい」、という、客席のひとりひとりにあてたメッセージでもあったかもしれない。

■ "Go on back?"

 話を少し戻すが、櫻坂46の3年半の歩みは、「とにかく未来へ進むんだ」と念じて戦い続ける日々であったように感じており、それはむしろここのところ強まっているように思う。筆者個人の、きわめて感覚的な部分でいえば、それは「もう少しのところまできている」ような、そんな気もしている。

 “櫻坂46のすべてを知っている”2期生が、グループを強烈に牽引していく一方で、1期生は同じ日々をともに歩みながら、自ら手を下す形で、繰り返し「櫻坂46は欅坂46ではない」と、一定の線を引き続けてきたように思う。
前稿にも綴った部分が大きいので詳しくは踏み込まないが、1期生の卒業の機会以外ではほぼ欅坂46の楽曲には踏み込んでこなかったし、いまにして思えば、そうした“欅曲”の披露機会も、「解禁」などではなく「区切りをつける」、より強い言葉を使うならば「終わらせる」ためのパフォーマンスだったのではないかと感じる。
 あるいは「新参者 LIVE at THEATER MILANO-Za」千秋楽公演ダブルアンコールで3期生が演じたのは「語るなら未来を…」だった。この話は繰り返ししてしまっているのだが、いよいよ本当に、語るのは「未来」にせよということなのかもしれない。

 こうしたなかでリリースされた「何歳の頃に戻りたいのか?」も、強烈に未来が志向された楽曲である。「過去に 戻れやしないと知っている/夢を見るなら 先の未来がいい」と、“新体制”の櫻坂46が宣言する。「思い出の日々は普通だ/目に浮かぶ日々は幻想」「大人になったその分だけ/青春を美化し続ける」と、過去とは美化されるもの、という普遍性のあるテーマを叩きつけ、「本当に あの頃 そんな楽しかったか?」と問うばかりでなく、すぐさま「きっと 特別 楽しくはなかっただろう」と言い切る。
 しかし、終盤のCメロでは「今が過ぎる足音が聴こえなくて/こんな今もいつの日か輝くんだ」と、「大人への階段」を進めば、現在もやがてその過去になることとも向き合われている。

 筆者は初めてこの楽曲を聴いたときから、「過去のすべてを燃やしつくしてでも現在を輝かせる」かのようなイメージを、歌詞の世界観に対してというよりは、それを歌い演じるグループに対して抱いており、それは今回のライブでさらに強まったように思う。
 セットリストではその前に据えられ、同じく未来が志向された楽曲である「Start over!」も、「今日までずっと持ってたものなんてどうでもいい」「今しかない 後にはない/逃げてる今の自分 目を覚ませ!」と強烈に突きつける。センターの藤吉夏鈴は「グループを(前に)進められたきっかけとなった曲」(「Venue101」2024年1月27日放送回)と語るように、この楽曲でグループが、手を伸ばした“未来”に向かって指をかけたような感覚がある。
 そして「何歳の頃に戻りたいのか?」と今回のツアーは、その“未来”をつかみ取るための最後のひと踏ん張りであるように映り、その最終地として東京ドームが選ばれたのは、非常に象徴的なことだと思う。

 「何歳の頃に戻りたいのか?」は“Go on back”と歌うが、ツアーのキャプションは“Go on back?”とクエスチョンマークが付され、「戻るのか?」と問いかけている。東京ドームは“3回目”だが、しかしそこは回帰する場所ではなく、新たにたどり着く場所なのだと思う。
 そして櫻坂46は、過去のすべてを燃やし尽くしてでも、そこに最高のステージをつくり上げるのだと思う。春の訪れとともにあっという間に北上した櫻前線は、もう後に戻ることはないのだ。

■ 「花びらは散っても花は散らない」

 過去のすべてを燃やし尽くしてでも、と繰り返していると、それがいかにも絶望的な営為のように聞こえてしまいそうだが、いうまでもなく決してそんなことはない。どうあっても未来に進んでいくしかない、そうした思いと決意がそう見える、という話である。
 「花びらは散っても花は散らない」という言葉がある。これは浄土真宗の僧侶であり仏教思想家である金子大栄が『歎異抄領解』において記したもので、「形は滅びても人は死なぬ」と続く。無常なるものに対する普遍的な感じ方を反映するようなニュアンスがある。

 ある程度長い期間、こうしてアイドルグループを追ってきて、いつからかずっと「無常」のような感覚を携えてステージに目を向けるようになった。すべてのものは常に移り変わり、永遠に同じ状態をとるものなどあり得ない。そもそも人間の時間は有限であるから、あえていうほどでもない、当たり前のことなのかもしれない。でも、形をもってそれを見せつけられ続けると、心がそれを学習してしまう。
 毎年訪れる桜の季節は、毎年同じように驚いてしまうほどに短く、あれほどに咲き誇る桜の木の中に、散らない花びらはない。しかしそれは桜が失われるということではないし、それを美しいと思った自分自身が失われるわけではない。「花びらは散っても花は散らない」のである。

 日替わりで演じられた「マモリビト」は、センターの小島凪紗が天井から降りてきた光を優しくつかみ取るような演出から始められた。その歌詞は「私はマモリビトだ 櫻の木のマモリビト」と歌う。「先人」に思いを馳せ、「今度は私たちの番だ」と「責任」を口にする。新たにアイドルになったメンバーたちには、もっとどこまでも自由であってほしいな、と感じる部分も正直あったけれど、でも、ちょっと違ったかもしれないな、といまは考えている。
 「咲かない人は、いない。」のであり、そこに自由に花をつけること自体が、「櫻の木のマモリビト」の役割なのだろう。そして櫻がそこにある限り、季節が過ぎてしまっても、その花は永遠に散らない。

 その一瞬を見届けることができていることに喜びを感じながら、これからもその姿を追い続けていこうと思う。


 思いのままに一気に書き上げてしまったこともあり、ぜんぜん整理もされていないし、何が言いたいのかわからないようなnoteになってしまいました。とにかく、福岡公演良かった! ってことです。
 来週の大阪公演(2日目、3/13)にも足を運ぶことができるので、それも楽しみにしたいと思います。まあ、愛知公演以降はチケットがないのですが、そこは満員の東京ドームに自分の席も用意されることを祈ることにして。

 あとひとつ、流れに位置づけられなくて書きそびれたことなのですが、今回のセットリストにおいて3期生が加わらない編成で披露されたのは、「Anthem time」とのメドレーで披露された「ドローン旋回中」と、2期生曲の「コンビナート」を除くと、「Start over!」のみでした。
 3期生がこの1年ですでにあまりにもグループと一体になっていることに改めて驚くとともに、まだオリジナルメンバー以外が一度も加わったことのない「Start over!」という楽曲の存在感について思われる部分もあります。
 小林由依さんと土生瑞穂さんはグループを卒業しており、さらに休業中の小池美波さんを欠く14人のフォーメーション。全員が一体となって見せる場面も多いそのパフォーマンスが、まだオリジナルメンバーによって担われていることには、独特の情念を感じてしまいます。
 グループのすべてを知る“1・2期生”がつくる心臓が、ステージに、客席に、変革期にあるグループに、血液をめぐらせているような、そんなふうにも見えました。

 3期生の加入時に書いたnoteから、ほぼちょうど1年です。“花”の話ばかりしていて進歩がないですが、グループの歩みのぶん僕も前に進めてもらえているような感覚があります。

 写真は今朝、始発の地下鉄に乗るために歩きながら撮った博多駅です。けっこう無茶な日程を組んだ気がしますが、それだけの価値はあったな、と思います。

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